道標

 遥と口を聞かなくなってから約一週間が経った。未だに仲直りは出来ていない。

 遥は最近毎日部活に行っているようで、僕が気付いた頃にはすでに教室から居なくなっていることが多い。僕はといえば、最近は学校に身を置いていられなくて、真っ先に帰宅することがほとんどだ。

 今日こそ、今日こそと思っても、遥から避けられているので近づくことすら出来ずにいる。…なんて、本当はそんなことはただの謝らない口実であって、実際は僕が近づこうとしていないのだ。そんなことは僕にだって分かっている。

 放課後、僕は久しぶりに陸と一緒に下校をしていた。事情を話すと、陸は急に僕の腕を掴んで方向転換をした。陸は、どこへ向かうのかは何も告げなかった。


「…で、なんでここなの?」

「落ち着いて話したいじゃん?」


 言われるがままに連れられてきたのは、煉瓦造りの喫茶店。少し前までは三人で来ていた場所だ。陸が机にメニューを広げたので、僕ものぞき込む。


「俺ホットコーヒー」

「え、陸ってコーヒー飲めるの?」

「まあ、飲めなくはない」

「へえ。じゃあ僕はホットココアで」

「またココアかよ!」


 陸は苦笑しながらベルを鳴らし、店員さんを呼んだ。注文を済ませると、陸は一口水を飲んで僕の方へ向き直った。


「優、これ」

「え、何?」


 陸が鞄から取り出したのは、一枚のプリントと2Bの鉛筆だった。それを僕に差し出し、次には水の入ったコップを机の中央に置いた。


「描け」

「…え?」

「早く。そのコップを描け」


 陸が急かすように言うので、僕は鉛筆を取ってプリントの裏面にコップのあたりを描きつけた。おおまかにあたりがとれたら、今度は細部を描き込んでいく。コップがつくりだす陰影と、揺らめく水が映し出すハイライト。机の木目は水とガラスを通って屈折し、ウェーブがかかったようだ。コップの表面は僅かに結露していて、水の中には小さな気泡が見える。

 沢山の要素を、見たままに紙に描き出す。レトロで古風な雰囲気は、陰影を少しだけ濃く塗ることで表現をした。満足いくまで鉛筆を振り回す。その間は、まるで時が止まっているかのようだった。

 気がつくと、僕の目の前にはホットココアが置いてあった。このまま描き続けていてもきりが無いので、そこで描画を中断した。


「ん、描けた?」

「まだ描き足りないところはあるけど、とりあえずは完成かな」

「見ていい?」

「うん、いいよ」


 そう言うと、陸は目を輝かせて僕の絵を持って行った。その数秒後、どんな感情なのかはよく分からないが、うおお、という声があがった。


「すっげー、水の透明感もレトロ感もめっちゃ伝わってくる!」

「そうかな…」

「うん、初めて見ても伝わる!その店の雰囲気が手に取るように分かる」


 絵を褒められるのは久々なので、なんだか小っ恥ずかしい。僕は照れ隠しにココアを飲んだ。温かいココアが体の隅々を温める。ほのかな甘さとココアの少しブラックな風味が口の中いっぱいに広がり、一気に幸福感に包まれた。


「だけど、まだ筆に迷いがあるな」


 突然の指摘に、思わず肩がはねる。机にココアを置き、もう一度自分の絵を見直す。確かに、描いているときも筆が進まないことがあった。しかし、それが絵の印象としてあがるとは思っていなかった。この陸の洞察力というのは、一体どこから養われているのだろう。


「自信がない感じ。思うように描けてない」

「なんで分かるんだよ」

「いろんな作品を見てりゃ分かるよ。コンクールなんかで受賞してる作品には、自信が満ちあふれてる」

「コンクールって、お前絵のコンクール興味あったのか?」


 陸はきょとんとして首を傾げ、直後に驚いたような顔をした。


「もしかして、お前コンクールの件知らない?」

「え、何それ?」

「美術部のコンクールの結果が発表されたんだよ」


 陸が平然と言うので、思わず目を丸くする。一体どこからそんな情報を得たんだ。僕の耳には全く届いていないのに。


「結果、見に行くか?」

「見に行くって?学校に掲示でもされてんのか?」

「いや、受賞作品は美術館に特別展示されてんだよ」

「え、うそ」

「マジか、お前」


 陸は信じられないという顔をしてコーヒーを口に含んだ。


「この間美術部員が宣伝してたぜ?」

「聞いてなかったかも」

「ぼーっとしすぎだろ」


 自分でも驚いた。遥とのことがあって、ここ数日は頭が空っぽの状態が続いていたのだが、まさかここまで話を聞いていないとは思っていなかった。


「で、行くの?行くならチケット取るけど」

「え、取ってくれるの?」

「うん、俺も行くし。ついでにな」


 どうしよう。

 遥が頑張って描いていた作品。入賞していたら、もちろん嬉しいことだ。だけど、僕なんかが行っても良いのだろうか。遥は嫌じゃないだろうか。

 行きたい気持ちと不安な気持ちが胸の中でゆらめく。僕は頭を抱えた。そのたった数秒後、スマホを触っていた陸が口を開いた。


「チケットとれた」

「え?」

「優のも取ったから。行くぞ」

「…え?」


 まだ返事もしていないのに。とは思ったが、美術館へ行く名目のようなものは出来たので、心の中で少しだけ感謝をした。


「いつ?」

「んーと、明後日だな。何時に集まる?」

「じゃ…十時頃でどう?」

「いいな、そうしよう。どこで待ち合わせる?」

「うーん…駅、とか?」


 遥と美術館へ行ったときも駅だったので少し抵抗があったが、それ以外に集まるような場所も無かったので、駅で待ち合わせということに決定した。

 それから一時間程二人で話し、陸がコーヒーを飲み終わったところで喫茶店を出た。帰路につくと、陸は僕のリュックを指さした。


「カメラ、入ってんの?」

「え?いや、入ってないよ」


 遥と喧嘩をしてから、なんだか写真を撮ることがいけないことな気がしていた。だから、最近はカメラを全く持ち歩いていない。それを陸に話すと、陸はそんなことは無いだろうと否定をしてくれた。しかし、僕には罪に思えて仕方がないのだ。

 ある日の下校中、遥は僕に言った。『今日の優が好き』だと。僕らは冗談かと疑いながら、告白じゃないかと遥を揶揄うように笑った。その場はそれで収まっていたが、僕はずっとその言葉が気にかかっていた。

『今日の優』とはなんだったのだろう。『今日の優』と『今の優』は何が違うのだろう。いつも脳裏に浮かんでいた疑問。あの日、僕は何か特別なことがあっただろうか。

 考えてきた中で、思い当たるのはただひとつだけ。それは、カメラだった。

 あの日、僕はカメラを鞄からほとんど出さなかった。強いて言うなら喫茶店のココアを一枚写真に撮ったが、それ以外は全くだった。遥はもしかしたら、そのことを暗示していたのかもしれない。

 僕はそれに気が付いてから、写真を撮るのが怖くなった。写真を撮るのはいけないことなんだと感じた。だから、今日だってカメラは家に置いたままだ。


「そういうことじゃないと思うけどなぁ」

「だって、それぐらいしか思いつかないし」

「うーん…なんかさ、あのときの優って、どこに遊びに行くにもカメラ持ってたじゃん」

「うん、持ってた」

「遊びに行く目的が写真撮影になってなかったか?」


 そんなことはない。

 否定しようと口を開いたが、上手く言葉が出なかった。吐いた息は白く染まり、少し薄暗い空に消えた。


「だろ?」

「…そうかも」

「それが桜井には嫌だったんじゃねーかな」

「そうなのかな…」


 だとしたら、仲直りしてからの間、僕はずっと遥を傷付け続けていたことになる。初めは遊びに行ったついでに写真を撮っていたが、陸の言う通り、最近では写真を撮るために遊びに行っていたようなもので、遥もそれを感じ取っていたのだろう。あの日、僕が河川敷へ行ったのは、夕日を見るためだった。それが、遥には嬉しかったのかもしれない。

 様々な後悔が脳裏を駆け回る。早く気が付かなかった自分が情けなくて仕方がない。今更気が付いたって、もう遅いのだ。

 僕が頭を抱えたとき、陸とは違った、聞き覚えのある高い声が耳に入った。


「あ、またあの猫」


 顔を上げると、道の真ん中にキジトラ模様の猫が座っていた。にゃあん、と鳴くその猫は、僕たちに背を向け、尾を振っている。可愛らしい鍵尻尾だった。


「可愛いよな、あの猫。どっかの飼い猫かな」


 その言葉に反応したように、僕の心拍は突然速くなった。僕は目の前の猫から目が離せなくなった。あの猫は、最近によく見かけるようになった仔だ。見覚えのある猫だとは思っていた。

 ピンク色の首輪。茶色のキジトラ模様。綺麗に折れ曲がった鍵尻尾。他の猫より一回り小さい身体。

 まさかと思い、息を呑む。


「お前…っ」

「ん、優知ってんのか?あの猫」

「あの猫はっ」


 そこまで言うと、猫は腰を上げてどこかへ走り去ってしまった。

 もしかすると、あの猫は…。


「行っちゃったな〜」

「そうだね…」


 陸は残念そうな顔をしながら、再び歩を進めた。僕もそれに着いていく。

 それから陸を家まで送り、お礼を言ってから自宅へ向かった。その間、見かけた猫のことで頭がいっぱいだった。


 その日の夜、僕は部屋の窓を開けて夜空を眺めていた。部屋にあった水彩絵具を使って、夜空を紙に描き出す。真っ暗な空に、白色や赤色の星が点々と光っている。それを見ていると、なんだか心が落ち着くのだ。

 ここ一週間で、何が起こったのか。

 僕は、何がいけなかったのか。

 僕は、これからどうしたいのか。

 僕は、これからどうするべきなのか。

 頭の中を整理して、もう一度考える。まずは遥に謝ることからだ。情けなくて、卑小で、どうしようもない僕を変えたい。一歩踏み出さないと、何も変わらない。だから。


 来週の月曜日、謝ろう。


 僕は決意を胸に、部屋の明かりを消した。沢山の後悔を抱えて、夢に落ちた。








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