絵を描くこと
「ちょっと」
足下を横切った猫は僕をチラリと見ると、そのままどこかへ行ってしまった。茶色の小さな猫。ちょうど九十度に折れ曲がったその尻尾を、こっちをあおるようにしてフリフリと振った。
「つむぎ、だよな。待ってよ」
走り去ろうとしたつむぎに声をかけると、つむぎはまるで時が止まったかのようにピタリと動きを止めた。
「ほら、ご飯やるから。ちょっと話そうぜ」
ああ、僕、猫と話している。側から見ればただの変質者だ。不覚にも自分のおかしさを自覚し、肩を落とす。すると、つむぎはこっちを振り返ってにゃあんと鳴いた。
「食うか…」
僕は家から持ってきていた紙皿に、コンビニで買ったウェットフードを入れた。つむぎはふんふんと匂いを嗅ぐと、控えめではあるが食べ始めてくれた。
「美味しい?」
返事など当然せず、黙々と食べ続けるつむぎ。腹が減っていたのだろうか。自らの本能に従うままに、はぐはぐと音を立てて腹を満たしていく。気が付いたらカメラを構えていた。パシャリと音を立てて写真を撮ると、つむぎは驚いたように身体をびくつかせた。
「お腹すいてたんだな。見つかって良かったよ。お前、餓死するところだった」
「見つけたッ!!!」
突然、静かな暗闇を切り裂くような女性の叫び声が聞こえた。振り返ると、ショートヘアの女子が伺うようにこっちを見ていた。彼女は僕を見ると少し動きを止めたが、気にしない様子でこっちまで歩いてきた。すぐ近くまで来ると、彼女はまだフードを食べているつむぎを抱き上げ、すぐに踵を返した。
「待って、その子は…」
僕の、友達の飼い猫で。
出かけた言葉は暗闇に消え、口すらも開かなかった。こっちを睨みつける目、ふわりと香る匂い、街灯に照らされて透ける、少しだけ色素の薄い髪の毛。見覚えがあったのだ、その全てに。そして、さらに目を奪われたのは…
「良かった、見つかったんだな」
少女の後ろに立った陰。短髪なその男は、優しく彼女に微笑みかけた。
「夜にごめんね、ありがとう」
「いいよ。送ろうか」
「近くだから大丈夫。またね」
「分かった、気をつけて。」
「また月曜日に」
彼女は再び後ろを振り返ると、軽快なステップで走り去った。短髪の男がこっちを振り返りながらスマホを開く。さっきまで逆光で見えなかった顔が、はっきりと浮かび上がった。その顔は、紛れもなく親友そのものだった。
「り、く…」
「奇遇だな。なにしてんの」
「お、お前こそ。何してんだよ。てか、さっきの…」
「ああ、桜井からメールがあってさ。猫を捕まえに行くから着いてこいって」
遥が、陸に。それだけなのに、何故か胸がざわついた。あの髪の短い女子は、やはり遥だったのだ。
「で、お前は?家出?」
「まあ…そんなとこ」
「だろうな。さっき優樹さん見たぜ」
「え、優樹を?」
陸はコクコクと頷くと、肩にかけていた鞄から何かを取り出した。長方形の紙切れ。鮮やかな色がついたそれを、陸はひらひらと振って僕に見せる。
「行くんだろ?」
それは、美術館へのチケットっだった。そういえば、まだ紙媒体のものはもらっていなかった。陸はもう一枚鞄から取り出すと、僕の胸に押しつけてきた。
「早く和解しろよ。お前がそこなんとかしねえと、俺も協力出来ない」
「そう、だよね」
「明日だからな。今日中になんとかしろ」
「…はい」
僕は陸からチケットを受け取ると、すぐに家の方向へ体を向けた。すると直後、後ろから陸にトンっと背中を押された。倒れそうになり、一歩踏み出す。そのまま、僕は次の脚も踏み出した。
「行ってこい、優樹さんには俺から言っておくから」
「ありがとう、またあした!」
かかったエンジンをそのままに、僕は家に向かって走りだした。冷たい空気が僕の頬を焼いていく。ゆがむ視界と、荒れる息。高鳴る鼓動に、震える脚。
ああ、僕、生きている。
家に着いたのは、それから約十分後だった。玄関のドアノブに手をかけ、硬直する。ついさっきまで走っていたのに、今は指一本ですら思い通りに動かせない。僕はその場で大きくため息を吐く。
「おかえり」
「うわあぁッ!」
「あっはは、ごめんね。そんなに驚くとは」
背後に居たのは、走って帰って来たのか、少し息を切らした様子の優樹だった。その安心感に、思わずへたり込んでしまう。
「ちょっと、大丈夫?」
「ううっ、ゆうきぃ…」
「泣かないよ、大丈夫だから。」
そう言われても、溢れる涙は止まらない。僕が玄関の前で泣きじゃくっていると、突然体がふわりと浮き上がった。
「寒いから、とりあえず中に入ろうね」
どうやら、優樹に担がれているらしい。ジタバタしてみても離してくれる様子はなかったので、僕は諦めて優樹に運ばれた。
リビングに入ると、優樹は僕をソファに放った。そして、何も言わずにどこかへ行ってしまった。今、僕の目の前には髪が乱れた母親がいる。母親はピクリとも動かず、当然声も発さない。
そのまま数分間、僕は沈黙に身を置いていた。早く戻ってきてくれと、心の中で何度も兄を呼んでいた。
「あれ、もしかして何も話してないの?」
話し合いが進まない様子の僕たちを伺うように、優樹はひょっこりと顔をのぞかせた。僕が見つめると、優樹は苦笑しながら間に入ってきた。
「母さん」
「優樹、あなた、この子の将来のことを…」
「今更何?さっきまでそんなこと話さなかったじゃない」
「それはっ…」
「俺に話したことを、そのまま優に言えば良いんだよ」
母親は、顔に苦悩を浮かべた。一体、僕がいない間に何があったんだ。
「やっぱりダメよ、絵は認められないわ」
「母さん、いい加減にして」
「何の価値にもならないもの!」
「価値なんかいらないんだよ。そう言ったはずだけど?」
優樹と母親の間に火花が飛んだ。優樹は、怒ると意外と怖い。叱られてもさして怖くはないが、怒られるといつも背筋が凍る。
「でも、それじゃあ…」
「どうして価値に固執するんだよ。お金ならもうあるじゃん」
「これでもギリギリなのよ!」
「父親が失敗したから?」
核心を突くような一言だった。小さく、細い声だった。しかし、絶対に折れない強さを感じた。
「父親が上手くいかなかったから、ダメって言うの?」
「っ…」
「おかしいよ。優と父親は違う」
「一緒よ!才能の無いやつの子供だ!才能なんかあるわけない!」
「うるさい」
「はあ?!」
冷たい声。母親を睨む兄は、とても優樹には見えなかった。正直、何の話をしているのか僕には分かっていない。きっと、僕が相当小さいか、産まれる前の話をしているのだろう。
「たしかに父さんは失敗した。絵で食っていくなんて出来なかった」
「そうよ!あんたはあの男を庇うつもり?!」
「論点ずらさないでくれる?僕は、父さんの絵は素敵だと思っていた」
「どこが!」
「でも、母さんは好きじゃなかったんでしょ」
「当たり前よ、あんなの…」
歯を食いしばる母親。ほぼ親子喧嘩だ。しかも、発端の僕は置いてけぼりで。一体どんな顔をしていれば良いんだ。
「同じだよ。母さんが優の絵に魅力を感じなくったって、優の絵を好きだと言ってくれている子は居るんだ」
「けどっ…」
「それに、父親が上手くいかなかったからって、優が成功しないと決めつけるのはあまりにも勝手が過ぎる。そんな理由で優のチャンスが奪われるなんて、絶対にあってはいけない。俺は、それを許せない」
冷酷で、でも心のこもった言葉。母親は黙ったまま何も言わない。
「さ、俺の気持ちは話したよ。後は本人同士で話して」
突然話しを振られ、狼狽える。母親は言葉を発しようとしない。僕が話さなきゃ、なにも始まらない。
話さなきゃ。
僕は服の裾を握り、口を開いた。
「朝も言ったけど…僕は、絵も描きたいし、写真も撮りたいんだ」
「どうして?あなたに得なんてないでしょう?」
「楽しい、からだよ」
「楽しい…?あんなの、何が楽しいの?」
それは、純粋な疑問だった。絵を描くこと、写真を撮ること。その楽しさが、母親には理解しがたいらしい。さっきの話からして、父親は絵画で生きていこうとして失敗したのだろう。簡単にいえば、売れなかったということだ。父親は、絵画を仕事とした。それを見ていたから、母親は絵に価値を求め、その行為について娯楽だと感じられないのだろう。
「僕には、楽しいんだ。好きなんだ、絵を描くのが」
「…」
「認めて欲しい。その代わり、勉強はちゃんとするから。…お願い」
「はあ…もういいわよ…」
その言葉と同時に、優樹が少し笑顔になった。突き放されたのか、あきれられたのか、認めてもらえたのか、僕には判断がつかなかった。しかし、母の顔はさっきより少しだけ明るくなっていた。
「いいの?いいってことなの?」
「そこまで言われたら、ダメとも言えないじゃない」
「…良かったね、優」
優樹が、ふわりと僕の髪を撫でた。母はどこか悔しそうな顔をしている。何か言いたげな顔をする母に、優樹が一言お礼を言った。
「ありがとう、母さん。」
「あ、ありがとう」
僕も続けて言うと、母は照れくさそうにそっぽを向いた。
「成績が下がったらまた考えますからね」
「はあい」
母は立ち上がると、台所の方へ何も言わず行ってしまった。兄と僕だけが取り残されたこの空間に、温かい空気が流れる。
「優樹、ありがとう」
「いいのいいの。良かったじゃん」
「うん。良かった」
そんな中身のない話をしていると、台所から戻ってきた母が机の上にカレーを置いた。湯気が立ち上るカレーを見ると、お腹がぐうと音をたてた。
「食べなさい。お腹すいたでしょう」
「わあ、ありがとう!」
談笑しながらカレーを頬張る。こんなに幸せな日常が、これまであっただろうか。もはや何年ぶりかも分からない幸せを、僕は大切に頬張った。
寝る準備を済ませて自分の部屋へ戻ろうとしたとき、母親から声をかけられた。悲しそうな目をした母親は、僕が振り向くとニコリと笑った。
「優、ごめんなさい」
「え?」
「私、あなたに酷いこと言ったわ」
相当怒られたな。母がここまでシュンとしているのは初めて見た。
「僕も、カッとなっちゃって。母さん、今日はありがとう」
「…うん。頑張ってね、色々」
「ありがとう。」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
母親に手を振り、階段を上がって自分の部屋に戻った。すると直後、優樹が部屋に入ってきた。
「お疲れ様」
「優樹…ありがとね」
「いいよ。ていうか、優はお父さんのこと知らないんだっけ」
「あ…うん、知らないかも」
優樹はそっか、と言いながら僕のベッドに腰をかけた。そういえば、さっきから声が枯れている。まさか、そんなに大きな声を出したのだろうか。想像するだけでゾッとした。
「父さんはね、画家だったんだ。画家として俺たちを養うつもりだったみたいだけど、それが上手くいかなくて…結局俺たちを置いてどこか行っちゃったんだ」
「そうなんだ…」
「それから、母さんもピリピリしててさ。美術も音楽も文学も、芸術なんて時間の無駄に過ぎないって言い始めたんだ」
「じゃあ、ピアノも?」
「そう。だけど、最近は家計も落ち着いてきたし…そろそろ再開しようかなって」
「ほんとに?!」
嬉しかった。優樹はいつも忙しそうにしていて、そんな中僕だけがのらりくらりとやっていくなんて、僕も罪悪感があったのだ。それに、僕は優樹の演奏が好きだ。心のこもった優樹の表現が、昔から大好きだった。
「また聴かせてね」
「もちろん。いつでも聴きにおいで」
「うん!」
優樹は嬉しそうに笑うと、突然咳き込んでしまった。やっぱり、喉を壊したのだろうか。
「明日声でないかも」
「そ、そんなに怒鳴ったの…?」
「んー?さぁね」
ああ、恐ろしい。不適な笑みを浮かべる優樹が、今ばかりは鬼に見えた。
「そんじゃ、もう寝ようかぁ」
「あ、うん…おやすみ」
「はい、おやすみ〜」
優樹は僕に手を振ると、颯爽と部屋を出ていった。
僕はベッドに寝転がり、陸にメッセージを送信した。中々既読が付かなかったので、今日はもう寝よう。
電気を消して、暗闇に身を置いた。
その日はすぐに眠ることが出来た。
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