勉強会
快晴の朝、僕は重すぎる足を引きずって登校していた。美術館で自分が言ってしまったこと。何度思い出そうとしても思い出すことができず、もやもやしたまま寝ずに朝を迎えた。遥がどう思ったのかという恐怖、怒鳴ってしまったことへの罪悪感、遥への申し訳なさ。体調の悪さも相まって、気分は過去最悪。今ばかりは、青空が憎くて仕方がなかった。
僕の目の前を1匹の猫が横切る。見覚えのある猫、きっとそこらへんをよく彷徨いている子だ。猫は呑気で良いな、なんて思いながら、なんの罪もないその子を八つ当たりのように睨みつけた。一瞬目が合った気がして、僕は咄嗟に視線を外した。猫にも睨まれた気がしたからだ。
「優ーーーーっ!!!」
後ろから馬鹿みたいに大きな声が聞こえて、肩が跳ねた。後ろから追って来るような足音はどんどん大きくなり、数秒後に僕の背中が強く叩かれた。
「お前ー!なんでメール返さないんだよ!」
「…メール?」
昨晩は全くスマホを見ていない。知らない内にメールをくれていたらしく、陸は口を尖らせて拗ねている。
「悪い、気が付かなかった」
「生きてるか心配だったぜ」
「…ごめん。なんの用だった?」
陸はニヤリと笑ってこっちを一瞥すると、人差し指をピンと立てた。
「今日はなんの日でしょーう」
「え?」
様々な可能性が僕の頭の中を駆け巡る。誰かの誕生日か、それとも学校で行事でもあっただろうか。どれだけ考えても答えは見つからなかった。僕が諦めて尋ねると、陸はへへっと笑って答えた。
「今日は勉強会だろ?約束したじゃん」
「勉強会…?」
「お前から誘ってきたんだぜ?」
そう言われて過去を思い返す。ああ、あの時だ。数学の時間、ぼーっとしている僕に陸が助け舟を出そうとして、二人揃って撃沈したあの日。完全に忘れていた。
「何時から、どこでやんのか決めてないじゃん?」
「そういえば…。僕はなんでも良いよ」
「じゃ、俺の家で四時からな」
「分かった」
おっけ〜、と呑気な声をあげると、陸は僕のリュックをじっと見つめた。なにやらさっきからしきりに気にしている。
「なぁ、今日の鞄デカいな」
「え?…そうかな」
「もしかして体操服入ってる?」
「入ってるけど」
陸は口を押さえて青ざめた。まさかと思い、声をあげる。
「忘れた…?」
「わすれた…」
陸は後退りしながら何かをぶつぶつと呟いている。もしかして、取りにもどるつもりだろうか。
「始業まで残り十二分…ここから家までは約十分、走れば五分、往復で十分……」
「リスク高すぎるって」
「間に合う、いける、よし、先行ってて!」
陸は街路樹の根本にリュックを隠すようにして置くと、信じられない速さで走って行った。僕はそれを見送り、先に学校へ向かった。
教室に入ると、自然と目が遥の姿を捉えた。僕は視線を外さないまま、自分の席まで足を引き摺る。荷物を机の中に入れて、リュックをロッカーに入れた。遥は僕が居ることに気が付いたようだったが、声をかけてくることも、こっちを見ることもなかった。
僕はそっと席につき、教科書を開いて自主学習を始めた。勉強会を開くのは良いが、陸に教えられなかったら意味がない。と、自分に言い聞かせてはいるが、実際頭はほとんど回っていない。簡単な足し算も、今の僕には一分かかる。結局、三問も解かない内に予鈴が鳴ってしまった。教卓には、いつの間にか教室に来ていたらしい担任が座っている。少し早いが、出欠の確認をしているようだった。
そういえば、陸がまだ戻ってきていない。先生に何か言って誤魔化してやった方が良いだろうか。
「ん、浅田陸はまた遅刻か」
はあっ、と小さくため息をついた担任。その数秒後、始業を告げるチャイムが鳴った。それとほぼ同時のことだった。
「おはようございます!!!!」
勢いよく開かれるドアとどでかい陸の声。
「セーフですか!」
「アウトだ」
「門は通ってました!!!」
「…」
黙り込む担任。校則的には、始業までに門を通っていれば遅刻ではなかった気がする。陸は得意げに席に着くと、体操服が入っているのであろう鞄を机の横に引っ掛け、鞄をロッカーにしまいに行った。
「まあいい、早く座れ」
「セーフですか?」
「セーフだセーフ、いいから早くしろ」
陸ははーい、と間延びした声をあげると、ふらふらと歩いて自分の席に着いた。間に合ったようで少し安心した。
一限の授業が終わった後、陸は僕の席まで走ってきた。朝の話の続きだろう。
「今日さ、学校から俺んち直行だよな?」
「そのつもりだよ」
「うわぁ〜、片付けてねぇ!」
「いいよ、気にしないから」
陸は少し潔癖なところがあるようだが、机の中やリュックの中はかなり汚い。汚いというか、散らかっている。半年前のプリントが五枚以上出てきたこともある。だからこそ、部屋が散らかっているということには何も違和感はない。
「てかさてかさ、俺すごくない?!間に合ったんだぜ!あの距離!」
「うん、すごいよ…。お前足速いもんな」
「そうなんだよ〜、俺足速いんだよ〜」
ニヤニヤと自惚れる陸。僕はふと気になって陸に問いかけた。
「陸、なんで陸上部入らなかったんだよ」
「えー?別に興味ないから?」
「絶対陸上競技向いてると思うんだけどな。兼部でもすれば良いんじゃない?」
「なんでやりたくないことやんなきゃいけないんだ?」
陸はきょとんとした顔で首を傾げた。思わず確かに、と納得してしまう。
「まぁ、やりたくないならやらなくても良いか」
「そー。お前、今言った言葉忘れんなよ」
陸はそう言うと、バチーンっと痛いウインクを決めてその場を去っていった。僕は陸の最後の言葉を何度も反芻しながら次の授業の準備をした。
陸は分かりやすい。最後の言葉の意味も、僕には分かっている。分かっているのに素直に受け取れない自分が、受け取るのが怖い自分が居て、それがまた情けなくて、いつも聞かないふりをしていた。陸と遥は、いつも僕に助け舟を出してくれていたのに。
一日の授業が終わり、僕は陸と一緒に教室を出た。遥は先に帰ってしまったようで、教室を見渡した頃にはもう見当たらなかった。二人で門をくぐり、陸の案内を元に道を進む。顔には笑顔が貼り付いていたが、実際にはモヤモヤとした気持ちを抱えながら、鉛のような足を引きずっていた。
視界の端を何かが横切ったので、ふと前を向く。街路樹の根本に、一匹の野良猫が居た。
「お、猫だ」
陸が指をさして喜ぶ。しかし、猫の方はずっと僕の顔を見ている。睨まれている、と感じた。よく見ると、朝見かけた猫に似ている。もしかすると同じ猫かもしれない。
「お前のこと睨んでるぜ?」
「あ〜…朝睨んだからかも……」
「え?猫を?睨んだの?」
僕は猫に向かって微笑み、ごめんね、と謝っておいた。猫は小さくため息をつくと、ゆっくりと立ち上がって走り去ってしまった。陸は不思議そうな顔をしながらも、深堀りすることもなく、そのまま話題を転換した。
約十五分後、陸の家に到着した。家に入ると、陸のお母さんが歓迎して下さった。陸は少し恥ずかしそうにしながら僕を誘導してくれた。
「ここ、俺の部屋。荷物置いて待ってて」
陸は自らのリュックをベッドに放り投げ、一階へ戻っていった。僕もリュックを部屋の隅に置かせてもらう。部屋を見渡すが、案外散らかっている様子は見られなかった。強いて言うなら服が床にほかってある程度だ。
陸がジュースとお菓子を持って戻ってくると、早速勉強会が開かれた。
「教科書っていらなくね?分かんねーよ」
「陸だから分からないんだよ」
「お前って結構毒舌だよな」
陸は悪態をつきながらも、質問はいくつも投げかけてきた。どうやら陸は基礎が分かっていないらしく、遡って一から教えればかなりの理解を示してくれた。
「お〜!とけた!とけたよ!」
「良かった、これでテスト範囲は大丈夫そうだね」
「あとは〜、物理と古文と日本史と…」
「今日中に終わるかな…。」
苦笑しながら出されたお菓子を頬張る。頭が疲れたので良い糖分補給だ。陸も少し疲れたのか、座ったままぐだっと机にもたれかかった。
「優〜休憩〜疲れた〜無理〜…」
「分かったよ…。ちょっと休憩しよ」
「やったー!」
陸は拳を上に突き上げ、待っていましたと言わんばかりに満面の笑みを見せた。しかし、その後すぐに真剣な表情になり、目つきを変えて口を開いた。
「で、お前この休日何があったの?」
「え…何の話?」
陸の表情は、真剣そのものだった。
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