亀裂
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
そう言って笑顔で送り出してくれたのは、寝起きで髪がボサボサの兄だった。母さんは疲れているらしく、まだ寝ている。僕は優樹に手を振って外に出て、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。
清々しい朝の光を浴びながら、僕は最寄駅までの道を歩く。昨夜は暴雨だったので、今日は空気が澄んでいて綺麗だ。立ち込めていた雲も、今はほとんど見えない。
待ち合わせ場所である最寄駅に着くと、丁度遥から電話がかかってきた。ボタンをタップして、スマホを耳にあてる。すると、すぐに遥の焦ったような声が聞こえてきた。
『ごめん…五分ぐらい遅れるかも』
「大丈夫だよ、ゆっくりおいで」
『ありがとう、でもなるべく急ぐね』
「気にしないで。気をつけて来てね」
『うんっ、ありがとう』
返答を聞き、電話を切った。遥が遅れるなんて珍しい。大抵は遥の方が集まるのが早く、僕の方が後に来るぐらいなのに。何かあったのだろうかと心配になるが、心配したところで仕方がないので、僕は改札前のベンチに腰を掛けてデジカメを弄ることにした。改札の写真を撮ってみたり、フォルダの整理をしてみたり。そんな淡々とした作業に、僕はいつのまにか没頭してしまっていた。
僕がデジカメを開いて十分ほど経った頃、遠くから誰かが走る足音が聞こえた。もしかしてと思い顔を上げると、息を切らしながら向かってくる遥が見えた。
「ごめんっ、遅くなって…」
「大丈夫だって言ったのに…時間余裕あるから、座ってなよ」
「ありがとう〜っ、疲れたぁ」
遥はベンチに座ると、背もたれにもたれかかって一気に脱力した。相当に急いで来たみたいだ。乗る予定の電車が来るまでは時間に余裕がある。僕は遥をそこに待たせ、少しだけ離れた場所にある自販機で水とお茶を買った。駅まで戻ると、遥はようやく呼吸が落ち着いたようで、周りをキョロキョロと見渡していた。
「遥、どっちが良い?」
「えっ、良いの?」
「うん。喉渇いたでしょ」
「よく分かったね」
あれだけ息を切らしていたのだから、当然だ。遥は一言お礼を言って、水を手に取った。キャップを開けると、ゴクッと音を鳴らして何口か喉を通した。
「あ~っ、美味しい!」
「良かった。まだ時間あるし、急がなくて良いから」
「そうだね。集合時間早めにしといて良かった~」
遥は心底安心したような顔で笑った。電話をしていたときはきっと、かなり焦っていたのだろう。
「そういえば、なんで遅れたの?何かあった?」
「あ~…」
遥が少し言いづらそうな顔をしたので、僕は慌てて訂正をする。
「言いたくなければ良いよ、ちょっと気になっただけだから」
「…ごめんね、気遣わせちゃって」
「大丈夫。気にしないで」
僕が微笑むと、遥はまた安心したような顔をして水を一口飲んだ。余程喉が渇いていたのか、ペットボトルの水はもう既に半分近く減っていた。ペットボトルの蓋を閉めると、遥はおもむろに立ち上がり、僕に手招きをした。
「もう大丈夫だから、行こう?」
「分かった。切符買ってくるよ」
「あ、私が行く!私も必要だし、一緒に買ってくるよ」
「え、でもっ」
「お水のお返しと、待たせたお詫び!」
そう言ってニコッと笑うと、遥は走って券売機まで行ってしまった。歩けば良いのに、子供みたいだ。そう思うとなんだか笑えてきて、僕は一人で吹き出してしまった。
「え、なに笑ってんの?」
気づけば目の前にいた遥に、怪訝そうに見られてしまう。そんなところも子供っぽく見えてしまい、失礼ながらまた笑えてきてしまう。
「ちょっと、人の顔見て笑う?!」
「ごめんごめんっ、なんか遥が子供みたいで」
「あ~、よく言われるかも。…でもそんな笑うこと無くない?!」
遥は少しむすっとしながら、買った切符を手渡してくれた。これ以上笑うと怒られそうなので、さすがにやめておいた。
改札を通り、電車に乗ると、車内は案外空いていた。席が空いていなくて立ちっぱなしになることも心配していたが、幸い杞憂で済んだみたいだ。
美術館前の駅で電車を降り、改札を通って外に出ると、すぐ目の前には大きな建物が建っていた。隣を見れば、遥がキラキラと目を輝かせている。それを見て、なんだか僕も胸が高鳴ってきた。
「こんなにおっきかったっけ…」
「久しぶりに来たから、あんまりおぼえてないや」
鞄からチケットを取り出しながら、美術館入り口までの道を歩く。どうやら受付でチケットを見せれば入館出来るらしい。
「チケット見せてくださーい」
遥と二人でチケットを差し出す。受付のお姉さんはチケットにハンコを押し、美術館の中までその場で案内をしてくれた。
「優、これ」
遥が手に持っていたのは、入り口に置いてあったパンフレットだ。地図を見て話し合った末、僕たちは四階から一階まで順にまわることにした。
エレベーターで四階まで上がると、遥は先程のパンフレットを開いて展示場所の確認をした。
「あっちからまわろう?」
「そうだね、順番にまわっていこうか」
僕は遥の少し後ろを歩く。正直、知らない画家も沢山居るし、美術にはあまり詳しくない。何が描かれているのかすら分からない絵もあった。しかし、ひとつひとつの絵には作者の気持ちや想いが確実に含まれている。要素としてそこにある、ということは、見ているだけでも十分に伝わる。どういう気持ちで、なぜ、その絵を描いたのか。伸びやかにひかれた線の一本一本に、力強く塗られた絵の具の飛び散りに、その答えがのっている。そんな絵が、何十、何百と飾ってある空間に身を置いていることが、何より不思議で、面白かった。
「すごい…」
「圧巻されるね…」
その空間に飲み込まれたように、ゆっくりと歩みを進める遥。その一歩はほんの数センチで、それでも速いように感じた。
絵画を一通り見終わり、エレベーターの前に出た。作品を見ている間、僕らはほとんど言葉を発さなかった。空のエレベーターに乗り、遥はようやく口を開いた。
「やっぱり、芸術家ってすごい」
「あんなに表現出来るものなんだね…」
「コンクールの前に来ればよかった」
遥は少しがっかりしたように苦笑した。そうしている内にエレベーターは三階に到着し、僕らは静かな画廊に出た。ここは、小学校の頃に一度来た場所だ。隣を見ると、遥が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。僕も同じ顔になりそうになった。
――もう知らない。優なんか嫌い!
突然思い出される嫌な記憶。きっと遥も同じだろう。
「優…ここ、小学校のとき来たよね」
「うん…来たね」
妙な間を開けながら、僕らは画廊の奥へ進んでいく。すごく小さい絵もあれば、僕たちがよく目にする、見慣れた大きさの絵も展示されている。
遥が足を止めた。視線の先にあるのは、他より少し大きなサイズの絵画だ。
「やっぱり、この絵は綺麗」
遥は撫でるような目で作品を見る。上から下まで、左から右まで。僕も同じように眺める。見た感じ、油絵の具のような塗りだ。見れば見るほど、その絵の美しさに圧倒させられる。僕には…
――僕にはこんな絵描けないや
焦って唇をギュッと噛む。うっかり口走ってしまうところだった。
「ねえ、優?」
「ん?」
「くどいようだけどさ…その、やっぱり絵、描かないの?」
遥は何か、痛みのようなものに耐えているみたいだった。画廊に響いたその声は何度も反響し、僕の鼓膜を震わせる。
遥が何度もこう言う理由は、僕には分かっている。
小学校の頃、僕は遥と同じように絵を描いていた。毎日放課後に美術室に残って、油絵や水彩画を描いていた。いつも着いてきては作品を褒めてくれたのは、他でもない遥だった。遥は、いつだって僕の絵が好きだと言ってくれていた。僕も、絵を描いているときの自分は好きだった。なりふり構わず、自分の見た景色を、美しいと感じたものを、見たままにキャンバスに表現していた。だけど、今はもう描けない。描きたいとも思えない。この気持ちは、今もがむしゃらに描き続ける遥にはきっと理解出来ない。だから。
「ごめん」
「でも…ねえ、なんでなの?どうして?」
「描けないものは描けないんだよ」
「優の絵は、素敵だよ?」
遥は僕から目線を外し、大きなキャンバスに描かれた絵画に移した。そして、消え入るような声で呟いた。
「また、優の絵が見たいのに」
拗ねるように言った遥は、プイッとそっぽを向いた。自分の中に、もやもやとした何かが募っていく。本当は、僕だって。
「僕だって…」
無意識の内に口から出た言葉は、芋蔓のように続く言葉を引き出していった。まるで誰かに引っ張られているように、自分の意思ではもう止められなかった。だんだん自分の声が大きくなっていくのを感じる。それを自覚しても、動く口を止めることは出来なかった。
「遥には僕の気持ちが分からないんだから、これ以上口出さないでよ!」
静かな画廊に、叫び声がこだまする。ハッとして辺りを見渡した。幸い他のお客さんは居なかった。自分でも、途中何を言っていたか覚えていない。しかし、遥の顔を見れば、僕がどんなことを言ってしまったのかはすぐに見当がついた。
遥は俯いたまま動かない。数秒の沈黙が流れる。それは数時間にも、数日にも感じるほど長い時間だった。
耳鳴りが聞こえるほどの静寂を破ったのは、遥だった。
「優は…何も変わってないね」
遥はようやく顔を上げると、今にも涙が溢れそうな目で僕を一瞥し、またすぐに視線を落とした。
「今の優、私は嫌い」
「待って」
「何度も言ってごめん、もう言わないから」
「ちがっ」
「美術館楽しくないでしょ、もう帰ろう。」
遥は僕の言葉を全て受け流し、エレベーターの方へ歩いて行ってしまう。
止めなきゃ。
訂正しなきゃ。
謝らなきゃ。
そう思っても、どうしても声は出なかった。スタスタと音を立てて遠ざかっていく遥。僕はただ眺めることしか出来なかった。
帰りの電車は地獄のようだった。体が重くて、耳鳴りがした。眩暈がして気持ちが悪かった。
最寄駅の改札をくぐると、眩しすぎる日光が僕を照らした。僕は俯いたまま、家までの道をゆっくりと歩く。ポケットでスマホが振動していることにも気が付かず、ただひたすら歩いた。
僕は、一体何をしているんだろう。
答えはいつまでも出ないままだった。
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