前日の夜
「母さん、明日、出かけるから」
「明日?何人で?どこに?いつから出るの?」
予想通りの質問攻めに、心の中でため息をつく。遥と美術館へ行く約束をしたのは先週のことだが、こうなるのが嫌で今の今まで隠してきたのだ。ついに明日は当日。流石に何も言わず家を空ける訳にはいかないので、今こうして報告をしている。
「僕と友達の二人で、隣町の美術館に。朝の八時には出るよ」
「美術館?何しに?友達って誰よ」
「…歴史の授業の延長みたいなもんだよ。友達は遥ね。」
「ああ、遥ちゃんね。歴史の授業っていうのは何なの?校外学習にでも行くの?」
「歴史上の人物が描いた作品を自主学習で見に行くんだよ。実際に見たほうが覚えやすいでしょ?」
我ながら良い口実だと感心してしまった。母さんも、そういうことならと渋々ではあったが、了承してくれた。遥については昔からの幼なじみなので、説明せずとも分かってくれたらしい。
「気をつけて行きなさいよ。遥ちゃんに迷惑かけないこと」
「分かってるよ。明日早いからもう寝るね、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
僕はなんとか母さんの小言と質問攻めから逃れ、自分の部屋にこもった。翌朝の準備が完璧であることを確認して、直ぐにベッドに突っ伏す。枕元に置いていたデジカメを手に取り、久々に撮ってきた写真を見返す。夕焼けの写真、河川敷の写真、ふざけて撮った陸の写真、この間見かけた猫の写真…。
「…ん?」
一枚、見覚えのない写真が紛れていた。写真と言っても、画面は真っ暗で何も写っていない。布か何かにレンズを押し付けて撮ったようにも見えるから、もしかしたらポケットに入れていた時に何かの拍子で撮影されてしまったのかもしれない。消そうか迷ったが、またフォルダ整理の時にすれば良いと思い、そのままにしておいた。
そろそろ電気を消して寝よう。そう思い立ち上がったところで、扉が三回ほどノックされた。
「…どうぞ?」
扉を開けて入ってきたのは、相変わらずニコニコ顔の兄、優樹だった。こんな時間に珍しい、何かあったのだろうか。優樹は部屋に入ってくると、僕のベッドに腰をかけた。僕は勉強机の椅子に座る。少しの沈黙の後、優樹はゆっくりと口を開いた。
「優…お前、彼女出来たのか?」
「…はい?」
突拍子のない話に思わず拍子抜けする。どこからそんな情報が流されたんだ。彼女なんて生まれてこの方一度だって出来たことないのに。
「彼女が出来たら報告しろって言ったじゃないか!」
「出来てないし!どこ情報だよ!」
「え?出来てないの?」
「優樹と違ってモテないんでね」
「そりゃ…なんかごめん」
認めるなよ、と突っ込みたくなる。そういえば、優樹は中学の頃から彼女がいた気がする。きっと高校でも相当にモテていたのだろう。僕とは大違いだ。兄弟とは思えない。
「明日出かけるんでしょ?聞こえてたから、てっきり彼女かと思って」
「ただの友達だよ、女子ではあるけどね」
「好きなの?」
「はっ?」
変な声が出た。ただの幼馴染だし、何より数ヶ月前まで喧嘩をして口すら聞いていなかった。好きだなんて、そんなことは全くない。
「好きじゃないよ…友達だって」
「そっかぁ。意識してんだと思ってたよ」
「なんでだよ」
えへへ、と優樹は苦笑した。一体何を期待していたのか。優樹は僕が中学生の頃から恋愛に首を突っ込むことが多かった。きっと、優樹が過去に恋愛で失敗したことがあったからだ。
「まぁ、どちらにせよ気をつけなよ」
「何を?」
「女の子って難しいからね。僕には気にならない言葉でも気にしたりするんだから」
「優樹じゃないから大丈夫だよ」
「おいっ」
優樹は「こいつ〜っ」と笑いながら、僕の髪の毛をクシャクシャにした。
「んもぉ〜、寝癖ついたらどうするんだよ」
「整えてから寝なよ〜」
優樹はふわふわと笑いながら、枕元に置いていた僕のデジカメをサラッと手に取り、写真フォルダを開いて眺め始めた。なんだか恥ずかしくて目を逸らす。優樹はしばらくの間、真剣に写真を見ていた。
「わぁ、可愛い女の子」
「どこまで遡ってんだよ!」
優樹が見ていたのは、つむぎを抱いて涙を流す遥の写真だった。このとき見た景色は未だに目に焼き付いている。遥の流す涙と、それをとり囲む特異的な雰囲気。すごく美しいと感じたのを、今もなお鮮明に思い出せる。
「なんでこの写真撮ったの?」
「え?」
「なんで、泣いてる女の子を撮ったの?」
「なんでって…撮りたかったから?」
優樹は首を傾げてもう一度写真を見た。何が良いのかが分からない、という感じだ。
「どうして撮りたかったの?」
「綺麗…だったから。美しかったからだよ」
「僕にはそうは見えないな」
「それはっ、その景色を見てないからだよ」
優樹はさらに首を傾げた。何かが気に入らないらしい。
「ごめんね、僕が口突っ込むことじゃないと思うんだけどさ」
「なに?」
「その景色を見ていなくても、それを見た人が美しいと思えるように残すのも芸術なんじゃないかなって」
優樹は優しい目で、僕を諭すように言った。確かに、その美しさが伝わらなければ僕が写真を撮った意味がなくなる。僕は素直に頷き、浮かんだ疑問を投げかけた。
「どうしたら、美しさが伝わる?」
「うーん。優はさ、どうして美しいと思ったの?」
どうして。どうしてだろう。言われてみれば、僕にも分からない。僕が言葉に詰まると、優樹はデジカメを机に置いて僕と向き合った。
「たとえば、テストで0点を取って泣いてる男の子が居たとして。美しいと思う?」
「…美しくはない、かな」
「だよね。てことは、泣いてたから美しかったんじゃないよね」
「うん」
「女子だから、ってことでもないよね」
「それはない…かな」
だよね、と言って優樹は微笑んだ。僕にはまだ答えが分からない。考える時間を与えるように優樹は少し沈黙したが、数秒後、すぐに口を開いた。
「優は、その場の雰囲気に圧巻されたんじゃない?」
「雰囲気…そうだ、雰囲気。不思議な感じがしたんだ」
それだ、と言うように優樹は僕を指差した。そこで、僕にもなんとなく答えが分かってきた。そのときの雰囲気を間近に感じられたのは、他でもない僕。たった僕だけだったのだ。
「その雰囲気を、どう残すかだよね」
「どう、残すか…」
「それ以上は何も言わないよ。優の芸術だからね、自分で自分を磨けばいいさ」
そう言うと、優樹は僕の頭を撫でてデジカメの電源を切った。その場に立ち上がり、腕を上げてぐうっと背伸びをする。パタンと音を立てて腕を下ろすと、優樹はもう一度こっちを見て微笑んだ。
「それじゃ。明日気をつけてね」
「うん。色々ありがとう」
「いーえ。おやすみ」
「おやすみなさい。」
ヒラヒラと手を振りながら部屋を出た優樹。扉が閉められたのを確認し、僕は部屋の電気を消した。
ベッドに入り、心を落ち着かせる。明日のことを考えるとどうにも落ち着かなくて、僕は優樹が言っていたことを何度も頭の中で反復していた。目に見えない「雰囲気」をどう写真に残すか。それが今後の課題だと、胸に刻んだ。その内にだんだんと眠たくなってきて、僕はギュッと目を瞑った。
無事明日を迎えられますように。
珍しくそんなことを思いながら、僕は暗闇に意識を溶かした。
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