雨の日、待ち合わせ
曇天の空の下、僕は河川敷の芝生に横になっていた。昨夜、遥からスマホに連絡があり、ここに来るように言われたのだ。仰向けになれば灰色の雲。横向きになれば濁った川が見える。今日の景色はあまり好きだとは思えない。
「優、おはよう」
後ろから声がかかり、思わず飛び起きる。振り向くと、私服姿で珍しく髪を下ろした遥が僕を揶揄うように笑っていた。
「寝てた?」
「寝てないよ、ビックリしただけ。おはよ」
遥はキラキラと光る黒髪をさらりとうねらせながら僕の隣に腰をかけた。そのまま脚を前に伸ばし、ぐうっと伸びをする。一息つくと、こっちを一瞥して少し微笑み、背負ってきたリュックを漁り始めた。
「あった」
遥はニコニコしながら、二枚の紙切れのようなものを取り出した。一枚を渡されたので、そこに連ねられた文字を読む。それは、少し離れた所にある美術館のチケットだった。
「なに、これ」
「知ってるでしょ?そこの美術館」
確かに知っている。小学生の頃、校外学習で行った記憶がある。
「これ、部長からもらったの。」
「えっ、部長から?」
「うん。部長から」
遥は、以前三人で河川敷に来たときより明るい顔をしている。あれから数日がたっているが、僕も陸もその話題については触れずにいた。知らない内に話が展開したのだろうか。
「なんで急に?」
「知らないよ。部長に聞いて、そんなの」
案外シラッと返されてしまった。そう大した進展はなかったみたいだ。しかし、部長と遥との関係はギスギスしていないらしく、それだけでも僕は胸を撫で下ろす気持ちになった。
「ね、一緒に行こうよ」
「…僕と?」
「うん。二人でいこ?」
遥は首を傾げながら、無邪気な笑顔を僕にむけた。
「僕で良いの…?」
「優が良いの。」
遥の言葉に、不覚にも口角が上がった。速くなる鼓動を必死に抑える。僕は考える間もなく答えを口にした。
「行く」
「やったぁ!」
遥は満面の笑みでガッツポーズを取り、大袈裟に喜んだ。その瞬間は、どんよりとした天気さえ、遥の周りだけは青々としているように見えた。高鳴る鼓動は収まることを知らず、僕の呼吸までを支配した。思考が止まったように、ポケットに手をかざした。その時だった。
「え、うわっ、雨じゃん」
予報よりも少し早い雨がポツポツと降り始め、空は一層暗くなった。雨は次第に強くなり、雨粒は僕たちの体温を少しずつ奪って行った。
「優、喫茶店!雨宿りしにいこ!」
「え、あ、うんっ」
僕は握っていたチケットを胸ポケットにしまい、遥に連れられるまま喫茶店までの道を走った。普段全く運動をしないので、遥と同じぐらい息が切れてしまった。
「疲れたぁ、予報だともっと後なのにぃ」
「とりあえず入ろうか…」
喫茶店に入ると、愛想の良い女性が空いた席まで案内してくれた。遥は椅子に座ると、早速メニューを物色し始めた。風邪を引かれても困るので、僕は念のためと持ってきていたハンカチを遥に差し出した。
「拭きなよ」
「わ、ありがとう」
遥は少し遠慮気味に、服に付いた水滴をハンカチで拭き取った。せっかく喫茶店に来たのだから、何か飲まなければ帰れない。僕はもう一枚あったメニューを手に取り、前回は見なかったページまでめくってみた。
「何飲む?」
「うーん、僕はホットココアでいいや」
「またココア?!」
「また」と言っても、前回はアイスだったのだから、別物だ。遥は貸したハンカチを丁寧にたたみ、机の端に置いた。もう注文は決まっていたらしく、僕に断りを入れるとすぐにベルを鳴らした。
「ご注文お伺いします」
「ホットココア一つと、ミルクティー一つお願いします」
店員さんは笑顔で注文を繰り返し、誤りが無いことを確認すると、そそくさとキッチンの方へ去って行った。遥はさっき畳んだハンカチを差し出し、もう一度感謝の言葉を口にした。
「まさかこんなに早く降るとは思わなくて…」
「大丈夫だよ、僕も思ってなかったし」
申し訳なさそうにする遥。僕はなんとか宥めながら話題の転換を図った。
「そういえば、美術館はいつ行くの?」
「チケットに書いてあるよう」
「あれ」
しまった、読んでいなかった。僕は胸ポケットからさっきもらったチケットを取り出す。裏面を見ると、確かに日付と曜日が明確に書いてあった。
「来週の土曜日ね」
「分かった。どこかで待ち合わせる?」
「駅で良いんじゃない?」
「良いね。時間は?」
英語の教科書で見たことのあるような会話。遥の顔はさっきとは一変し、遠足へ行く前の小学生のように目を輝かせている。
「お待たせ致しました」
店員さんが運んできてくれたのは、僕のホットココアと遥のミルクティー。カチャンと音を立てて置かれたそれらは、店の雰囲気によく合う香りがした。
「なんか、懐かしい感じ」
「僕も同じこと思ってた」
店のあちこちから漂うレトロ感や懐かしさは、真新しい食器に入れられたココアをも包み込み、やがて雨に濡れた僕たちも、その雰囲気と一体化したように感じた。僕はスマホで一枚写真を撮ってから、ココアを一口飲み込んだ。
「あったかい」
「身体があったまるね」
遥はまだ少し熱いミルクティーを、冷ましながらちびちびと飲んでいる。その姿がどうにも愛おしくて、目を逸らすことも出来なかった。
僕がココアを飲み終えた頃、先にミルクティーを飲み終わっていた遥は伝票を凝視し、鞄から財布を取り出していた。僕は慌てて止める。
「いいよ、出すから」
「え?いや、大丈夫だよ!」
遥は自らの両手で伝票を握りしめ、僕に渡そうとしない。割り勘をするつもりなのか、はたまたおごってくれようとしているのかは僕には分からないが、とにかくお金は出させたくない。こんなことを思ったのは初めてだった。だからこそ、その思いに身を任せた。
「チケット…そうだ、チケット代も払ってもらっちゃってるし」
「でも、それは誘ったのが私だし」
「いいの!今日はおごられて!」
遥は少しむすっとしながら、伝票を渡してくれた。伝票を見て、思わず声が出そうになった。安い。破格だと言っても過言では無いほどに安かった。以前来たときは陸がおごると言って聞かなかったから、伝票すら見ていなかった。まさかここまで安いとは思っていなかった。
「ありがとね、優」
「良いよ。これぐらいさせて?」
遥は何を思ったのかふふっと笑うと、すぐに視線を移して窓の外を見た。誘導されるようにして僕も外を見る。外は昼間とは思えないほど暗く、湿った空気が立ちこめているように見えた。しかし、さっきまで土砂降りだった雨はほとんど降っておらず、小雨へと姿を変えていた。
「そろそろ出よっか」
「そうだね」
僕は身支度を済ませると、名残惜しい気持ちを心の内にしまって席を立った。会計を済ませ外に出ると、小雨は既に止んでいた。これなら濡れること無く帰れる。喜ぶべきことなのは頭では十分に分かっている。分かっているが、どういうわけか、どこかさみしいような気持ちもこみ上げてきた。
「それじゃ。私こっちだから」
「え、家じゃないの?」
「うん、買い物行きたいんだ」
「そっか。じゃ、また明日ね」
僕が手を振ると、遥もまぶしいほどの笑顔を向けて振り返してくれた。その笑顔に、思わず口角が緩んだ。もう数メートルも先にいるから、きっと遥にはバレていない。僕は胸ポケットにしまっていたチケットに手を触れ、一人心を躍らせた。
帰り道、少し遠回りをして河川敷を通った。相変わらず濁った川。空には暗雲が立ちこめる。しかし、雨に濡れた草花は水滴によってキラキラと輝いていた。
僕の肩に、一粒の雨粒が落ちる。服に染みが出来、水滴は消えていった。
こんな天気も、たまには良いじゃないか。こんな景色も、素敵じゃないか。
初めてそう思えた気がした。
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