79、聖女の力
「数えきれないほど多くの魔法医が、幼児の頃から僕を診てきたのさ! 誰一人、治せなかったがな!」
「数えきれないほど多くの魔法医ですって? 聖ラピースラ王国の聖女候補に声をかけ忘れたのではなくて?」
俺の腕の中で、レモは不敵な笑みを浮かべている。
皇子は何を思っているのか、沈黙してしまった。俺は彼の表情を確かめるべく、もう一度ロイヤルボックス席の前へ飛んでゆく。
俺にしがみついたまま、レモがちらりと皇后様に視線を送った。その横顔に勝ち誇ったような微笑を浮かべて。
「オレリアン、聞こえるか?」
放心状態の彼に、俺は正面から話しかけた。
何度か口を開けたり閉めたりしたあとで、オレリアンはようやく言葉をつむぎだした。
「――それが、お前の、声……」
両眼から透明な雫があふれだした。
「どうしたんだよ? 治ったんだろ?」
嬉し泣きかな?
俺に抱きついたままレモが上目づかいで、
「どんなもんよ!」
と、したり顔。
「さすがだよ。やっぱり俺の聖女様だ」
「聖女じゃないわよ」
そうだ、レモは聖女って言われるの、嫌いだったな。
氷の鎖に縛られたまま、オレリアンは嗚咽を漏らしている。
「知らなかった。聖剣の騎士ジュキエーレよ、お前がそれほど美しい声で話していたとは」
「え、あ、マジ? ありがと」
話し声を褒められて照れる俺。
「実に心地良い。僕の心を包み込む音色だ」
オレリアンは、ふと疲れ果てたように笑った。
「そして憎たらしいレモネッラ嬢、元気でかわいらしい声をしていたのだな」
「憎たらしいは余計よ! あんたの耳を治してやったんだから!」
「ああ、驚いた。これほど世界が静かだったとは」
「え?」
俺は思わず訊き返した。静かだって? 逆じゃないのか?
「僕の耳には絶え間なく、人々の誹謗中傷が聞こえ続けていたんだ」
オレリアンの言葉に俺は絶句した。
「何それひどい」
最初に口を押さえたのはレモ。
「なんということじゃ!」
皇帝の悲痛な叫び声が、俺が背を向けたロイヤルボックス席から聞こえた。この人、オレリアンの親父さんだもんな。
「ひっでぇな、ラピースラ」
俺もつい毒づく。
「僕はこの一年あまり、ずっと偽りの地獄に閉じ込められていたってことか? あの女、僕の耳に何を埋め込んだんだ!」
「呪われた魔石でしょ」
レモが即答する。
「ラピースラめ! 僕が今まで聞かされていたのは、ありもしない怨嗟の声だったのか!」
それで心がひねくれ曲がっちまったのか。
「まやかしの世界で憎しみに染まるくらいなら、静寂の中で生きていたときのほうが、どれだけ心穏やかだったか!」
ラピースラのやつ、ほんといつも人の弱みに付け込んできたんだな。
「あの悪霊め――」
下を向いて唇をかみしめるオレリアンに、俺は静かに伝えた。
「彼女の魂はもう消えてしまったよ」
魔神に取り込まれたなんて荒唐
「そうか、そうだったか!」
オレリアンは口の端を歪めた。
「騎士団も衛兵も生きていたから、あいつが何か失敗したとは思っていたが、そうだよな!」
一人うなずき、
「聖剣の騎士と聖女の力を持つ公爵令嬢にかかれば、あんな悪霊、敵ではなかったな」
言うほど簡単でもなかったけどな。
そのとき何を思ったか、オーケストラピットにいるフレデリックがチェンバロを弾き始めた。いつの間にか愛の神のアリアは終わり、劇場中の誰もがロイヤルボックス席の前で交わされるやりとりに注目していたのだ。
「聴こえる!
オレリアンは氷の鎖につながれ宙に浮いたまま、目を閉じた。
「ああ、これが音楽か! これほど美しいものだったとは!」
フレデリックの指先から次々と、みずみずしい音楽が生まれ、空間へ解き放たれてゆく。
「ああ、ありがとう! 聖剣の騎士ジュキエーレよ、聖女の力を持つレモネッラ嬢よ。僕にこの上ない感動を教えてくれて!」
フレデリックの水が流れるように心地よい即興演奏を聴きながら、オレリアンは号泣していた。音楽は確かに、凍りついた彼の心を溶かしたのだ。
「息子よ、共に最後の曲を楽しもう」
ロイヤルボックス席から皇帝が手を伸ばした。
「まだオペラは終わっていない」
皇帝の言う通り、最後に俺が演じるオルフェオと、その妻エウリディーチェ、そして二人を救った愛の神による三重唱があるのだ。
「俺も客席から聞いて欲しいな」
オレリアンに向かってほほ笑みかけ、氷の鎖を操作して彼をロイヤルボックス席へ近付けた。
「一緒に楽しみましょう。オレリアン」
皇后様も声をかける。
「私の大好きな歌手を、お前にも知ってほしいの」
血のつながらない母の優しさに戸惑うオレリアンを制止したのは、
「ちょっと待ちなさい」
レモのやや硬い声だった。
「私はまだあんたを完全に信用したわけではないわ。皇帝陛下に近付くなら、魔力封じの術をかけさせてもらう」
─ * ─
次回『スタンディングオベーション』
オペラもいよいよフィナーレです!
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