76★オレリアン第一皇子の来訪【サムエレ視点】
(サムエレ視点)
魔力燈の届かない劇場裏の運河にも、ソプラノの歌声とかすかな弦楽合奏の音色が漏れてきた。
欄干のない石橋の上で、僕は片膝立ちになって振り返る。
「殿下、どうぞ」
「ごくろう」
オレリアン第一皇子は偉そうに答えると、僕の肩に両腕を回した。彼の太腿を支え、小声で呪文を唱える。
「
僕の呼びかけに従って、目には見えぬ風の精霊たちが集まってくる。
「
魔法が発動すると僕たちの身体は夕闇のただ中へ、ふわりと浮かび上がった。
「一番上の窓まで飛べ」
耳もとで皇子が命じる通り、僕は夜空に向かって垂直に高度を上げてゆく。
ふと見下ろすと、建物側面に口を開けた大きな扉の前に、見張りが二人立っている。
「殿下、アカデミー会員と代表で見張りはすべて片付けたはずでは?」
「正面から乗り込んだから、搬入口の番兵はそのままなんだろう」
そんなものだろうか? 劇場内で敵襲があったら、表の番兵も駆けつけるわけではないのか? 確かに皇子の言う通り、持ち場を離れない選択をするかも知れない。まあ衛兵や騎士団の動きについては、僕より皇子の方が詳しいに決まっているか。
季節は七月。劇場の建物に近付くと、いくつかの窓は開けたままになっている。そのうちの一つにすべり込もうとすると、
「そこは楽屋だ。やめておけ。左に回るとボックス席の扉が並んだ廊下があるはずだ」
劇場に足を運んだことがあるのだろう、うしろから皇子が指図する。
「そうだ、その窓がいい」
彼の言った通り、窓の向こうには小さな扉が並んだ廊下が見えた。身をかがめて、背中の皇子が窓枠に頭をぶつけないよう細心の注意を払いながら、赤いじゅうたんの上に着地する。
大理石の彫像が並ぶ王宮のような雰囲気と、低い天井がアンバランスな空間には、木の扉がせまい間隔で並んでいた。
「こっちだ」
ホール内に侵入したいだけなのだから、どの扉でも同じだと思うのだが、皇子は迷いなく歩を進める。
「おそらくこのあたりが劇場中央だ。つまりロイヤルボックス席の真上だな」
「なぜロイヤルボックス席の真上へ? 万一ほかの客が気付いて声を上げた場合、警備の厳しいロイヤルボックス席の近くは不利ではありませんか?」
「馬鹿だな。見せつけてやるのさ」
あり得ない返答に、開いた口がふさがらない。
「わざと、姿を現すと?」
一語一語確認するように尋ねると、皇子は
「奴らは最期の瞬間、本当に恐れるべき相手が誰だったのか、その目に焼き付けることになるのさ」
僕は
「姿を現さずとも、特大魔法を発動させることは可能でしょう?」
「嫌だね」
子供のように皇子は首を振った。
「僕を馬鹿にしてきた奴らに思い知らせてやるんだ。亜空間の中で飢え死にするまで後悔し続けるがよい!」
帝都民は彼を馬鹿にしているのだろうか? それとも貴族たちが?
帝都に来てまだ日の浅い僕が何を言っても、思い込みにとらわれた皇子に届くことはないだろうが、なぜこうも彼が偏見に固執しているのか謎だった。
「ここらへんが一番シャンデリアに近いはずだ」
シャンデリアだと? 僕はホール内を見たことはない。だが中央から巨大なシャンデリアが吊るされていることは容易に想像できる。
「まさかシャンデリアを風魔法で切り落とすおつもりですか?」
「そんなことはしない。ただ風魔法を操ってシャンデリアの上にのぼるのさ」
「え、なんのために?」
訳が分からない。
「目立つだろう?」
僕は絶句した。なぜ目立ちたいのだ、この愚か者は!
「火傷しますよ?」
「ふん、庶民は知らないだろうが、劇場のシャンデリアはロウソクではなく魔力燈を使っている」
なるほど、大勢の人間が窓もない空間に集まるのだ。そこでたくさんのロウソクを燃やしたら気分が悪くなるもんな。
「それに風魔法を解くつもりはない」
皇子はしたり顔で続けた。
空中遊泳の術は身体に風をまとわせるから、確かに結界の代わりになるのだが、シャンデリアによじ登るなど全くもって無意味だ!
この男について来たのは失敗だったのかもしれない、とまたいつもの不安がよぎった。
僕はそれを振り切るように扉の一つに手をかけた。
「行きましょう」
どの道この男に従う以外、僕に大逆転のチャンスはないのだ。
「
口の中で呪文を唱えながら、音を立てないようにゆっくりと取っ手を回す。
静かに扉を開けると、ソプラノの豊かな声量が僕を迎えた。彼女の声は余裕で、僕たちの
「癒しの霞よ。かの者の魂、在りし夜空に
せまいボックス席から舞台を見下ろす男女二人の背中に、僕は魔法を放った。
「
二人の首がかくんと落ち、男は椅子の背もたれに身体をあずけ、女の方は手すりに置いた両手にひたいを乗せた。
「ごくろう」
また偉そうに言ってから、皇子は空中遊泳の呪文を唱え始めた。
僕はほかのボックス席から見えないように、陰になっている壁に背中をぴたりと付ける。
「――愛する妻よ
また君とあの森で暮らせるとは――」
ふーん、女性の服装なのに男の役なのか。
帝都で流行しているオペラとやらは時に倒錯的でけしからんと、この間まで働いていた聖魔法教会の老司祭が眉をひそめていたっけ。
劇の中とはいえ異性装をするとは、宗教家にとってはいまわしい事態なんだろう。
「――この手に感じる君のぬくもり
幻じゃない、君のほほ笑み――」
なぜだろう? 聞き覚えがあるぞ、この声には。
「――僕の心は喜びに震える――」
「あ」
僕は小さく声をあげて、手すりのほうへ駆け寄っていた。
「何をしている?」
驚いた皇子が詠唱を中断してにらみつけるのも構わず、僕は震える両手で手すりを握りしめていた。
「どうして? なぜだ?」
舞台中央で歌っているのは年端も行かぬ銀髪の少女。僕は君を知っている。離れているから顔はぼんやりとしか見えない。それでも分かるんだ――
「ジュリアさん……」
だけどその歌声は――
ああ、嘘だ。そんなことはあり得ない!
だが僕は故郷の村で聖職者見習いとして働いていたとき、朝に夕にその歌声を聴いていたんだ。
思い出すな! 考えるな!
僕はその場にずるずると崩れ落ち、じゅうたんの上に座り込んだ。
皇子が僕を見下ろして何か言っている。
だが僕の耳には、あの歌声しか聞こえない。甘く切なく、時に軽やかに、時に哀愁を帯びて、聴く者の心をかき乱すあの歌声しか――
「
僕は自分自身に魔法をかけて、目を閉じた。
─ * ─
次回『オレリアン第一皇子の真実【初のオレリアン視点】』
ようやくオレリアンが何を聞いていたのか、種明かしです。
第三章「15★第一皇子の変貌【敵side】」で張っていた伏線をついに回収します!
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