75、ラピースラの末路
『グワッハッハ! 千二百年もの長きにわたって私とつながりを持ち続けたお前の魂が、穢れを忘れて安らかに眠れるとでも思ったか!?』
黒い霧の中から、悪意を練って固めたような意思が放たれた。鼓膜を震わせるたぐいの音ではない。頭の中に直接響いてくる。
クロリンダの上に頼りなく浮かんでいたラピースラの魂は、真っ黒い瘴気に引き寄せられてゆく。
「おい、やめろ!」
俺は聖剣を構えて声を上げた。
黒々とした霧が、こちらを
『神に指図するつもりか?』
怒りを差し向けられると、頭の奥に指を突っ込まれたような痛みが襲う。
「まさか、あんた――」
俺のかすれた声に答えたのは、別の意識だった。
――魔神アビーゾと呼ばれる存在でしょう、あるじ殿――
聖剣アリルミナスの涼やかな意識が、頭を冷やしてくれる。
『復活には魂の力が必要だからな、これは私がおいしくいただいておこう』
黒煙がラピースラの小さな魂を覆い尽くす。
魂を、食らっている!?
――はい、あるじ殿。あの者の魂は魔神と意識の糸でつながっておりました。アリルミナスとてそれを断ち切ることはできなかった。お許しください――
いやいや、聖剣さんが謝ることじゃないよ!
――千年を超えるつながりは強固なもので、目覚めたばかりのアリルミナスには荷が重うございました――
そうだ、魔神アビーゾは千年以上ラピースラをだまして、彼女の心を縛ってきたのだ。
「貴様こそ、すべての元凶だっ!」
俺は恐怖心を踏み越えるように大きく前へ踏み出し、瘴気の中心を横一文字に
『クハハハハ!』
俺の頭に嘲笑が響いた。剣を振るった右手にはなんの手ごたえもない。
『どうした? 空気なぞ斬って』
「あんたの本体は、伝承通り海の底に
わずかに光の弱まった聖剣を呆然と見つめながら、俺は小声でつぶやいた。
『私がいるのは一切の光も届かぬ深海だ。ちっぽけなお前など水に押しつぶされ、ひとたまりもないぞ! ククク……』
まるで子供をからかうような口調。俺は小さくねえっつってんだろ。
「ふん、俺は水の精霊みたいなもんだからな、深海なぞ俺の庭さ」
小さな闇へと収縮してゆく黒い霧に聖剣を向け、俺は宣言した。
「いずれ、あんたを斬ってやるから楽しみに待ってなよ!」
『異界の神々とて封じることしかできなかった私を斬るだと? 大口をたたくのもほどほどにしておけ』
瘴気が薄れるに従って、魔神の声は遠のいてゆく。
「あんたを倒さなけりゃラピースラみたいな不幸な人が増えるんだ。俺たちの世界に魔神はいらない」
『残念だが、この世界そのものが私を封じるために用意されたもの。私のための世界なのさ。クハハハハ……』
心の奥が底冷えするような笑い声を残して、
代わりにクロリンダが小さなうめき声を上げて、意識を取り戻した。
「はっ、ここは死の国!?」
演劇的には正しい。クロリンダ、命を
声をかけようとしたとき、彼女の足元の床が音もなく割れた。
「キャーッ!」
悲鳴が奈落に吸い込まれ、
ぽす。
「お疲れ様です!」
クッションの上に着地した音と道具方の声。
代わりに木の板がせり上がってきて、エウリディーチェ役のファウスティーナが舞台上に姿を現した。
「――あなたなの?
嘘でしょう?――」
ファウスティーナが慣れた様子でレチタティーヴォを演じる。
オケピから流れだすのは、何の事件もなかったかのように伴奏をするフレデリックのチェンバロ。しっかり劇の本筋に戻してきやがった!
「――私の愛する夫がオンナノコに?
幻でも見ているの?――」
客席がどっと笑った。ここの台本、オリジナルは『私の愛する夫が死の国に?』なのだ。客が遠い大公国の舞台を知っているわけではないだろうが、ウケているなら何よりです。
俺もリハーサル通り彼女の手を取り、
「――僕はオルフェオだ。
確かに生きている――」
彼女を引っ張って二人で舞台の中央まで歩き、
「――愛する人よ、さあ行こう!
逃避行だ、地上まで!――」
俺もまた、襲撃を忘れて演技に没頭して行った。邪魔が入らずに歌えることがこれほど嬉しいとは!
このまま何事もなくカーテンコールまでたどり着けると思っていた。ラピースラを
オレリアン第一皇子のことなんて、頭の片隅に追いやるどころか綺麗さっぱり忘れ去っていた。
─ * ─
次回『オレリアン第一皇子の来訪【サムエレ視点】』です。
オレリアン第一皇子を連れてサムエレが劇場に到着します。
銀髪の歌姫ちゃんが歌う様子を見て、サムエレは何を思うのか?
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