74、ラピースラは現世にしがみつく

「あんたまだ力が残ってるのか?」


 俺は恐れを抱いた。


が霊力はとうに尽きておるわ」


 そうだよな…… こいつは過去二回、レモの放った聖還無滅輝燦ロヴィーナシャインを食らっている上、俺の聖剣にも魂の一部を刈り取られているんだ。


「じゃがそんなことでが苦しみが終わるとでも? この無念が、千年以上重ね続けた思いが、平和な時代に生きる聖女ごときにはらわれてたまるかっ!」


 憎しみに歪むその顔に、俺はくるりと背を向けた。オーケストラピットを見下ろして、


「マエストロ」


 小声でフレデリックを呼ぶ。


 それだけで全てを察した作曲家は、即興を続けながらひとつうなずいて見せた。


 即興演奏の拍子が変わり、ごく自然に転調し、気付けば次のアリアの前奏を弾いている。


 察した楽団員たちが演奏に加わる。チェロとテオルボに低音バスを任せると、フレデリックは左手で指揮をしてヴァイオリニストにも加わるよう、うながした。


 あざやかな手腕に聞き惚れていると、うしろから恨み節が聞こえてきた。


「我に同情せず、背を向けるというのか!」


 同情だって? よく言うよ、俺の精霊力を封じやがったくせに。そのせいで俺が十六年間どんなにみじめな思いをしてきたか。


 だが自分を憐れんでは同じ穴のむじなになってしまう。


 ラピースラが狂ってしまったのは、戦で恋人を失って憔悴しょうすいしきっていたところを魔神に魅入られたせい。


 ちょうど次のアリアは愛する人を失った歌なんだ。彼女の心に寄り添って歌おう。本当に苦しんでいる人を救うのは明るいうたより、その嘆きをすくいあげる歌だから。


 弦楽合奏ストリングスが優しくアリアの旋律を奏でる。


 俺が舞台中央に進み出ると、波が引くように客席が静まっていく。


 そっと目を伏せ、愛する人と過ごした輝く日々を思い出す。 


「――君と過ごした

 かけがえのない日々

 全て輝いていた

 君がいるだけで――」


 決して暗い曲ではないのに、フレデリックの書いたすっきりとした旋律は、心をつかんで放さない。明るい陽射しのような曲調に、涙がこみあげる。


「――でも今は戻らない

 心に住むあなたの幻影を求めて

 僕はただ地底をさまよう――」


 間奏のあいだに一歩うしろに下がると、大きな扉の前でラピースラがくずおれ、片手を舞台の板についてなんとか身体を支えていた。


 曲は、オーケストラ伴奏付きレチタティーヴォにさしかかる。


「――君の名を呼びたい、もう一度――」


 俺は片腕を伸ばし、見えない恋人に訴える。


「――僕の名を呼んでおくれ、もう一度――」


 答えるのはヴァイオリンの音色だけ。


「――ああ、エウリディーチェ、エウリディーチェ!

 どうすればもう一度あなたの笑顔を見られるのか――」


 絶望してが舞台にひざをついたとき、 


「アジール、ああ、アジール! 思い出した、そなたの名を!」


 うしろからか細い声が聞こえた。


「我はようやく、愛した人の名を思い出したのだ!」


 ラピースラの恋人だった人の名前か―― 魔神アビーゾなんかじゃない、千二百年前、彼女が本当に愛を誓った人間の男――


 オーケストラが静止し、かわいたチェンバロの和音だけが静けさを破る。


 地獄の様子を描いた不気味な書き割りを見渡しながら、俺は立ち上がる。あたりを見回しながら、恋人エウリディーチェに話しかけるレチタティーヴォを演じる。


「――君のために降りて来たよ

 この恐ろしく不気味な死者の国へ――」


 フレデリックが不安をあおるように、減七の和音をかきならす。


「――さまよう魂のために歌う僕を

 君はどう思うのだろう?――」


 問いかけに答える者はない。フレデリックの右手が悲しげな分散和音を返すだけ。


 ラピースラがうしろで泣きじゃくるのが聞こえる。


「アジール、そなたは悪霊となってさまよい続ける我をどう思うのだろう!」


 フレデリックは決して劇の進行を妨げることなく、冷静に次の和音を押さえる。


 俺は願いをこめて、憧れの人を想ってフレーズをつむぐ。


「――叶うことならもう一度

 明るい陽射しの中

 君のために愛の歌を歌いたい――」


「ああ、帰りたい! もう一度そなたのもとへ!」


 ラピースラの声が重なった。


 オーケストラがもう一度アリアの旋律を奏で、音楽が戻ってくる。


「――君と過ごした

 かけがえのない日々

 全て輝いていた

 君がいるだけで――」


 俺が装飾を加えてダカーポを歌ううしろで、ラピースラがひそかに嗚咽おえつをもらしていた。アジールさんと過ごしたあたたかい記憶が、戻ってきたのだろう。


 歌い終わった俺は、舞台にラピースラを残して舞台袖に向かって歩いて行く。


 それを押しとどめるように、舞台袖から小さな人影が現れた。


 愛の神のコスチュームに身を包んだユリアだ。背中に衣装の白い羽をつけているが、両手で運ぶのは小道具の弓矢ではなく聖剣アリルミナス。


 絶妙なタイミングでの登場だ。セラフィーニ師匠が指示したに違いない。


 怪力持ちのユリアだが、聖剣を支える両手がぷるぷると震えている。かわいそうに重いんだろう。


 右手を伸ばし、銀細工の紋様が美しい柄を握る。


 途端にユリアがほっとした表情で笑った。


 ――ありがとな。


 唇の動きだけで伝えて、聖剣を鞘から抜いた。


 静寂の中、フレデリックが即興で奏でるチェンバロの音楽だけが、時の経過を認識させる。


 静かに、舞台後方でひざまずいているラピースラに近付く。うなだれた彼女の頭に、透き通った翡翠色の刀身で触れた。まるで騎士叙任式のように。


「魔神アビーゾに魅入られた哀れな乙女よ、帰るべき場所へ帰りたまえ」


 聖剣が強く輝きだす。白い光の中で、ラピースラはふと顔を上げた。


「聖剣の騎士よ」


 まぶしそうに細めるラピースラの瞳は、もう暗黒を映してはいなかった。


「おぬしを何度も殺そうとした我に情けをかけるのか?」


「俺は聖剣の騎士だからな」


「愚かよのう」


 だから聖剣に選ばれたんだ。いや、生まれる前に異界の神々に選ばれちまったんだっけ? そのせいで、こんな人と違う姿に生まれてきた。


「ラピースラ、あんたアジールさんにもう一度逢いたいんだろ? きっと死後の世界で彼はあんたを待っているさ」


「甘ちゃんに教えてやろう」


 言葉とは裏腹に、ラピースラは幸せそうに笑っていた。


「魔神アビーゾは四体の精霊王を封じ、復活を計画している。火の精霊王フェニックスはすでに、火大陸で人間の手に落ちた」


「なっ―― 火大陸にもあんたのようにアビーゾの協力者がいるのか?」


 ラピースラは目を伏せてうなずいた。


「人間は弱くて愚かじゃ。我のように過ちを犯す者はいつの時代にも現れる」


 俺は唇をかんだ。


「だが」


 ラピースラは顔を上げて白い光の中で俺をまっすぐ見た。


「おぬしのような人間もおる。その、人を想う心が、この世界を破滅から救うだろう」


 その言葉が終わらぬうちに、クロリンダの首はかくんとたれた。


 ラピースラの魂が、彼女のうなじのあたりからふわりと虚空へ浮かび上がった。


 最後に見送りの言葉を唇に乗せようとしたとき、頭上に突然どす黒い瘴気の塊が現れた。


『グワッハッハ! 千二百年もの長きにわたって私とつながりを持ち続けたお前の魂が、けがれを忘れて安らかに眠れるとでも思ったか!?』




 ─ * ─




一体誰が現れたのか!?

次回『ラピースラの末路』です。

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