66、帝都デビューのアリア

 リハーサルと比べて、心地よい緊張感に満ちたオーケストラの前奏に心をゆだねる。愛するレモのために歌おう。


「――君の笑い声は消えてしまった

 この指先をすり抜けて

 青空の向こうへ――」


 エドモン皇子とクロリンダ嬢の茶会の折り、テラスで歌った曲だ。あのときは短いアリオーゾだったが、あのあとフレデリックが書き換えて、今はダ・カーポ・アリアになっている。 


「――僕は心に誓った

 君を取り戻すと――」


 決して技巧的ではない素直な旋律だからこそ、一音一音を大事にして気持ちを伝えられる。


 A部分が終わると、曲は突然アレグロ(速く)になる。


「――心よ、奮い立て

 死の国へ降りるのだ――」


 かき鳴らすように激しく連打するチェンバロと、息のそろったストリングスに乗せられて、全身の血液が沸騰するようだ。


 落ち着け俺。冷静さを保ちながら表現するんだ。


「――待ち受ける死の女神も恐れはしない

 僕にしかできないから――」


 音価が二倍になり、曲のスピードが落ちたように聞こえる部分を、心をこめて丁寧に歌う。


「――君を愛しているから――」


 B部分が終わると、A部分の流麗な前奏が戻ってくる。二度目に歌うA部分は、さっき歌った旋律に装飾を加えて歌い、歌手の見せ場となる。レモと二人で考えた愛の結晶だ。


 間奏のあいだにエウリディーチェを探して空を見上げるような演技をしつつ、二階の一番ボックス席を盗み見た。


 レモは身を乗り出して俺を見つめていた。


 目が合うと、にっこりとほほ笑んでくれた! すごくかわいいし心強い!


 だけどそんなレモがどこか遠くへ行ってしまったら? は絶望するだろう。


「――君の笑い声は消えてしまった

 この指先をすり抜けて

 青空の向こうへ――」


 一度目よりずいぶん落ち着いて歌える。ゆったりとした旋律が美しい曲だから、装飾も最低限。選りすぐりの音色を息に乗せて、客席に思いを届けるのだ。


「――僕は心に誓った

 君を取り戻すと――」


 最後の言葉を歌い終わるやいなや、客席から拍手が沸き起こった。


「いいぞー!」

「アンコール!」


 一曲目のアリアからアンコールはないだろ。俺まだまだ歌うし。


 オーケストラの演奏をかき消すほどの歓声に、俺は右足をうしろに引くと、感謝をこめるように右手を胸に添え、ボウ・アンド・スクレープをした。たまに宮殿で貴族の男や騎士がしているのを見かけたから、一人楽屋の鏡で練習したんだ。


「あら、かわいらしい」


 客席から聞こえた言葉に俺は愕然とする。嘘だろ、かっこいいの間違いだろ!?


 とにかく後奏が終わる前に舞台から姿を消さねばならないので、俺は袖に向かって大股で歩いて行く。


 視界の端に、複数のボックス席でカーテンが閉まるのが見えた。次のバスのアリアは興味ないってことかよ!?


 俺が幕のうしろに隠れるとほぼ同時に、書き割りが引き上げられる音がする。緑あふれる野原のうしろから現れるのは、暗雲が立ち込める陰気な景色。枯れ木に覆われた岩の間を嘆きの川が流れている。


 だが背景が変わったときには、俺は舞台袖で待ち構える衣装さんたちに囲まれていた。


 入れ替わりに渡し守カロンテ役のバス歌手が舞台に出て行く。


「おかえりなさい。とっても良かったわよ」


 衣装係チーフのおばちゃんが、目を細めて迎えてくれた。ほかの若い女性たちは、俺がキトンを脱ぐのを手伝う。


 舞台では嘆きの川の渡し守が、レチタティーヴォを演じている。


「さ、ここに足を入れて。暗いけど足元見えるかしら?」


 用意された、ふんわりワンピースを着せてもらう。うしろに並んだボタンを留められた後で、髪を一つに束ねていた革紐を解く。すでに両サイドは細い三つ編みに編んであるのだ。


「綺麗な御髪おぐしですこと」


 紐の跡をごまかすように、女性の一人が俺のくせ毛を優しくいて胸にたらした。


 オーケストラが重々しい付点のリズムを奏でるのが聞こえてくる。嘆きの川の渡し守が歌う、荘重なハ短調のアリアだ。


「靴を履き替えて」


 言われるままに、革のサンダルから白い布の靴に履き替える。


「――この先は悲しみと苦しみの地

 生者が足を踏み入れる場所ではない――」


 腹に響くようなバスの歌声が聞こえてくる。


「――さあ帰りたまえ!――」


 大迫力に恐れを抱くほどだ。でも貴婦人方の中には、こうした荒々しい魅力を好まない者もいるから、俺が引っ込んだ途端カーテンを閉めちまったんだろう。


 間奏をはさんでB部分は、リズムは変わらないものの変ホ長調に転調して、暗闇に一筋の明かりが差し込むようだ。


「――輝かしい若さ

 生き生きとした美しさ

 死者にはまぶしすぎる――」


 彼の歌声も先ほどよりずっとやわらかい。


「――愛に生きる太陽よ、去りたまえ――」


 哀愁に満ちた歌声は、生きている者をうらやむかのような切なさをたたえている。


「小道具の竪琴はこれですね」


 衣装係のうしろから、道具方が俺の竪琴を持ってきてくれた。舞台裏のうす暗い空間には大きな木の机が置いてあって、造花やランプ、帽子や手紙など様々な小道具が並んでいる。


「うん、ありがとう」


 子供の頃に両親が贈ってくれた竪琴を受け取ると、少しだけ冷たい木の感触が俺の心を静めてくれた。サイズも俺にぴったりだということで、舞台上の小道具として一緒に出演することになったのだ。


 オーケストラがもう一度ハ短調の旋律を奏でると、アリアは繰り返しのA部分へ至る。


「――この先は悲しみと苦しみの地

 生者が足を踏み入れる場所ではない――」


 たいして技巧的ではないのだが、なんとも余裕を感じられる歌唱。やっぱりキャリアが違うんだろうなあ。幕の隙間から見える彼の振る舞いは実に自然で、本番でもっともリラックスしているかのようだ。


「――さあ帰りたまえ!――」


 音階を上がって下がって、最後に音域の広さをアピールする。一回目よりさらなる大迫力で、自分が言われているのかと思うと背筋が凍っちゃうよ。


 どしんどしんと木の板を踏んで舞台袖へ去ってゆく渡し守を追って、俺は竪琴を手に舞台へ現れる。




─ * ─



歌姫ジュキちゃん、ついに女装で登場です!

次回『公演中の襲撃』←ついに敵が現れるのか!?


クライマックスに差し掛かっているところで心苦しいのですが、今月から奇数日に更新とさせていただきます<(_ _)>


「賢いヒロイン」コンテストにもう一作出したいのです……。

現在は一作目として『男装皇女の逆転劇』で参加中。

https://kakuyomu.jp/works/16817330648042030060


『精霊王の末裔』次回更新は4月3日です。よろしくお願いしますっ!

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