65、オペラ『オルフェオ』開幕

 壮麗な序曲が始まった。


 まだ緞帳どんちょうは閉まったまま。俺は舞台の上、板張りの床に片膝をついて幕が上がるのを待つ。うなだれた視線の先には倒れ伏したファウスティーナ――毒蛇に噛まれて命を落としたエウリディーチェが横たわっている。オペラ『オルフェオ』の最初のシーンだ。  


 俺たち主役二人を取り巻く合唱歌手たちも指定の位置で、キリリと引き締まった空気の中、幕が開く瞬間を待っている。


 序曲がいよいよ盛り上がり、緞帳が左右に引き上げられてゆく。客席の灯りは半分ほどついており、意外とお客さんたちの表情が分かった。


 右上のボックス席から、きっとレモたちも観ているはずだ。


 でも視線を送ることはしない。前方に合唱歌手たちが立っているので、平土間席プラテーアの客から俺の姿は見えないが、三階席や四階席からは丸見えなのだ。


 序曲が終わり、一曲目――精霊ニンフと羊飼いたちの合唱が始まった。


「――なんと恐るべき悲劇

 ほんの一瞬前までほほ笑んでいたエウリディーチェ

 その髪に花の冠を飾り、蝶々と戯れていた美女よ

 尊き命は一瞬にして――」


「――一瞬にして――」


 ほかのパートがエコーのように繰り返す。


「――草原に隠れていた蛇の毒牙に奪われた――」


「――奪われた――」


 悲しい短調の旋律を歌いながら、合唱歌手たちが重い足取りで動き、俺たちの前が開けてゆく。


「――おお憐れなオルフェオよ、お前の愛する人はもういない――」


「――もういない――」


 数人の精霊ニンフが俺たちの前にひざまずき、エウリディーチェを支え起こす。


 俺は恋人を失った悲しみにあらがうがごとく顔をあげ、立ち上がった。


 その途端、ボックス席から向けられる無数のオペラグラス。なんでみんな俺に注目してんの!?


 ちょっとびっくりしたけど気を取り直し、悲しみを抑えるように息を吸う。


「――ああ――」


 悲痛な第一声をピアニッシモから始め、だんだん大きくクレッシェンドする。澄んだ音色が劇場のすみずみまで広がっていく。


「――エウリディーチェ、なぜってしまった?

 僕を置いて!――」


 残酷な運命に訴えると、早くもボックス席のご婦人方がハンカチで目元を押さえている。いや一言叙唱レチタティーヴォを歌っただけだよ!? 気持ちが高まりすぎて俺、歌声魅了シンギングチャーム暴走させてる!?


 精霊ニンフたちが一人また一人と舞台袖に消え、羊飼い役の男声合唱歌手たちがエウリディーチェを抱きかかえてけると、舞台上部から雲に乗って愛の神が降りてきた。


「――おお、オルフェオ!――」


 道具方が慎重にロープを操作して、かごに乗ってレチタティーヴォを歌う歌手を舞台に下ろしているのだ。


「――お前の悲痛な声に我が心は張り裂けんばかり!――」


 かごの前面には薄い板が張り付けられ、雲が描かれている。かごから降りて来たのは、背に翼をつけ手に弓矢を持った愛の神。可憐な独唱曲アリアの始まりだ。


「――だから特別に許そう

 お前が死の国へ降りることを

 けれど私が教えられるのは

 嘆きの川までの道――」


 俺は舞台上に残って、愛の神の歌詞に合わせてリアクションを取る。客席を向いて歌う愛の神を見ているせいで当然、客席に背を向けていたのだが、間奏になった途端、


「こっち向いて!」


 遠くのボックス席から声がかかった。


 うっかり振り返ると、ロイヤルボックス席から顔を出した皇后様が、ななめ前方のボックス席を思いっきりにらんでいる。こ、怖い!


 そして気が付いた。軽やかな歌唱を披露する愛の神ではなく、オペラグラスが俺をねらっていることに。なんで!? 歌ってる人、見てあげてよ!


 曲は優雅なB部分へ差し掛かる。


「――お前が少女の姿となって歌えば

 嘆きの川の渡し守もきっと

 舟に乗せてくれるでしょう――」


 皇后様が台本作家に書かせた歌詞は大問題! ボックス席の貴婦人方が顔を見合わせる。声にならないざわめきや期待のため息が、舞台にまで漏れ聞こえてくる。


「――だから特別に許そう

 お前が死の国へ降りることを――」


 装飾を加えて華麗に聴かせるダカーポに入った。いよいよ次がオルフェオ役の最初のアリアだと思うと、手足の先まで凛とした緊張感で満ちてゆく。


「――けれど私が教えられるのは

 嘆きの川までの道――」


 歌い終わると愛の神は、後奏のあいだに雲のかごへ戻って行く。間違っても舞台袖にけるなんて夢を壊すようなことはしない。


 後奏が終わると、フレデリックが鍵盤楽器チェンバロでレチタティーヴォの最初の和音を弾いた。


「――行くのか?――」


 俺は自分に問いかける。フレデリックが次の和音を鳴らす。


「――行かぬのか?

 死の国へ――」


 愛する人を取り戻すためだ。俺に迷いはない。だが嘆きの川は、少女の姿とならねば渡れぬのだ!


「――姿を変えて

 地の底へ――」


 愛と羞恥のはざまで心を震わせる。


 ぎゅっと唇をかんで客席を見上げたとき、フレデリックがレチタティーヴォ終わりのカデンツを弾いた。


 アリアの前奏が始まる前、一瞬の静寂に、


「女装しろー!」


 男の野太い声が響いた。声の聞こえた位置から推測するに、間違いなく平土間席プラテーアの客だ。なんてぇやつだ! 


「女の子に戻ってー!」


 いい気になって別の庶民も叫んだ。ボックス席の貴族たちまでがくすくすと笑い出す。ロイヤルボックス席に皇帝と皇后が並んでいるんだから、ちょっとは自重しろよ!?


 チェンバロに座ったフレデリックをちらっと見ると、彼は笑いをかみころしながら俺にひとつうなずいて見せた。アリアに行くよって意味だろう。俺がまばたきで答えると、彼はオーケストラにアイコンタクトを送って前奏を始めた。 


 ヴァイオリンが優雅にメロディを奏で、ミドルテンポの美しい旋律があふれ出す。


 男の衣装で歌える唯一のアリアだからな。気合入れて行くぞ。帝都中の女性を惚れさせるんだ!




─ * ─




次回『帝都デビューのアリア』ではいよいよジュキくんが歌います!


※バロック時代イタリアのオペラ公演では、お客さんが歌手を褒めたたえたり、気に入らなければヤジを飛ばしたりしたそうです!

 平土間の客はロイヤルボックス席に王様が来るとおとなしくなったそう。

 

 ただしこの帝国では、皇后様がロイヤルボックス席皆勤賞。庶民も慣れっこになっていて、声をかけています笑

 

 当時は歌手も、ボックス席にいるパトロンのほうを見上げてサービスをしたそうです。

 でもジュキくんは初公演なので、間違ってもレモに投げキッスをしたりしません!

 

 現代の雰囲気ではありませんので、令和に生きる皆様は、劇場では静かに過ごしましょう(⋈◍>◡<◍)。✧♡

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る