58、劇場稽古

 からっぽの客席にチェンバロと歌声が響く。


 今日は初めての劇場稽古。まだオケや合唱は入らず、チェンバロ伴奏と歌手ソリストだけで練習している。


「フレデリック遅いわね。午後には来るって言っていたのに」


 平土間席プラテーアに並んだ木製ベンチの一つに腰かけて、共演歌手のファウスティーナがぼやいた。


 舞台では、「嘆きの川の渡し守」役のバス歌手が歌っている。彼の伴奏をしているのは、作曲家のフレデリックではなく彼の弟子だ。


「フレデリックさんはまだオケパートの作曲で忙しいんだろ?」


 俺は革製の水筒からコルクの栓をはずしながら、彼女のひとり言かもしれない言葉を拾った。


「あらかた終わったはずよ。序曲は以前書いたものを使い回すって言ってたし」


 ファウスティーナの言葉が終わらぬうちに、うしろの方で扉を閉める音がした。振り返ると、ボックス席下の扉からフレデリックが、なるべく音を立てないように歩いてくるところだった。


 舞台上のアリアが終わると、


「いやぁ、遅くなってすまなかった」


 楽譜が入っているであろう、ふくらんだ革製バッグを小脇に抱えて舞台下までやってきた。


「お疲れ様です」


 みんなの挨拶が一通り済むやいなや、


「それじゃあ時間もないし、第一幕第五場――オルフェオの叙唱レチタティーヴォとアリアだけ確認させてもらおうかな」


 うわー、作曲家の前で歌わされるの俺だけ!?


 そりゃそうか。ほかの皆さんはすでにプロだもんな。フレデリックは俺のことを一番心配してるんだろう。デビューから主演なんて普通はあり得ない話だろうし、仕方ねえ。


 俺は観念して舞台に上がった。  


 オーケストラピットでフレデリックの弟子が、チェンバロの譜面台に楽譜を広げ、


「それじゃあ第五場のレチタティーヴォから」


 舞台上の俺にアイコンタクトする。


「お願いします」


 答えてから所定の位置に立つと、最初の和音がシャラランとアルペジオで奏でられた。


「――悲しみ? 苦しみ?――」


 二階のロイヤルボックス席あたりに問いかける。チェンバロが減七の和音を押さえるのを待ってから、片手を胸に当てる。


「――それこそ今の僕を表す言葉――」


 悲痛な面持ちで首を振り、


「――この心を覆い尽くすもの――」


 チェンバロが属和音と主和音を弾き、レチタティーヴォ部分が終わる。


「うん、いいねいいね!」


 舞台下からフレデリックが声をかけた。


「ジュキ――ジュリアーナさんは経験者かな?」


「へっ、なんの!?」


 歌った直後ってのもあって、思わず高い声で訊き返す俺。


「地元でしょっちゅう宗教劇をやっていたとか」


「そんな、全然!」


 慌てて否定する俺。冬至の精霊祭で、若者たちの宗教劇に出たことはあるけれど、数えるほどしかない。


「そうか。演技とかジェスチャーがこなれてるな、と思って」


 舞台を見上げるフレデリックのうしろで、ベンチに腰掛けたままのファウスティーナが、


「才能でしょ」


 投げやりな口調で言った。でも俺は嬉しくて、にやけないように前歯で下唇を押さえていた。


「それじゃあ今度はレチタティーヴォから続けてアリアまで歌ってもらおうか」


 フレデリックは腕組みして、 


「レチタティーヴォの最初はもう少しゆっくり始めて、最後はたたみかけるように」


「はい。やってみます」


 答えて俺が所定の位置まで戻ると、弟子の青年がレチタティーヴォ前の和音を弾いた。


 レチタティーヴォを歌い終えて、ちらりと舞台下のフレデリックに視線を落とすと、満足そうにうなずいている。


 弟子が続けてアリアの前奏を弾き始めたとき、さっきフレデリックの入ってきた扉がまたひらいて、レモとユリアが顔をのぞかせた。そういえばリハが終わるころ迎えに来るって言ってたな。


 オーディエンスが多いほど気分が乗るぜ。張り切っちゃうぞ。


 俺は高揚した心を静めるように、ゆったりと息を吸い歌い出した。


「――いとしき人を失って佇むは

 永遠とわに明けぬ宵闇の只中ただなか――」


 八分の十二拍子のゆったりとしたリズムに乗って、哀愁漂う旋律を歌い上げる。


 A部分の歌詞はたった二行。八小節で歌い終わってしまうが、九小節目からは「永遠とわ」という単語で走句アジリタを回す。こまかい音符を歌うのが得意な俺の声に合わせて、フレデリックが書いてくれたフレーズだ。


「――我が青春にして命だった人

 のこされた僕には

 あなた方が治める死の国こそふさわしい――」


 B部分は、愛する人の面影を思い出したかのように、長調に転調する。だが「死の国」という単語に合わせて半音階が苦しみを際立たせ、最後は短調で締めくくる。


 このアリアを歌ってオルフェオは、嘆きの川の渡し守に、死の国まで乗せてくれるよう頼むのだ。


 短い間奏をはさんで再度A部分が繰り返される。装飾を加えて歌うだけでなく、一度目よりさらに痛みを表現して自分の感情を動かしていく。


 チェンバロの後奏が終わると、フレデリックたちのうしろで聴いていたユリアが無邪気に手を叩いた。


「ジュキくん素敵っ!」


 俺の本名を口に出したユリアを、レモが慌てて止める。共演者やフレデリックは俺の正体を知っているが、大道具さんや劇場のスタッフたちには教えていないのだ。


「ダ・カーポの変奏ヴァリエーション、とてもいいね」


 フレデリックが、レモに手伝ってもらって書いたフレーズを褒めてくれたので、俺は胸をなでおろした。


「でもジュキくん歌ってるとき――」


 いや思いっきり俺の本名、言ってる!


「――伝えようとする気持ちが先走ってるのか、前のめりになる傾向があるんだよ」


 と、その場で身体を前へ傾けて見せる。


「この姿勢だと胸がせまくなって声が前に飛びにくいから、つねに真っすぐ立って表現するようにね」


「はい、気を付けます」


 演技ばかり意識して、基本の姿勢がおろそかになっていたなと反省する。


「まだもうちょっと時間あるかな」


 フレデリックが持ってきた楽譜をめくり始めたとき、


「リハーサル終わり次第、ソリストの皆さんには衣装の仮合わせをお願いしたいんですが」


 突然、舞台袖から背の低い中年女性が現れた。


「時間切れかぁ」


 フレデリックが残念そうに頭をかく。


「もっと早くいらっしゃいよ」


 ベンチに座ったまま不躾ぶしつけな物言いをするのはファウスティーナ。二人のこの親しさ、恋人同士とかなのかな?


「よろしいですか、先生。歌手の皆さんをお借りして」


 中年女性はうかがいを立てているようで、そのじつ、有無を言わせぬ要求をしているようだ。


 結局、俺たちは衣装係の女性について、舞台袖から舞台のうしろに隠れた暗い階段をのぼり、楽屋のある三階へ――


「あれ? なんでレモとユリアもいるの?」


 窓から陽射しの差し込む廊下に出て、初めて気が付く俺。こういう場所って関係者以外、立ち入り禁止じゃね?


 衣装係のおばちゃんが振り返って、


「お二人は帝都を視察中の貴族令嬢様方で、ジュリアーナさんのパトロンでもあるとうかがったのですが?」


 レモのやつ、いつの間にまた口から出まかせ吹き込んでるんだよ。


「あ、そちらが構わないんならいいんです」


 俺は素直に引き下がった。まあ俺としてもレモとユリアがいてくれたほうが、心強いってもんだ。


「こちらが女性の楽屋、あちらが男性用となっております」


 指し示すおばちゃんに従い、俺は渡し守役のバス歌手と共に男の楽屋へ――


「ジュリアーナさん、そちらは殿方よ」


 おばちゃんがうしろから俺の服をつかんで引き留めた。


「え、俺、殿方――」


 違ったんだー!


 レモが肩を震わせて笑いをこらえている。


「いやでもさすがにっ」


 このオペラにはファウスティーナが歌うエウリディーチェ役のほかに、「愛の神」と「冥界の女王」という二つの女性役がある。さすがに俺が女性の楽屋に入るのはまずいんじゃあ!?


「あなたみたいな子供、気にしないわよ。裸を見せるわけでもないんだから」


 ファウスティーナは冷めた目をしている。ほかの二人にも尋ねようとしたとき、


「ジュリアーナさん、これ着てみてちょうだい」


 部屋から出てきた衣装係さんが手にしていたのは――


 ふんわりとした可愛らしいワンピースだと!?


「ちょっと待って! 俺の役、男だろ!?」




 ─ * ─




次回『舞台衣装を試着した俺、またかわいくなっちゃうの!?』


これは一体どうしたことでしょう?

なぜ女の子の衣装が用意されていたのか、次回明らかになります!

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