おじさん、どうしたの?

春風秋雄

美人な母親が連れていた5歳の娘に俺とお袋はメロメロになった

「おじさん、どうしたの?」

駅のホームで、しゃがんでベンチの下を覗き込んでいた俺の背中から、可愛い声がした。振返ると4~5歳の女の子が首をかしげて俺を見ている。とても愛らしい顔をした子だ。思わず娘の美穂を思い出す。

「100円玉を落としちゃったんだよ」

俺がそうこたえると

「私も探してあげる」

女の子はそう言ってベンチの下にもぐりこんだ。

「だめだよ。服が汚れちゃうよ」

そう言ったのと同時に女の子が声をあげた。

「あった!おじさんあったよ!」

女の子は小さな指で100円玉を摘み上げ俺に渡してくれた。

「ありがとう。お礼にジュースでも買ってあげようか」

「おじさん、ジュースは100円では買えないんだよ。じゃあね」

女の子はそう言って手を振って、母親らしき人のところへ駈けて行ってしまった。女の子が母親に経緯を話したのだろう。母親がこちらを見たので、俺は軽く頭を下げた。それに対して母親もかすかに頭を動かし応えた。とても綺麗な母親だ。

俺は谷口誠、36歳。大阪の取引先に出向き、三重県の津市に帰るところで、今近鉄の難波駅にいる。3年前まで東京のデザイン事務所で働いていた。4年前に父が身罷り、お袋ひとりでは心配なので、事務所を辞め地元に帰ってきている。今はフリーで出版物の表紙などをメインとしたデザイナーをしている。基本的にWEBでのやりとりで仕事は進むが、たまには出版社に顔を出して、つないでおかないと声がかからないので、東京、大阪、名古屋と出向くこともある。


名古屋方面行きの特急電車がホームに滑り込んできた。俺は切付を見ながら指定席を探す。自分の席を見つけ、荷物を網棚へ上げていると、後の席から

「あ、おじさん!」

と声がかかった。さっきの女の子だ。

「さっきはありがとうね」

俺はそう言って席に座った。難波の駅から津まで1時間半もかからない。本でも読んで過ごそうかと思っていた矢先、女の子がやってきて

「おじさん、これどうぞ」

と言って、ミカンをひとつくれた。俺は素直に「ありがとう」と言って受け取り、立ち上がって後の席の母親にもお礼を言った。

100円を拾ってくれたうえに、ミカンまでもらったら、何かお返しをしなければならない。俺はカバンを開け、誰かにお土産であげようと買っておいた、たこ焼き味のジャガイモのお菓子を取り出した。

「これ、よかったら食べてください」

俺はそう言って母親に差し出すと、母親は遠慮していたが、女の子が

「うわー!食べたい!おじさんも一緒に食べようよ」

「おじさんも一緒に?」

「おじさん、椅子をくるっとして、こっちを向いたらいいじゃない」

「いやあ、さすがにそれは」

俺はそう言って母親の顔を見た。母親はニコニコと笑っているだけだった。

「おじさん、はやくはやく、くるっとして」

今日は平日で、お客はまばらなので、後から隣の席に乗って来る人はいないだろう。俺は母親に「いいですか?」と尋ね、母親が頷くのを確認してシートを回転させた。

正面に向き合い、女の子の顔をまじまじと見ると、本当に可愛い顔をしている。そして、となりの母親は、まだ20代と思われ、とても綺麗な顔立ちをしている。誰かに似ていると思ったが、思い出せない。

「どちらまで行かれるのですか?」

俺が尋ねると、女の子が

「名古屋!おばあちゃんの家へ行くの」

と応えた。

「帰省ですか?その間、お父さんは寂しいだろうね」

俺がそういうと、女の子が

「お父さんはいないよ。これから名古屋に住むの」

と言った。母親が余計なことをしゃべるなと言いたげだったが、すでに遅しで、母親がぽつりと言った。

「私はシングルマザーで、この子は父親の顔も知らないんです」

母親はそのことを気にする様子もなく、明るく答えた。その顔を見て、誰かに似ていると思っていたが、ロックバンドのドラマーで、女優でも活躍している”さとうほなみ“に似ているのだと思い至った。

女の子に名前を聞くと、

「水谷美空(みずたにみく)、ママは里美だよ」

と母親の名前まで教えてくれた。美空ちゃんは、もうすぐ5歳になるらしい。

俺も簡単に自己紹介をし、津まで帰るところだと伝えた。

美空ちゃんはつかれたのか、途中で寝てしまった。寝顔も可愛い。里美さんと二人での会話となったが、話をしているうちに、里美さんも打ち解けてきて、俺はお袋が名古屋出身ということもあり、小さい頃から名古屋にはよく行っていたので、美味しい店のことや、子供を連れていくのによい場所などを色々話してあげた。

里美さんは大阪で働いていたが、色々事情があり、仕事を辞めざるを得なかったらしい。この際だから実家に引越し、母親に子供の面倒をみてもらいながら働こうと考えているとのことだ。

あと5分程度で津駅に着くので、俺は里美さんにその旨伝え、荷物を網棚から降ろしていた。里美さんは美空ちゃんを起こそうとしていたが、なかなか起きない。俺は「いいよ、いいよ。起こさなくても」と言って、美空ちゃんの顔を見たら、顔が真っ赤なのに気がついた。

「ちょっとごめんね」

俺は里美さんに断って美空ちゃんのおでこに手をやった。美空ちゃんのおでこはとても熱かった。

「里美さん、美空ちゃん、熱あるよ」

俺がそう言うと、里美さんは驚いて美空ちゃんのおでこに手を当てた。そしてその熱さに里美さんは青ざめた。

「里美さん、津で降りて病院へ行きましょう」

「でも、」

里美さんは、そのあとの言葉が出ず、迷っているようだった。

「名古屋まではまだ1時間弱ある。少しでも早く病院へ連れて行った方がいい」

里美さんは美空ちゃんを抱きしめて、どうしてよいのか分からない様子だった。

「俺の知っている小児科の先生は名古屋の大学病院にいた名医だ。駅からも近いので、そうしよう」

里美さんは決心したのか、網棚から荷物を降ろそうとした。

「荷物は俺が持つから、里美さんは美空ちゃんを抱っこして」

俺の荷物はリュックだけだったので、背中に背負い、里美さんと美空ちゃんの荷物を両手に持った。

列車がホームに滑り込み、ドアが開くのももどかしく、俺たちは改札へ駆け出した。駅前で待っているタクシーに乗り込み、病院の名前を言うと、2~3分もかからない場所なので、運転手は嫌そうな顔をした。

「子供が急病なんだ。頼む」

俺がそう言うと運転手は黙って車を発車させた。

病院について、運転手に千円札を渡し、おつりはいらないと言うと

「大事にならなええんやけどね」

と初めて心配そうに言ってくれた。


病院の診断は軽い肺炎だった。脱水症状がみられるので、とりあえず今日は入院して様子を見て、そのまま3~4日入院するか、通院にするか判断するとのことだ。

里美さんは名古屋のお母さんに事情を話している。俺もお袋に電話をし、事情を話して車で来てもらうようにした。ほどなくお袋がやってきた。ベッドに寝ている美空ちゃんを見るなり、お袋はハンカチで目頭を押さえた。孫の美穂のことを思い出したのだろう。

ここの病院では付添い人が泊まることはできない。俺がうちは病院から近いので、うちに泊まればいいと言うと、里美さんは遠慮したが、お袋に今日はうちに泊まりなさいと強く勧められ、うちに来る事にした。

その日はお袋が用意していた食事を3人で食べ、里美さんは疲れているだろうからと、客間に布団を敷いて、早々に寝てもらう事にした。

お袋と居間でお茶を飲んでいると、お袋が

「美空ちゃん、可愛いね」

と、ぽつりと言った。

俺が「うん」と返すと

「里美さんも綺麗な人だね」

と言って、じっと俺の顔を見た。

俺はその視線に耐えられず、「少し仕事をしてから寝るわ」と言って自分の部屋へ向かった。


翌日、俺の車に里美さんを乗せ、病院へ行くと、美空ちゃんは元気になっていた。もう自分で水分も摂れるようになったので、通院に切替え、退院して良いとのことだ。

美空ちゃんを家に連れて帰ると、お袋が大歓迎で迎えた。人見知りしない美空ちゃんは、すぐにお袋に懐き、家の中にある珍しい物を指差し「ばあば、これ何?」と聞きまくっている。

里美さんは、予定通り名古屋へ行って、名古屋の病院へ通院することも考えたようだが、お袋が数日のことだから、ここに居ればいいと強く勧めたので、「甘えさせてもらいます」と返答した。

里美さんもすっかり馴染んで、食事時にはお袋を手伝っている。美空ちゃんと自分の分の洗濯物も「洗濯機借ります」と言って洗濯し、俺たちの洗濯物と並べて干しているので、久しぶりに見る女性の下着に俺はドギマギした。

自分の事情についても少しずつ話してくれるようになった。もともとは和歌山県出身で、母親が再婚した義父の転勤で名古屋へ引っ越すことになり、義父の連れ子の義妹とうまくいってなかったので、それを機に家を飛び出し、大阪の友達を頼って大阪に移り住んだということだ。ちょうど高校を卒業したタイミングだったので、大阪へ行けば働き口はあると安易に考えていたが、どこも雇ってもらえず、しかたなくキャバクラで働くようになったとのこと。お客さんと仲良くなり、妊娠したことを告げると、その男は初めて結婚していることを明かし、認知もしてくれなかったそうだ。それから託児所に美空ちゃんを預けてキャバクラで働いていたが、最近になり、ストーカーまがいのお客さんが出てきて、年も年だし、キャバクラは引退しようと決意し、義妹との関係はあるが、義父のところでしばらく世話になるしかないと名古屋行きを決めたとのことだ。里美さんは現在28歳らしい。


里見さんがうちに来て4泊目の夜、美空ちゃんが寝たあと、3人でお茶を飲んでいるとき、里美さんが尋ねた。

「仏壇にある写真は誰なんですか?」

「俺の嫁さんと娘の美穂。美穂は美空ちゃんと同じ5歳だった」

俺がそう言うと、その後をお袋が繋いだ。

「6年前に脇見運転の車に跳ねられてね。それから誠は魂の抜け殻みたいになっちまって。お父さんがいなくなったのを機に、こんな年寄りを独りにして放っておくのか!って言って、無理やりこっちに呼び戻したんだよ」

「美空ちゃんを見ていると、美穂を思い出して、放っておけなかったんだよ」

「そうだったんですか」

「こいつもまだ若いんだから、再婚すればいいのに、なかなかその気にならないみたいでね。電話で女の人を家に泊めたいっていうから、てっきりそういう人を連れてきたのかと思ったのにね」

「ごめんなさい」

なぜか里美さんが謝ったのを見てお袋は

「せっかくだから、いっそのこと誠の嫁になってくれればいいんだけどね」と言うので

「母さん!そんなこと言うと里美さんが困るだろ!」

と俺が言うと、

「おや、あんたは困らないんだね?」

と言うので、俺は何も言えなかった。

親子の会話を聞いていて里美さんはニコニコと笑っている。

お袋はもう寝ると言って自分の部屋に向かったので、俺は自分の部屋に向かう前に美空ちゃんの寝顔を見たくて、里美さんに断って美空ちゃんのところへ行った。美空ちゃんはスヤスヤと寝ている。本当に可愛い。しゃがんで美空ちゃんを覗き込んでいると、その横に里美さんが座ってきた。

「本当に可愛いですね」

俺がそう言うと、里美さんは美空ちゃんが起きないよう声を潜めて

「再婚なさらないのは、まだ奥さんのことが忘れられないんですね?」

と聞いてきた。俺も声を潜めてそれに答える。

「妻のことは今も好きですよ。でも、再婚しないのはそういうことではなくて、もう一度家庭を持つことが面倒になったという感じですかね。でも、美空ちゃんを見ていたら、もう一度こんな子がいる家庭を持ってもいいな、こんな子と毎日過ごしたら楽しいだろうなと思ってきました」

里美さんはじっと俺の目を見たまま何も言わなかった。

「里美さんは、結婚は考えてないのですか?」

「今まで、出会う男性はお店のスタッフかお客さんだけでしたから、美空の父親の件があって以来、そういう男性は信用しないことにしています。だから、必然的に結婚対象となる男性との出会いがなかったんです。美空も再来年は小学生ですし、父親は必要だとは思うんですけど」

「里美さん、俺は初めて電車の中であなたを見たときから、綺麗な人だなあと思っていました。そして、何日か一緒に過ごすことになって、あなたの人柄がとても好きになりました。それに、美空ちゃんはとても可愛くて、毎日一緒にいたいと思っています。さっきはお袋が冗談まじりで言っていましたが、真剣に俺との結婚を考えてもらえませんか?」

里美さんは何も応えず、じっと俺の目を見ている。俺はその目に吸い込まれるように、顔を近づけ、唇を合わせた。里美さんは抵抗せず、それに応えた。俺が里美さんの胸に手をやると、里美さんは我に返ったように唇を離し、俺の手首をつかんで拒んだ。

「ごめんなさい。やっぱりダメです」

「俺は真剣ですよ。俺のことは好きになれないのかな?」

「そうじゃないです。私は水商売で暮らしていた女です。誠さんにはふさわしくないです。私なんかと一緒になったら、写真の奥さんに叱られます」

「俺は水商売を否定しないよ。立派な職業だと思っている。そんなこと気にする必要はないよ」

「ダメです。私が気にします。写真の奥さんと美穂ちゃんに申し訳ないです。ごめんなさい。どうか自分の部屋に戻ってください」


美空ちゃんの通院が終わり、二人は名古屋へ向かうことになった。荷物もあるので、俺が名古屋まで車で送っていくと申し出たが、電車で行くと固辞された。お袋と駅まで見送りに行き、お袋は美空ちゃんに「元気でね。また遊びに来てね」と言いながら泣いていた。

二人がいなくなって、俺とお袋は心の中にポッカリと穴が空いたようだった。一応スマホの連絡先は聞いていたが、下手に連絡すると余計に辛くなりそうで、電話もLINEもしなかった。


1ヶ月くらいした頃、東京まで仕事に行っていた俺が夜帰ると、玄関の外までにぎやかな声が聞こえてきた。もしやと思い、急いで家に上がると、

「おじさん!おかえり!」

と言って、美空ちゃんが抱きついてきた。

「美空ちゃん!来てたのか!」

居間に入ると、里美さんがニコニコと笑っている。

お袋が美空ちゃんに

「おじさんも帰ってきたことだし、美空ちゃんはそろそろ寝ようか。今日はばあばが寝かせてあげるね」

と言って、美空ちゃんの手を引き客間へ消えて行った。

「里美さん、どうしたの?」

俺はどうなっているのかわからず、里美さんに尋ねた。

「先日、お母さんが名古屋まで来られたんです」

「お袋が名古屋まで?」

「ええ、そして、誠さんが6年前と同じように魂の抜け殻になってしまった。誠さんのことが嫌いでなければ、誠さんを助けると思って、うちに来てくれないかとおっしゃって」

「お袋がそんなことを」

「私、嫌いどころか誠さんはとても優しいし、好きですとお答えしました。だけど、私は水商売の出ですので、誠さんにはふさわしくないです。前の奥さんと美穂ちゃんに申し訳ないですと言いました」

「お袋は何て言ってた?」

「これは誠さんも知らない話だけどと、前置きされて、実はお母さんも名古屋で水商売をされていたらしいです。スナックで働いていて、お父さんはその時のお客さんだったんだと」

「お袋、水商売してたの!」

「そして、そのことは写真の奥さんにも結婚前に打ち明けていて、気にせず受け入れてくれたそうです。だから、私が水商売をしていたことを気にする人は、誰一人うちにはいないよって言ってくれました」

「妻も知っていたんだ。知らなかったのは俺だけか」

「というわけで、誠さんさえ良ければ、私たち親子をここに置いてもらいたいのですが、よろしいですか?」

「もちろん、大歓迎です。というより、ぜひともお願いします」


俺が風呂に入っていると、脱衣場からお袋の声がした。

「今日はあんたの布団も客間に敷いておいたからね」

「母さん、いくらなんでも・・・」

「里美さんにはちゃんと言って、了承済だよ」

なんという母親だ。でも名古屋まで行ってくれたお袋には感謝しかない。


俺が客間に入ると、常夜灯にした部屋の中で里美さんは布団の上で正座していた。

「誠さん、末永くよろしくお願い致します」

「こちらこそ、よろしくお願い致します」

俺が里美さんの温かい体の中に包まれながら、幸せを噛み締めるようにゆっくり体を動かしていると、里美さんが言った。

「最後は、外に出してくださいね」

「里美さん、もうひとり子供を作ろうか」

里美さんは驚きと不安がまじったような顔をした。

「大丈夫、美空ちゃんはあれだけ可愛いんだから、俺もお袋も分け隔てなく可愛がるよ」

里美さんは俺の背中に回していた手に力をこめ、きつく抱き付いてきた。

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