追悼、いつかの貴方へ

ちくわグミ

追悼、いつかの貴方へ

 チョコレートの包装を剥がして口に放り込み、その濃いカカオの風味に思わずむせ返る。


 深夜3時。三日月の明かりがそっと差し込む丑三つ時。窓の外に広がるのは濃く深い闇。どこまでも黒く塗りつぶされた町。


 その時私は客間にいた。徹夜をするときにはここに来ると決めていたのだ。課題でもやっていたのか、それとも夏休みだからといっていたずらに時間を浪費していたのか、それは確かではない。だが、とにかく徹夜がしたかったのだ。客間に来ているのは、自分の部屋というものが与えられていなかったからである。家族も寝静まる深夜には客間くらいにしか居場所がなかったのだ。


 だが、その単純で軽はずみな部屋の移動は、知らず知らずのうちに私を奇怪な運命のもとに誘っていた。


 なぜだろう。


 さっきからずっと、声が聞こえる。


 おそらくは男の声だ。うっすらと、ぼんやりと、頭の中に届いてくる。はっきりとは聞こえない。だが、どこか聞き馴染みのある音のような気がする。


 その聞き馴染みの正体はじきにわかった。私の名前を呼んでいるのだ。どこで知ったのかはわからないが、この謎の声の主はなぜだか私の名前を知っている。まるで助けでも求めているような声色で私の名前を呼び続けている。


 丑三つ時の闇に呑まれておかしくなってしまったのだろうか。私の幻聴なのだろうか。だが、おおい、おおい、ここだよ、気づいてくれ──と、しきりに呼ぶ声は、私の作り出した幻想にしてはやけにはっきりと聞こえた。とても空耳とは思えなかった。


 すると今度は、声に重なるようにカタカタという音が聞こえる。今度はどこから鳴った音だかすぐにわかった。棚の上だ。客間の棚には客人から貰った土産らしきものがたくさん置いてある。日本人形、木彫りの熊、民族楽器なんかもあったような気がする。だが、音を出しているのはそれらのうちのどれでもなかった。


 壺だ。


 壺が、カタカタと動いている。生きているかのようにゆっくりと、左右に揺れながら。赤い色も相まって、さながら風に揺れる林檎のようだった。私に自分自身の存在を示しているのだろうか。


 相変わらず声は聞こえていた。今度はさっきよりもはっきりと、私の名前が聞こえる。そして、やっと気づいてくれたね、と──。


「な、なんだ、お前、いったい」


「やっぱり聞こえてるんじゃないか。ぼくは……見ての通り、壺だよ。壺」


 どうも、この壺が口を利いているらしい。にわかには信じがたいことだが、実際に目の前で私に話しかけてきているので信じるほかない。それに、この家には今寝室で寝ている両親と私以外に誰も住んでいない。こんな幼稚ないたずらを仕掛けてくる相手も、この家にはいるはずがないのだ。


「壺なのは見てわかる。そうじゃなくて、どういう理屈があって壺が口なんか利くんだ。お前は一体何者なんだ」


「それは確かにそうだ。じゃあ、少し長い話を聞いてくれるかな」


 そこからその壺の身の上話が始まった。


「……まあ、簡単に言えば付喪神みたいなもんだ」


「ぼくはかなり歴史のある壺なんだ。そうだな、たぶん作られたのは1000年前くらいだ。作られた頃は喋れなかったし動けなかったけど、ぼんやりとした意識くらいはあった。そしてぼくが新品だった頃、最初の持ち主がぼくを買った。けっこう大人数が出入りする大きなお屋敷の主だったかな。こぎれいに飾ってくれてたから、よくしてくれたんだと思うよ。けど、ぼくが買ってもらえてから二か月くらい後。ぼくが飾られてた部屋でだいぶ大きめのいざこざが起こった」


「簡単に言えば男女関係の拗れだな。女が二人で激しい言い争いをしてたんだが、次第にどっちも頭に血が上ってきたらしく、取っ組み合いなんか始めちまった。けど、片方が本当に限界までカッとなっちまったみたいで、何をしたと思う? ぼくを持ってきて、相手の女の頭に思いっきり叩きつけやがった」


「当然相手の女は死ぬわけなんだが、なんと死ぬ間際に最後の力を振り絞ってぼくの破片をもう一人の首筋にぶっ刺しやがった。こうして二人の人間がぼくを凶器として無念の死を遂げたんだ。というか、せっかく買ってもらえたのにたった二か月くらいで粉々に砕けちまったぼくもかなり無念だ」


「けど、どうやらその怨念ってやつが奇跡を起こしちまった」


「まだ死ねない、死にたくない、冗談じゃない。そんな思いが、呪いが、なんと生き返らせちまったんだよ。ぼくを!」


「破片がたちまちもとに戻って、再びぼくの形になったんだ。しかも今までぼんやりしてた意識がはっきりするようになってるし、動けるし、おまけに喋れるようにまでなっちまった」


「一番驚いたのはぼくだよ。二人の怨念が拮抗してたから間をとってぼくにその呪いの矛先が向いちまったのかなあ、とかいろいろ考えてはみるんだけど、結局その答えなんて出やしない。そりゃそうだ。こんな不思議なこと、神にしかわからん……まあ、こうしてぼくはここにいるわけだ」


 壺の言葉がここで切れたので、身の上話は終わったのだろうと判断して話しかけた。


「はあ……だいたいわかったけど、そんで結局あんたは何がしたいんだ。何の用があって、さっきから人の名前を何回も何回も呼んでたんだ」


「いいことを聞くね」


 壺は少し間を開けてからこう言った。


「ぼくを殺してほしい」



「ぼくは時間の経過とともにいろんな人の間を転々としていた。けど何だかどうにも奇妙なんだ。どういうわけだか、誰に何度殴られても蹴られても落とされても、なんなら地震が起こって上から物がドサドサ落ちてきても、ぼくにはひび一つ入らないんだな。えらく丈夫なもんで、何百年も人から人へ渡っていっているのにまったく壊れなかった。これはぼくの推察なんだが、女どもの『生きたい』という執着からくる怨念がぼくを生き返らせたから、こんなに丈夫な壺になっちまったんだと思うんだ」


「ぼくはこうして喋れるし、考えごともできるし、少しだけなら動くこともできる。けどそれだけなんだよ。人間のようにものを食べて味わうこともできないし、人間のように運動もできないし、人間のようにまともに他人と関わることもできない」


「ぼくは本来この世に存在する予定じゃなかった、不完全な魂なんだと思う。だから中途半端なんだ。ほかのモノより意識がはっきりしていて自我もあるけど、人間たちに比べれば遥かに不自由だ。ぼくは、どうせなら人間になりたかった。人間のように、自由に生きたかった。けど、こんな不自由な生をこの先ずっと永遠に続けていくのかと思うとぼくはとても耐えられない。狂ってしまいそうになる。なまじものを考えることができるから」


「こんなにたくさんの枷に縛られた生きてるのかそうじゃないのかもわからない命をこの先ずっと持ち続けるくらいなら、本当に死にたい」


 10年と少しの間くらいしか生きていない子供だった私にとって、その心情はまるで共感できるものではなかった。だが、理解することはできた。


「けど……殺してほしいって言っても、その方法はあるのか? 何をしても傷一つつかなかったんだろ」


「ぼくの中を覗いてみてくれ」


 言う通りにして、ぎょっとした。壺の中に入っていたのは──ショットガンだったからだ。


「それでぼくを撃ち抜いてみてくれないか」


「そうすればあんたは死ねるのか?」


「わからないけど、まあ、ものは試しだ。今のところショットガンよりも強い衝撃を受けたことはないから、もしかしたら」


「けど……本当に死んだら」


「いや、気に病むようなことじゃないよ。ぼくはそもそも『命』とも呼べない存在だ。禍々しい怨念が寄り集まってできた醜い呪いの壺さ。ぼくはもう疲れたんだ。頼む、ぼくを永遠という呪縛から解放してくれないか」


「俺じゃなきゃダメなのか」


「きみのような純粋な子供でなければこんな馬鹿馬鹿しい話は信じてくれないだろうからな。大人は基本的にダメだ。今までも散々試してきた」


「……」


「頼むよ。人間でもモノでもない、中途半端なはみ出し者を救ってくれないか。この世から消え去ることでしか、ぼくは自分自身を救えない」


「……」


「なあ」


「……」


「お願いだ」


「……」


「助けてくれ」


「……」


 私は銃を構えて、壺の方に向け、その引き金を──





 引いたのだろうか。それとも引かなかったのだろうか。


 今となっては定かではない。そもそも、あれが現実に起きたことだったかどうかすら今の私にはわからない。結局徹夜もできずにうとうとと眠りこけていた中で見た、真夏の夜の夢だったのだろうか。


 もう半世紀、いやもっともっと前の話だ。そんな、風化してぼろぼろになった記憶の欠片が、なぜだか今になって急に思い起こされた。


 私は引き金を引いたのか、引かなかったのか、引いたとして壺は死ぬことができたのか。何もかも確かではない。ただ、不治の病に罹って寝たきりになっている老いぼれた私が、この話を今ふと思い出してしまったことだけは、確かなことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

追悼、いつかの貴方へ ちくわグミ @chikuwa_gummy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ