第36話 隔てるモノ、それを越える者(三)

「おっ、来たね! もちろん、忘れものなんかはしてないよね?」

 伊奈が「冗談の顔」でこう言ったので、数馬は

「ええ、もちろん。というか、仮にここで気付いたとしても引き返せないだろう」

 と答えた。村の中でも最も美しく、そして有名な滝に至る道の入り口近くに、登山道の入り口もある。

 キッズスマホを見ると、父親からSMSで「グッド」の絵文字一文字だけが送られてきていた。同じバスに乗っていたはずなのだが、辺りを見回してみてもそれらしき姿はない。既にどこかに隠れているようだ。あれだけガタイが良いのに、よく身を隠せるよな……と不思議に思ったが、伊奈が「よし、じゃあ行くよ!」と言って既に登山道に足を踏み入れていたので、彼は急いでそれについて行った。

 山道に入ると、やはり平坦な道とは感覚がまるで違う。今のところ舗装路が続いているとはいえ、足元はゴツゴツとしていてかなりの負担になるし、第一、坂道というのは歩くのに適していない。ともすれば平地の全力疾走にも匹敵する程度の疲労が、ちょっと歩いただけでもこみ上げてくるのだ。登山に備えて、ネット通販である程度の装備をそろえてもらったとはいえ、それでもきついものはきつい。きっとこれが登山というものなのだろう。「病み上がり」であることによる補正もかかっているのだろうが、こんな辛いことを趣味にしている人たちは、きっと頭がどうかしているのだろうと、数馬は思った。


 しばらく——何十分か歩いて行くと、時坂峠というところに出た。ちょっとした展望スペースのようなものが飛び出ていて、周囲に連なる山々を一望することが出来る。山々は綺麗に紅く染まっていた。もう、すっかり秋が深まっていた。

 秋?

 そうだ。これは、紅葉じゃないか。ふと上の方を見てみると、森の木々が赤い葉っぱを引っ提げて、ゆらりゆらりと美しく揺れ動いている。数馬はここで初めて、今が十一月であるということを認識した。もちろん、引きこもっている間も今が何月の何日頃なのかくらいはなんとなく頭で理解していたが、彼は「肌で季節を感じる」ということをもう一か月以上もやっていなかったのだ。様々な感覚が研ぎ澄まされていく。風の音が聞こえる。鳥が鳴いている。落ち葉で地面が柔らかい。この道を普段使いしていた昔の人はさぞかし大変だったのだろうが、こうして歩きながら四季を感じられることを考えると、案外悪いものでもなく、むしろ彼らは楽しんでいたのかもしれないと、数馬はそう思った。


「わあ、見てこれ、蕎麦屋さんだよ」

 峠からまたしばらくなだらかな道を歩いて行き、流石にかなり辛くなってきたので下を向いて歩いていたところ、伊奈がそう言ったので数馬は顔を上げた。見ると、確かに蕎麦屋があった。

「本当だ、こんなところにこんなものがあったとは」

 しかし、見たところ人の気配は全くなかったし、建物もところどころ破損していて、どちらかというと廃墟という感じがする。実際、彼はすぐに「閉店のお知らせだったもの」を発見した。何十年も放置されているようだ。たぶん、蕎麦を食べるためにわざわざここに来るような物好きはそこまで多くなかったのだろう。あるいは、後継ぎを誰もやりたがらなかったとか、そういうことかもしれない。さらば、元蕎麦屋よ。心の中でそう告げて、数馬はまた下を向いて歩き始めた。

 しかし、そこから先が問題だった。蕎麦屋を超えると、森が一気に深まり、それに伴ってか傾斜もややきつくなってきたのだ。汗が噴き出る。そう、もう秋だというのに。

 しかし、山を歩いている以上、後に引き返したって仕方がない。「もう展望ポイントまであと半分もないよ!」という伊奈の言葉を信じながら、休み休み、前に進んでいった。

 さらに歩いて行くと、また視界が開けてきた。こちらからも、いろいろな山を望むことが出来る。その中に富士山もあった。冬が近づき、その真白のかむりを徐々に大きくしていく富士の山は、東京の檜原からでも、確かに壮観で、それでいて厳かな雰囲気を併せ持っていた。

 東の方も開けていたのでよく観察してみると、なんと遠くに東京スカイツリーが見えた。六十年以上にもわたって関東全域に電波を届けているスカイツリー。その想いも、一緒に伝わってくるような気がする。東京の全てが嫌いになりつつも、こういう悪くない側面もあるのかもしれないと思った。


 そこから先は、ただひたすらに歩いた。

 登山を始めてから二時間半くらい経っただろうか。ここに来て初めての「尾根らしい尾根」に辿り着いて、そこからさらにもう少しばかり進んで、ようやく目的地にたどり着くことができたようである。

 これまでの道とは打って変わって、光をいっぱいに浴びることが出来る。ここは正確には頂上ではないようだが、ベンチが用意されていることを見ると推奨の展望スペースなのだろう。「浅間嶺」との表示の奥には、またも富士山が顔を覗かせている。

 が、しかし、戸倉伊奈が「見せたかった」ものはどうやらこちらではないらしい。

「どうよ、見て! この村の南半分!」

「山とか空の方じゃないのか」

 率直な疑問として、数馬はそう質問した。登山にはぴったりな、あたたかな快晴の日。そんな絶景の日に、わざわざ下界なんかを見てどうするんだと、そう思ったからだ。

「もちろんそっちも良いけど……ここまで頑張って登ったからこそ、理解できることがあるってもんじゃないか」

「つまり、どういうこと?」

「あんまり他人を急かすもんじゃないよ。私でさえちょくちょく待っててあげたのに」

「ごめんごめん、結局だいぶ足を引っ張っちゃったのは本当に申し訳ない。ちょっと黙っておくよ」

「うむ、良いだろう。そんで、ここだからこそ理解できるってのは何のことなのかって言うと——」

「うん」

「『

「……!」

 数馬は一瞬、「してやられた!」とでも言わんばかりの驚きの表情を見せたが、ほどなくしてそれは呆れと軽蔑を三割くらい含んだような顔に変化した。

「……それだけのために、ここまで?」

「『それだけ』とは失礼な! 社会復帰プログラムの最終回としては良い感じだったでしょうが!」

「プログラムって……というか、だとしてもそれに一番貢献しているのはうちの叔父さん叔母さんだと思うのだけれど」

「まあそうかもね。でもまあ、今はそんな細かいことは気にしないで。とにかくね、あなたでも『壁によじ登る』ことはできたんだから、これから頑張ってねってこと」

「うん、それはありがとう」

「良いってことよ」

「でもまあ正直、比喩表現にしてはちょっと無理をしすぎているというか……」

「うるさい! リアリストは引っ込んでな!」

 とまあ、こんな具合で他愛もない雑談——ほとんど喧嘩のようにも見えてしまうが——をしながら、付近のベンチで持ってきた弁当を食べた。

 叔父さんがどこで昼食をとっているのかは気になるところだったが、ここが見える位置ということは——と考えてみようとしたが、その思考の先に悲しい結論が待っていることを察して、数馬は考えるのをやめた。


 昼食を食べ終わると、二人は「南側」の登山口を目指して下山を開始した。下山の方は想像よりもあまりきつくなかったので、傾斜や足元の石はそこまでひどくないということが分かった。ところどころ分岐点らしきものがあって、少しでも間違えたら取り返しのつかないことになるような気がして不安になったが、それも特に問題なく通過し、しばらくすると舗装路が見えてきて、下りは、時間がかかったとはいえ、案外あっさりと終わってしまった。

「じゃ、帰ろっか」

 反対側の登山口を出ると、彼女はあっさりとそう言った。何かまだ物足りないような気持ちに包まれていたが、数馬はその言葉通りバスに乗って帰路についた。乗る前、近くに、叔父の姿があった。本当に絶妙な距離をとって歩いてきたのだろう。なぜかバスには乗ってこなかったが……まさか次の便までさらに待つというのだろうか?

 何十分かして、間もなくバスは数馬の最寄りのバス停に到着しようとしていた。今日の出来事を咀嚼していた彼に、伊奈が話しかけた。

「そろそろかな? 今日は本当にお疲れ様。やっぱり無理を押し通したみたいなことになっちゃっててそれは申し訳ないけど……でも、何か得られるものはあったんじゃない?」

「ええ、おかげさまで」

「それならよかった。言いたいことも言えたし、とりあえず私ができることはこれでおしまいかな。これで気が向いたら、学校に来てね。君の想像とは違うだろうけど、結構みんな心配してるんだから。大丈夫、友達もきっとできるし、もしも仮に万が一できなかったとしても、から」

「うん、ありがとう……頑張ってみるよ」

 そして、数馬はバスを降りて、帰宅した。体の方は満身創痍の状態だったが、心の方はというと、よくわからないが非常に満足していた。彼の心は、既に太陽の光をいっぱいに浴びていた。


 それから数日後、数馬は実におよそ一ヶ月半ぶりに学校に行くことができた。伊那や、他の同級生たちも、彼を快く受け入れてくれた。今までとは違って。それは、伊那がそういう風にみんなに働きかけたからかもしれないし、数馬自身が自分の周囲にそびえ立っていた壁を乗り越えてみんなに話しかけてみたからかもしれない。

 まあ何はともあれ、かくして少年・樋里数馬は、ようやくひとりの「普通の」小学生になることができたのだ。だから、そこからの二年間は穏やかに進んでいった。そしてその間も、伊那との関係は特に変わることはなかった。当然、もはやプリントを届けにくる必要などないのだが、彼女は定期的に数馬の家に現れては例の「おちゃらけ」を披露するのであった。

 そんな関係が、中学の三年間も続いた。しかし、二人が別々の高校へと進学すると、そんな交流も元からなかったかのように無くなって、ごくたまに道端ですれ違って多少の世間話をすることはあったが、数馬の大学進学で彼が二十三区内に引っ越してからは、連絡を取ることすらなくなってしまった……のだが、これはまた別のお話である。

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たちあがれ多摩の衆人どもよ 椎葉 十嵐 @shiiba_toran

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