《終幕》

これから

 あやめ、こと彩女が全ての物語を経て己を取り戻してから。万華鏡が過日の彩を取り戻してから、一夜明けて。

 かつて玄鳥宅に彩女が勤める事が決まった時のように、御影が空を飛んできたのかという勢いで駆けこんできた。いや、実際空間を繋げて跳んできたのだろう。

 普段の冷静な青年は何処にもいなかった。そこには、あの日最期に見たままの、泣き顔の子供が居た。

 御影、と呼ぶと堰はいよいよ限界だったらしく、言葉なく青年となった幼子は涙を流したのである……。


 彩女が戻ったという話は五彩の頭領達にも伝わったらしく、彼らも長の元を訪れたいという意向を示した。

 ただ、大勢が一度に詰めかければ手狭にもなる住まいである。

 近く郷に帰還する事であるし、郷で再会の機を設けようという話になったとの事だった。

 彩女としても、彼らに再会するのも楽しみであるし、彼らの伴侶となった娘達と顔を合わせるのも楽しみだ。

 ただ、翠の鬼が今生ではしていないのだから祝言を再度挙げては、と淵玄に入れ知恵して、淵玄もその気であるのが気がかりではある。

 面はゆいので是非とも思いとどまって欲しいのだが、御影によると屋敷の女衆もやる気だという話なので彩女の分は悪そうだ。


  ◇◇◇◇◇


 彩女の朝は夜明けと共に始まる、……と在りたかった。

 手早く朝餉の支度をして、夫を叩き起こして身支度整えて、と思うのだが、彩女を抱き枕の如く抱いて眠るようになった淵玄の腕の中から抜け出すのが難しい。

 郷に戻るまでは弁えたいと主張するも、漸く戻ってきた妻を片時も離したくない夫の熱意の前では儚い抵抗であった。

 温かで落ち着く場所に守られるようにして抱かれていれば、眠気は容易く再び訪れて。結果として二人して遅めの朝餉となる始末である。

 気を使って訪問を昼辺りにずらすようになった御影に、一緒にどうかと遅い朝餉の誘いをする彩女の笑顔は若干罰悪げであった。



 現在、表向きは田舎に引っ越すという事で、今の住居を引き払う準備を進めている。

 特段私物が多い訳ではないが、二年も暮らせばそれなりに思い入れのあるものも増える。

 会話しながらも手を止める事なく支度を進める彩女を、休みをとったという御影が手伝っている。

 淵玄は、引っ越しする旨を伝えに、やり取りのある出版社へ挨拶周りに出かけた。

 帰りに彩女の好物を土産に買ってくると言っていた。


 現在は二人で書斎の荷造りに精を出している最中である。

 書き溜めた原稿用紙やら資料やら、想定以上の大所帯である。これは気合を入れてかからねばと腕まくりをする彩女。

 それでも、この家に初めて来た時に比べたら……と心の中で振り返りながら、ふと考え込む。


「どうしました?」

「いえ、気になった事があって……」


 手を止めた彩女に気付いて、御影が首を傾げて問いかける。

 成長して長の腹心として一族を取り纏めていた御影は、言葉遣いも呼称も丁寧である。あのやんちゃな暴れん坊が随分大人になったと感慨深い。

 以前のようにして構わないと言っても、今は長に仕える身であるからと主張して崩さない。彩女としては息子が手を離れたようで誇らしいが少しばかり寂しい。

 小さく唸った後に、彩女は戸惑い交じりに浮かんだ問いを口にした。


「淵玄は前からああまで生活能力が低い……というか、何も出来ない人だったかしら……って」

「多分ですが。……一部わざとではないかと」


 問いを耳にして、御影は何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべて考え込んでいたが、やがて覚悟を大きな嘆息と共に口を開いた。

 その意図するところが分からず、今度は彩女が首を傾げてしまう。

 疑問符が浮かんで見える様子を見つめながら、御影は沈痛な面持ちで続ける。


「確かに、自分で身の回りの事をする機会自体が元々なくて、彩女様が生きていらしたときは彩女様がお世話されていました……」


 確かに淵玄は、鬼の一族の長である男である。

 鬼幻郷のあの内裏とも見紛う程の屋敷で、大勢の者に傅かれて暮らしていた。身の回りの事を自分で行う筈もない。

 けれど、一人で人の世を流離う間に少しは覚えなかったのだろうか、と思うのだ。

 彩女の疑問を感じ取ったのか、御影は再び複雑な面持ちで沈黙する。

 整理整頓に関しては恐らく出来ない事は間違いないけれど、と御影は言う。

 自分でやると言うのでやらせてみれば、彩女も知るあの惨劇である。

 思わず平伏してもう辞めてくれと頼んでしまったと御影は渋い顔をする。

 しかしそれ以外については……と一度言葉を濁した後、遠い目をしながら彼は続けた。


「……彩女様に面倒を見てもらうのが嬉しかったというか、癖になったのではないかと……」

「戻ったら少し厳しくします」


 恐らく、やれば出来る事もあるだろう。けれども、やれない振りを貫けば世話焼きの彩女が甲斐甲斐しく面倒見てくれる。

 それが嬉しくて仕方なくてあの生活能力の無さは成立したのだろう、と御影は何とも暗い表情で呟く。

 御影の沈痛な言葉を聞いて、真顔で力瘤を入れる仕草をする彩女。

 薄々気づいていたところがないとは言わない。

 本来であれば主人に小言を言うような真似を許される使用人など、長年勤めたような家令などの例外を除いて有り得ない。

 けれど、それがこの家で許されているのは、他ならぬ主人がそれ許容していたからだ。

 むしろ、彩女が気負う事なく思う通りに振舞えるように、敢えて甘えや手のかかるところを見せているのだと、心のどこかでは気づいていた気がする。

 何処へも行かないでくれ、お前がいないと生きて行けないのだと引き留めてくれていたのだと。

 ただ、何事も限度はあると思う。帰郷したら少しばかり心を鬼にする必要がある、と決意を固める。

 ……けれども、それが実際には難しいと心の中では思っている。手のかかる子ほど可愛いとは言うが、手のかかる夫程愛おしいとは、我ながらどうかと内心思うけれど。

 一族の者には威厳ある長としての隙のない様子しか見せない男が、自分には隙だらけの姿を見せてくれるのが嬉しいのだ。中々に厄介な事と苦笑いは浮かぶ。

 さて、その話題の主が戻ってくるまで少しでも作業を進めておこうかと、彩女は手を動かすのであった。


  ◇◇◇◇◇


「……彩女は何処に?」

「ご近所の方々にご挨拶がてら、買い物に行かれました」


 それでは、と始祖は苦笑いする。恐らく中々帰ってはこられないだろうと。

 『あやめ』は『玄鳥』の後妻に入る事が決まった、となっている。夫の田舎に帰り、郷里で祝言を挙げると言う風に説明しているようだ。

 今頃あちらこちらで話好きな近所の婦人方に捕まっているだろう。

 彼女は近隣の人々に愛され馴染んでいたのだと思えば、次に浮かんだのは優しい笑みだった。

 それを眺めながら、御影はふと何かを思い出した様子で口を開いた。


「ああ、長様。先日お願いした原稿の事ですが」


 そう言えばそのような話をされていたと思い出しながら、御影を見遣る。

 郷に戻るにあたり、誰かに引き継がねばなるまい。その段取りも必要か……と思いながら聞いていたならば。


「今回、郷に戻ってから落ち着くまで少しかかるのを考慮して、締め切りは長めに設定させて頂きました。ですが、落ち着いたら早めに書き上げて下さい」

「は?」


 思わず目を見張る淵玄。かけていた眼鏡がずり落ちそうになる。

 何を言うのだと言わんばかりの茫然とした表情で問いの眼差し向けてくる長に、御影は笑みを崩さぬままに続ける。


「郷に戻ったとしてもこのまま物書きは続けて頂きますよ、連載は終わっていないし、企画の予定も詰まっていますから」


 人の世との中継は自分が行うから只管に思う存分書いてくれ、と言い切る御影の笑顔は清々しくすらある。

 連載は彩女様も楽しみに読んでいるのにと言われれば『嫌だ』と拒否し切る事も難しい。呻きながら御影に眼差し向けるぐらいしか出来ない。

 人の世を後にして鬼の長と戻った後も『玄鳥』は在り続ける事になるのかと、淵玄の心の中を問いが占める。

 物書きは嫌いではない、思い浮かんだ事を綴る事は楽しいし、彩女も喜んでくれる。されども。


「……お前は戻らぬのか?」


 元々、御影が出版社の編集の仕事をしていたのも、淵玄が『玄鳥』として物書きなど始めたからだ。

 始祖の手助けの為作りあげた立ち位置である、その始祖が郷に戻るのであればもう必要ない筈だ。

 もの言いたげな長の黒の眼差しを真っ向から受け止めながら、御影は満面の笑みを浮かべて言ってのける。


「割と人の世の暮らしや、雑誌作りの仕事が気に入っているのです。まだまだやりたい事も残っておりますし」

「自分のやりたい事の為に、我を使うのかお前は」


 咎めるような口調ではあるが、幾分勢いがない。どこか罰悪げであり弱弱しい。

 淵玄とて、自分の分が悪い事は自覚している。目の前の相手には多大に借りがある状態なのだから。

 御影が人の世と郷を忙しなく行き来し、長の補佐と郷の取り纏めに奔走していた事実は揺らがない。

 その御影が、やりたい事があるのだと言うならば言う事を聞いてやらない訳にはいかない。

 にこりと良い笑顔を浮かべながら、御影は爽やかに告げる。


「彩女様が変わらずしっかり管理して下さるようなので、私としても安心です。馬車馬のようにせっせと執筆して下さい」

「……お前、本当にいい性格になったな」


 不敬としか言い様のない言葉ではあるが、長は咎める事はない。そこに込められた様々な想いを感じ取れば、ただただ苦笑いするばかり。

 養い子とも言える存在が、実に抜け目なく逞しく成長した事に、苦笑して良いやら感心して良いやらと複雑な始祖であった。

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