《全てが至る刻》
辿り着いた場所
最初の物語――淵玄と彩女の物語は静かに収束し、彩女の中に納まった。
風がまた渡り、咲き誇る花々が数多の彩取りの花弁をふわりふわりと遊ばせる。
それは、宛らこの空間そのもののが万華鏡と化したようだった。
「淵玄……」
「お帰り、彩女……」
長らく呼べなかったその名を呼んだなら、彩女は淵玄の腕の中に居た。
今度は困惑する事もなく、拒絶しなければと思う事もない。
漸く本当の意味で帰ってきたのだと思いながら、彩女はその背に腕を回した。
重なる二つの鼓動があまりにしあわせで、うれしくて。彩女の瞳からは喜び宿した雫が幾つも伝い落ちていく。
始祖たる鬼は、なお一層戻ってきた妻を抱き締めた。
苦しい想いをさせぬようにと思うけれど、万感の思いは腕に籠ってしまう。
もう隔てるものは何もないのだと思えば、胸に想い溢れて何方も言葉を紡ぐ事が出来ない。
長らく言葉ないままそうしていたけれど、少しだけ始祖が腕の力を緩めれば、彩女は彼を見上げた。
その瞳には様々な想いと共に、問う光がある。
彼女が何を問いたいのかを察した始祖は、一つ息をつくと口を開いた。
「最初は、直ぐに記憶を戻して連れ帰ってしまうかと思っていた」
あの日彼女を見出して、家に連れ帰った後の事。
如何にするかと迷っている間に彼女は猛然と掃除など始めてしまい、伝える機会を失してしまった事もあったと始祖は語る。
彩女の家事能力の高さは健在だったかと感心しながら見ていたらしい。
何故そこで迷ったのかと問おうとしたところ、始祖は少しばかり苦い笑いを浮かべて続けた。
「前世を思い出させるのは人にとっては大分負担が大きい、故に躊躇った」
負担もそうだが、信じられなかっただろうと彩女は思う。
鬼が実在することも、自分が先の世において鬼の始祖と結ばれた事も、死に別れたと言う事も。
信じられずに拒絶したかもしれない。受け入れられたとて、無理に記憶の扉を開いた代償は大きかっただろうとも思う。
「……鬼に迎えてしまってからなら耐えられただろうが、何も知らせず業背負う者とする事が出来なくてな」
女々しくて情けなかろう? と苦笑いを浮かべる淵玄。
情けないとは思わなかった。この人は本当に優しいのだと思えば、それを見て彩女の顔に浮かぶのは優しい苦笑い。
優しすぎて慎重になりすぎて、故に求めていても願っていても、それを行えない。
長としての威厳は何処へか、ここに在るのは迷える一人の男である。
それに、と続ける始祖に、あやめは首を緩く傾げて眼差し向けた。
「それに、存外に『玄鳥』と『あやめ』として過ごす時間が心地良かった」
しっかりもので明るい女中と、手がかかって頼りない雇い主の喜劇にも似た日々。
それは思いの外、温かな日々となった。
二人だけで水入らずの暮らし、もどかしい距離感とてまた楽しかったと始祖は語る。
確かに楽しかった、と彩女も思う。
朝から一騒動の日々、毎日あれこれ世話を焼いて、叱って、甘えられて頼られて。
締め切りを破ろうとする先生を叱咤して、偶に罠なんか仕掛けて。時に連れられてお出かけして。
厳しくいきますなどと言うけれど、最後には結局甘やかしてしまって自分に苦笑する。
嘉島家を追い出されて、行く当てなく寄る辺ない思いをした後に、すぐに立ち直れたのはあの日々のお蔭だったと思っている。
『玄鳥』との日々があったから、本当に絶望せずに済んだ気がする。
居心地が良い日々に始祖の迷いは更に続いたという。時折御影に何時までそうしている心算なのかと問われる事があったけれど、答えられなかったと言う。
けれども、転機は訪れる。
「あの日お前がこの万華鏡を見つけたのを見た時、嗚呼、刻が至ったのかと思ったのだ」
彩女の目に付かぬ様に隠していた筈の万華鏡が、あの日何故か彼女の目に触れ、彼女はそれを手に取っていた。
万華鏡を持つ彩女を見て、一瞬時が戻ったかと思ったと呟く淵玄。
彼は、仕舞っておいた筈の万華鏡が彼女の目に触れた事により、待ち望んでいた刻が来た事を悟ったのだ。
優柔不断に過ごしていた日々を終わりにする時が来た事も、また。
だからこそ物語として、鬼と人とが紡いだ絆を語って聞かせた。かつて見知った者達を、彼女に繋がる者達が紡いだ恋を。
鬼と人とのこころを集めて色と為し、様々に結んで見せる万華鏡に光が戻る事を信じて。
万華鏡に眠る彼女の想いが目覚めて戻り、魂にある物語へと至り、約束が成就する時が来ると願って。
些か気まずそうな様子で眼差しを迷わせる始祖を見て、彩女は思わずといった風に微笑む。
威厳あるお顔も好きだけれど、こういうお顔も好き、と彩女は心に呟いた。
けれど、一番大好きなのはこの人が微笑んでくれるお顔……。
彩女は、微笑みながら静かに言葉を紡ぎ始める。
「貴方は強くて知恵もある方なのに、躊躇ってばかりいらっしゃる」
それは彩女を思う故の事、そう思えば胸を温かなものが見たし、溢れていく。
言われた始祖は更に困ったように黙り込んでしまうけれど、彩女はそんな彼を見上げながら、告げた。
ありったけの愛しさと想いを込めて、微笑みながら。
「ただ一言、あの日のように言ってくださればよかったのです。傍にいてくれと、それだけで」
どの様な壁も乗り越えて見せる、それが転じて生じる業であろうと、困難であろうと。
愛しい人の為に障害を乗り越える事も、命を賭ける事も、殿方だけの特権ではないのですよ? と彼女は笑う。
何よりも今恐れるのは、やっと辿り着いたこの居場所を再び失ってしまう事。漸くとる事が出来た優しい手を離さねばならない事。
それ以上に怖い事などないのだと、彩女の眼差しは告げていた。
彩女が願う事は、唯それだけなのだと訴えている。
二度と離さないでと、離れたくないのだと願う彩女は、再び夫の胸に顔をうずめる。
そこに宿るこころを感じた淵玄は、一度だけ泣き出しそうな顔をして。静かに妻を抱き締める手に想いを込めた――。
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