四
御影のか細い泣き声が酷く遠くに聞こえた。
始祖は目の前の出来事が信じられなかった、妻の身体には針山のように幾本もの矢が突き刺さっている。
新たに現れた鬼の男に、里人は怯えて皆揃って立ちすくんでしまった。
泣きながらゆする御影の前で、彩女の衣は見る見るうちに、紅く赤く、流れ出る命に染まっていく。
失われていく、去ってしまう、愛しい女の命が、魂が。
顔色を失いながら、始祖は倒れる彩女へと歩み寄る。
茫然とした様子で彩女の元へと膝をつく。
御影が何事かを訴えようとしているが、涙のせいで言葉にならぬようである。
始祖は妻の名を呼んだが、応えはない。
一度、二度、三度と、揺さぶりながら名を呼び、目を開けてくれと願っても、それは叶えられる事は無かった。
まだ魂はそこにある。けれども、辛うじて、である。癒しの術を施そうとしても、既に流れでた赫は戻せない。
手遅れだと、もう遠からず彩女は逝ってしまうだろうことだけが確信としてあった。
強大な力を持つと言われようが、統べる者と尊ばれようが、それを覆すは出来ない事だけは分かった。
何故彩女は血を流しながら倒れている、彼女が何をした?
害を及ぼしたのか? かつて里の為に贄となる事を承知した彼女が、里人に何をしたというのだ?
始祖の裡には問いが駆け巡り鬩ぎあう、答えが出ない。答えなど出ても、現実は覆らない。
問いはやがて湧き上がる黒雲となりて心を埋めつくしていく。
雷を伴った暗雲は、燃えるような暗い感情となって形となっていく。
憎い、と始祖は思った。
愛しい彩女を害した者達が、何も知ろうとせず怯えて暴挙に及んだ人間達が、ただただ憎くて堪らない。
引き裂いてやりたい、ひねりつぶしてやりたい、もはや何も考えられない―――!
衝動のままに力を振るおうとした、黒い想いの暴れるままに目についた人間を引き裂こうと、その手を振り上げようとした。
けれども、それを止めたのは掠れるほど儚い震えた声だった。
「だめです、あなた……」
彩女だった。
血の気失い白い手を必死に彼に伸ばしながら、夫を留めようと力を振り絞っている。
そうまでして人を庇うのかと、始祖は思った。何故そこまでと。
けれども、彩女は続ける。
「堕ちないで……。あなたの手を、血で、汚さないで……」
始祖は目を見開いた。
彩女が憂いたのは、始祖が人の血で手を汚す事。怒りの衝動に堕ちて殺戮に走る事。
このような時にも、今わの際でさえも彼女は夫の事を思うのだと知ったなら、始祖は愕然とする。
最早怯える人間達が蟲の子散らすように去るのさえ気に留めず、始祖は妻の身体を抱き上げる。
辛うじて微笑んで、彩女は絞り出すように言葉を続けた。
「必ず……戻って、きます。あなたの、もとに……。いつか、必ず……」
今は去る事となってしまうけれど、別れる事となってしまうけれど。
誓い交わした貴方のもとへ必ず戻ると、命の砂を零れさせながら、必死に彩女は紡ぐ。
だから、待っていて欲しいと。今にも消え去りそうな儚い微笑を浮かべながらも、確かな約束を彼に遺す為に。
彩女は、最後残された力を以てわらいかける。それは始祖が愛した、彼女の笑顔そのもので……。
「だから……ひとを、せかいを、どうか……」
――憎まないで下さい。
それが、彩女が最期に遺した言葉だった。
◇◇◇◇◇
始祖が彩女を連れ帰ったならば、屋敷は激しい動揺と哀しみに包まれた。
身を清めて装束を整えてやり、座敷に寝かせてやる。
その顔は穏やかで、眠っているようにしか見えない、故に猶更哀しい。
遠くに女達のすすり泣く声が聞こえる、横に座る御影が泣くのを堪えているのを感じる。
彩女は眠っているようにしか見えない、しかしもう彼女はそこには居ない。
翔り去った彼女の魂を追っていきたいと思っても、彼は追う事が出来ない。
『無限』の命を持つ始まりの鬼は、死のうとしたとしても死ぬことが出来ない。
今ここで心臓を抉ろうと直ぐ様再生し、この世に一人だけ残される。彩女と同じ輪廻の輪に、入る事すら許されない。
「死ねないというのは、つらいものだな」
弔いの枕辺に座しながら、始祖はぽつりと呟いた。
御影が弾かれたように始祖を見上げる、その眼差しの先で彼は更に言葉を紡いだ。
泣き出してしまいたいと思う程につらいのに、泪は零れる事はない。泣く事もできぬほどに、もはや心は壊れてしまったのだろうか。
「不死を夢みる人間の気がしれない、これ程辛いものを自ら求めるなど」
人の権力者は不老不死を夢みるのだという。愚かしい程にそれを求めて、当てのない探索をさせるものとているという。
けれど彼には分からない、永久の苦行を求める者達の気持ちが。
愛しいものとの別離を繰り返す事の痛みを、果てなく続く停滞の苦しみを、奴らは分かってはいないだろう。理解したならば、この様なもの求める事などしない筈だ……。
「おれの、せいです」
震えながら涙を耐えていた御影の頬から、ひとつふたつ雫が落ちて。それを皮切りに止めどなく泪が溢れだす。
自分が人間の里になどいかなければ彩女は死ななかったと、悔恨口にして唇を噛みしめる。
妻が愛した子供が、爪が食い込む程に拳握りしめながら、言葉を絞り出す。
「彩女が死んだのは、俺のせいだから、俺を罰して」
それを見て、始祖は思う。
彩女はそんな事はきっと望まない。あんなに御影を愛していた彼女が望む筈がない。
そう、彩女が望むのは‥‥…彼女が、最期に望んだ事は。
「そんな事はせぬよ。……お前に罰など与えたら、彩女に会えた時に、説教されてしまう」
御影が見上げた先、始祖の黒い静かな眼差しが向けられている。
深い悲しみはあるけれど、怒りはない。深く穏やかな凪いだ海に、宿るのはひとつの決意だった。
何か言いたげだが言葉がうまく紡げないでいる御影に、始祖は僅かに笑いながら告げる。
「彩女を探しに行く。……長く郷を空ける事になるが、皆の言う事を聞いて留守居を頼むぞ?」
彩女は言ったのだ、必ず戻ってくると。
彼女が戻るというならば、待ち続けよう。けれども待つばかりでは寂しいではないか。それなら、こちらから探しにいこう。
彩女は少しばかりそそっかしいところもあったから、もしかしたら何処かで迷うかもしれない。
始祖の顔に浮かぶ微笑に、御影は驚いて目を見張った。
言いたい事は沢山あるのだろう。何かを訴えようとした、けれども。
少しだけ大人びて落ち着いた表情で、無言のまま一度だけ大きく頷いたのである。
◇◇◇◇◇
弔いを終えた長は、ただ一つだけを手にして郷を後にした。それは、彼が妻に贈った万華鏡である。
彩女の死と共に、色を失い何の像も結ばなくなってしまった筒を手に、彼は長い時間と諸国を彷徨った。
名を変え姿を変え人間達の間を渡り歩き、人の世の移り変わりと数多のこころを目にした。
人は弱く、脆い。容易く迷い惑い道を見失う。
されど、だからこそ時として思いもよらぬほど強くもあり、美しくも在れる。
儚く強い人間という存在を、彼は憎みかけた、けれども愛しくも思う事ができた。
成程、だからこそ斯様にこの世は美しいのかと、かつて妻が微笑んで語った事を何時しか感じるようになっていた。
始祖が人の世に出てから、幾人もの統治者が移り変わった。権力のある場所も変わり、新しき政も敷かれるようになった。
今は仮の名と共に物書きを名乗る彼は、俄かに振り出した雨に肩を竦める。
気まぐれで立ち寄った縄暖簾の主が快く貸してくれた傘を差して、家路につこうとした。
足取りが重いのは仕方ない。家に帰るのがあまり気乗りがしないのだ。
当てのない放浪に区切りをつけ、一度定住してみるかと住居を用意させた。
だが、身の回りの世話に女中を雇ったものの何故か去って行ったのだ。その後、通いの者を手配させたが、それも来なくなった。
仕方ないので自分で身の回りの事をしてみるかと思ったが、此れが思った以上に侭ならないものであり、ついには人の世に出てくるようになった御影に『お願いですから、もう何もしないで下さい」と懇願される始末である。
現在、彼の住まいはなかなか大変な有様である。眠れればそれでいいとは思うものの、誰ぞ何とかしてはくれぬかと思いながら、歩み始めた。
その時だった。
彼は目を見張った、そこに彼が望んだ光景があったから。
熱望するあまり幻を見たかと思った、何度も何度も目を閉じて開いてを繰り返し、何度も何度もそれが現である事を確かめて。
――そこには『彼女』が居た。
雨を避ける為に軒下に身を寄せながら、荷物を手に何処か途方に暮れた様子で空を見上げている。外出の手荷物にしては大きい包みである、もしかしたら追い出される等して行く当てのない状態なのだろうか。
けれど、その瞳に困惑はあるけれど、絶望だけは見られない。
けして挫けてやるものかと、未来を諦めていない。
命が巡り新しい生を得ても変わらぬこころを持って、そこに『彼女』が居る。
ああ、こんなところに居たのだな。
寄る辺ない子供のような顔をして、戻ると言いながらやはりこんな処で迷っていたのか。
その少しばかり抜けた処は、間違いなくお前だよ。
待ちくたびれて、こちらから迎えにきてしまったぞ。なあ、――……。
大きくひとつ息をつく。
彼は『彼女』に近づくと、静かに傘を差し出した。
驚いて顔を挙げた『彼女』へと、穏やかに笑いかけながら万感を込めた優しい言葉をそっと紡いだ。
「どうされました? 迷子のような顔をされて」
そして、全ては収束し彼と彼女の物語は再び始まる――。
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