特別な女を傍に置く事のなかった長が初めて強く求めたのが、よりにもよって人の娘であるという事実に鬼達は困惑するしかなかった。

 賛同する者達もあった、主に屋敷の女達だ。

 明るく素直な気質で何時の間にか馴染んだ彩女を、彼女達は女主人とする事をすんなりと受け入れた。

 畏れながらも進言したものもあった。

 だが、絶対の存在である長がそれを願ったならば、更には五彩の頭領も従う意向を示したならば、覆す術は最早ない。


 様々な感情を生みながら、始祖たる淵玄と人の娘の彩女は婚儀を挙げた。

 一番喜んだのは、慕う彩女が正式に母代わりとなった御影であった。


 長の妻となっても、彩女の世話焼き好きで働きものという性質が変わるわけでは無かった。

 それまでと変わらず仕事を手伝おうとして、侍女たちに止められている事もしばしばであり、始祖はその度に笑いを噛み殺していた。

 始祖は彩女に甘えるように世話を焼かれたがり、彩女もまた夫の身の回りの世話は自分の手で行いたがった。

 皆は、本当に仲がよろしい事と優しく苦笑いである。

 疑問を抱く者達も、平素笑う事のなかった始祖が妻へと微笑むのを見かける事が増えると、自然と穏やかに見守るようになっていった。


 始祖は彩女に婚姻の証にと、ひとつの贈り物をした。

 それは、手で持つ事のできる筒。外側に施された螺鈿細工が何とも美しい工芸品である。

 けれども何かを入れてしまう事などは出来ないようだ、代わりにのぞき穴のような小さな穴がある。

 小首を傾げる彩女に、始祖は覗いてみよ、と告げる。

 途端に、小さな歓声が上がる。

 覗き込んだ先で、幾つもの色の光が散じては集い、集っては数多の華が敷き詰められたような姿を見せる。


「これは?」

「筒の中に特別な玻璃の鏡を使っている。その中に『こころ』を閉じ込めた」


 感嘆の吐息を零しながら問う彩女に、淵玄は答える。

 彩女は目を輝かせながら、くるくると筒を回している。無邪気な様子を見て口元に笑みを浮かべて更に言葉を重ねる。


「鬼と人を繋ぐ想いをひとつひとつ集めては色と為して、それで様々な像を結ぶ特別な筒だ」


 説明されて、彩女は再び筒を覗き込み、回す。

 彼女の目に『こころ』が結ぶ華が咲き乱れるような美しい像が次々に結ばれていく。

 彩女が感嘆の吐息を零す。


「万の華を見ている様です」

「万の華か……。それならば、それを『万華鏡』とでもするか」


 目を細めて妻を見つめながら素直な呟き拾って、淵玄は笑う。彩女に出会うまで浮かべる事のなかった、心からの楽しげな笑みである。

 名付けた筒を持つ妻の手に己の手を添えて、淵玄は静かに紡ぐ。


「これから沢山の季節を過ごして、多くの『こころ』を集めて行こう」


 その言葉に、彩女の顔にも華のような笑みが咲いた――。


  ◇◇◇◇◇


 変幻なき幽世の郷にも、年月は流れゆく。

 彩女が始祖の妻となってから、実に十年の歳月が流れていた。

 少女であった彩女は、すっかりと大人びた雰囲気を持つ女性となっていた。朗らかで無邪気な微笑みと、生来の世話焼き気質は変わらなかったが。

 最近目に見えて大きくなった御影を見つめて寄り添う二人の睦まじい様子もまた、歳月経ても変わる事はなく。

 種族の垣根を越えて結ばれ思い合い、温かな春の日だまりの日々を過ごす二人の姿を見て、鬼達は少しずつ人との在り方を変えて行こうとしていた。

 人の想いは鬼を彩り、鬼の想いは人を彩り、万華鏡はひとつずつ色をあつめて、美しい絵を結び続ける。

 幸せそうに二人が微笑み交わし合う光景が屋敷の日常となっていたのだがが、一部の者達に一つ気がかりな事があった。



 その日、長の執務を補佐していたのは銀色の髪と瞳を持つ気難し気な青年だった。

 銀の鬼は一つの事に興味を覚えたなら極めぬと済まない性質である。それは現在何故か家政に向き、とりわけ炊事に向いていた。

 腕の良い膳部が居ると聞いては人の世に修行に行く、翠の鬼とは別の意味での変わり者である。

 先日、彩女に御影の食事について相談されたらしい。

 鬼は人の生気にて命を繋ぐ、けれどそれは食物を取らぬ事と同義ではない。

 補助として人と同じ物を食するし、其々に嗜好もある。

 御影がどうやら好き嫌いを訴え始めた事を、彩女は懸念しているらしい。

 偏食とならぬように工夫できないかという話をされたとの事。

 人とは違う代謝の存在であるなら気にせずとも良いと言えば良いのだが、母代わりの身としては気になるようである。

 一通り語り終えた後に黙したまま筆を動かす青年に対して、始祖は静かに口を開いた。


「……銀嶺。言いたい事があるなら申してみよ」


 言葉紡ぐことなく務めていたものの、何か言いたげな気配がある事に長は気付いていた。

 一つ息をついて促すと、銀嶺と呼ばれた鬼は意を決した風に話し出す。


「何故、彩女殿を眷属に迎え入れないのかと……」


 恐らくその問いを口にするのに、銀の鬼はかなりの躊躇いがあったのだろう。

 問いはしたものの、その表情はどこか気まずそうな色が消せない。

 ひと時の戯れであろうはずがない、始祖が彩女に向ける情は細やかであり揺るぎない。

 けれども、始祖は、妻をまだ『人間』のまま留め置いていた。

 生きる時の違う人の子を、鬼と同じ刻を生きる命とする術はある。けれど淵玄はそれをしようとしないのである。

 二人の間に未だ子はないものの、一族の中でも彩女に対して良い感情抱かぬ者達は、人の女が人間であるまま長の子を孕みでもしたら如何すると懸念した。偉大な始祖の血統を汚す事にはなりはしないかと。

 だがそれも最終的には、人の子が生きられる時間などたかだか数十年、瞬き程の間に容色衰えるのを見れば長の気も他に向くだろうという意見で一致したようである。

 相手を煙に巻くのが上手な翠の鬼が密かに動いたのを知るのは、同じく色を纏う鬼達だけである。

 皆が心に抱いても口にしなかった問いを、敢えて口にした銀嶺へとしばし沈黙した後始祖は応える。


「彩女に……人を喰らう業を背負わせる覚悟が、出来ていない」


 我ながら女々しい事よと呟く始祖の声音は、己を苦々しく思っている響きがある。

 己の迷いが故に、愛しい女を不安定な立ち位置に留めている事を責めている。

 元が人の生命を糧とする種族であった鬼が人を喰うのと違い、彩女は人間である。

 人であったものが人を喰らうというのは、想像するだけでも心に重い業となるだろう。

 元は同じであったものを喰らわねば、命を繋ぐ事が出来ない。それは人を一族に転じさせて迎える事が出来る者が、誰もが一度は躊躇する事である。

 この始祖とて、例外ではなかったということだ。

 始まりの鬼たる存在、唯一『無限』の命を持つ鬼。力を持ち合わせていても何れ終わりが来る者達とは違い、不老にして不死たる者。

 恐れる事ないと思われている存在は恐れているのだ、妻が業を背負う事により苦しむ事を。

 以前よりその頻度は各段に減ったものの、淵玄はやはり人を命の糧とする。

 彩女は何も言わない、けれども時折その表情には罪悪感のようなものが滲む

 きっとあの優しい女性は業を背負おうと変わらずに微笑むのだろう、どれ程懊悩しようと、それを悟らせぬように明るく。

 それが分かるからこそ、始祖は踏み切れずにいる。

 しかし、決断せねば鬼の感覚にてそう遠くない内に別れが来る。

 長の心中を思えばかける言葉などなく、銀の鬼はただ憂いの眼差しで空を見上げる始祖を見つめるのであった。


 ――そして、それは誰もが予想しなかった形で、突然訪れる事となる。


  ◇◇◇◇◇


 始祖と銀の鬼が語った日より、また幾らか経ったある日の事。

 彩女は対屋の高欄に手をついて庭へと視線巡らせながら、御影の名を呼びかけていた。

 せっかく御影の好物である菓子を頂いたというのに、当の本人が先程から何処にも姿が見えないのだ。

 隠れ鬼でもしているのかと思いながらも他所を探そうかと思って身を翻した彩女に、一人の女が声をかける。御影付の侍女である。


「御影様が、何処にもいらっしゃらなくて……」


 彼女もまた御影を探していたようだが、何処にも見つからないと語る。

 別の対屋を探しても居なかったというから、あとは何処にいるというのかと困り顔で溜息をつく彩女。

 執務の場所で遊ぶような子ではないと思うが、探す人手を増やそうかと思った瞬間にある考えが雷のように脳裏に閃いた。


 御影はこの屋敷の中にはいないのではないか、という。


 御影は最近様々なものに興味を抱いている。

 とりわけ人の世の話に好奇心を示しており、彩女にも里での話をよく話を聞きたがっていた。

 人の里へ行ってみたいと駄々をこね、まだ早いと淵玄に叱られる事も暫しであって。

 やんちゃで好奇心旺盛な御影は、その度に拗ねていて……。 


 ――まさか。


 背筋に冷たいものが走る。まさかと思いたいが、何故かそれは妙な確信を以て彩女の胸の裡に拡がっていく。

 如何に力持つ鬼であろうと、御影はまだ子供なのだ。

 鬼に対して無闇な恐怖を抱く里人の元に姿を現せばどういう事になるか、想像するだに恐ろしい。

 黙り込んでしまった彩女へと、訝しげに侍女が声をかけようとした瞬間、彩女は身を翻して叫ぶ。


「御影を、探しに行きます!」

「御方様……!?」


 狼狽えた女の叫びを背に、彩女は渡殿を駆けた。




 そうではないと良いと願いながら、夢中で足を運び続ける。

 夫にまず相談するという考えすら浮かばぬ程に動揺したまま駆け抜けて、十年ぶりに鬼の郷の外へと出る。

 空間を超える何とも言えぬ感覚の後に、彩女はかつて暮らした里へと足を踏み入れた。

 十年は鬼にとっては瞬き程の歳月であっても、人の世においては大きな時の隔たりだ。

 かつては日常として見慣れていた里は、変わらぬものもあるが、大きく様変わりしたものもあり、それは彩女の胸に微かな感傷を呼び起こす。

 けれども感傷に浸っている暇はないと気持ちを切り替えて歩みを進めたならば、危惧は現実のものとなってそこに在った。

 目の前には人だかりがある。恐怖交じりの怒号と共に聞こえてくるのは、今の彩女の馴染みのものである子供の叫び声。

 御影は里人に囲まれていた。お世辞にも、里人の空気は好意的ではない、畏れと恐れと敵意に満ちている。


「御影!」

「あ、彩女……」


 虚勢を張って見せながらも怯えを滲ませていた御影は、彩女の姿を目にしたなら目の端に小さな雫を浮かばせる。

 思いもよらぬ新たな人影の出現に虚を突かれた里人の隙をついて、彩女は御影に駆け寄り抱き締める。

 感じる小さな温もりに安堵する彼女の耳に、戸惑いと共に聞こえてくる里人の囁き。


「あれは、彩女様じゃないか……?」

「そうだ、先のお館様の姪の……。亡くなった筈ではなかったか……」

「儂は鬼に喰われたと聞いたぞ……。もしや化けてでたのでは……」


 どうやら彩女を覚えている人間が居た様子だ。しかし、その囁きは怯えを更に増して人々に拡がり行く。

 彩女はかつて鬼へと『花嫁』……贄として差し出された身である。

 姿の見えなくなった理由は、里人たちには語られて居なかったようだ。ただ急死したとだけ伝えられたのだろう。

 死んだ筈の娘が十年の歳月を経て現れた事への憶測は、更なる恐怖の呼び水となった様子である。ましてその娘は、額に角もつ幼子を庇っている。

 じりじりと人々は後退しながらも、負の感情は膨らませている。

 もしや里へと害を及ぼす為に現れたのではないか、もしや人を喰らう身に堕ちてしまったのではないか。

 彩女は御影を抱き締めながら、険しい顔で里人を見据えている。

 かつては同胞として笑みを交わし合った人々が向けてくる暗い眼差しを哀しく思う、けれども今は腕の中の子供を守るのが第一に願う事である。

 重い沈黙が続く、誰も言葉を発する事が出来ない。

 沈黙の齎す緊迫感に耐えかねたのは誰であっただろうか、空気を裂いて飛来するものが場を一気に動かした。

 何者かが何かを喚きながら石を投げつけたのだ。投げつけられた石は彩女に当たり、切れた額からは一筋の赫が肌を伝い落ちる。

 それは左程深い傷とは言えなかったけれども、彩女が血を流すのを見て御影は恐慌をきたした。

 鬼の子供が叫んだ途端、大地は鳴動し木々は揺れる。

 それを見て、得体の知れない力に怯えた里人たちは次々に得物を持ち出してくる。射手を呼ぶ険しい叫び声に、彩女は御影を更に強く抱き締めた。

 恐らく最早錯乱状態に等しい彼らに説明しようとても無駄だろう、それならば兎にも角にもこの場から逃げるしかないのだが……。

 如何したものかと思案する彩女の耳に、弦を引き絞る音が聞こえて彼女は目を見開く。この場をどう切り抜けようかという思案も何も、消え果てる。

 彩女は咄嗟に、御影に覆いかぶさるようにして抱え込み、次の瞬間。


 ――射手が一斉に放った矢が次々と彩女の身体に突き立った。




 始祖が侍女からの報告を受けてその場に足を踏み入れたのは、その直後の事だった。


  

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