二
『花嫁』であった贄の娘は、始祖の屋敷に暮らす身となった。
彩女は実に良く働く娘であった。
命じられた子守だけではなく、御影が寝入っている間などは目にする屋敷の女達の仕事まで手伝っていた。
最初こそ人の娘と距離を置いていた女達も、今ではすっかり彩女と打ち解け談笑している様をよく見かける。
かなりの動揺を以て迎えられた、命ありながら滞在する贄は、何時の間にか微笑みと共に受け入れられていった。
「君、本当に良く働くよね。疲れないの?」
「蒼鷹様、お気遣いありがとうございます」
「いや、別に心配しているわけじゃないけど……」
彩女の姿は庭園の一角にあった。目の前に少しばかり呆れた風な表情浮かべる少年の姿がある。
蒼い髪と瞳の美しい少年は、始祖の下にある五人の頭領の一人である。
儚げな少女にも見える外見に反して、花を見事に咲かせる事において右に出る者はいないらしい。
己の館も庭も持ってはいるが、この長の屋敷の庭園の手入れも任されているとの事である。
今日も今日とて庭の手入れをしていたところに、屋敷で噂の贄の娘が現れた。
少しばかり興味も覚えた為、蒼鷹は話を聞いてやることにした。
何でも御影の部屋に可愛らしい花を飾って、幼子の目を楽しませてやりたいと彩女は願う。
まあいいだろうと、蒼鷹は幼子が好みそうな適当な花を見繕って整え渡してやった。
礼をして受け取った彩女の手を一瞥した蒼い鬼は、少しだけ眉を潜めた。
屋敷に夜が訪れて、奥つ城である長の私室にて始祖は思索に耽っていた。
夕に訪れた蒼鷹が告げたのだ。
あの手は労働を知らぬ姫君の手ではない、水仕事などに慣れた働く者の手だと。
それは、始祖もまた感じていた事である。
――彩女は、本当に『姫』なのかと。
別段血筋に拘る心算はないし、武家の姫だろうが平民の女だろうが鬼にとっては変わらない。
ただの糧であるならば問題はない、しかし『花嫁』になると話は別だ。
『花嫁』として『高貴な血筋の娘』を差し出す事と引き換えに、戦への助力をするというのが谷の領主との間に交わした約定である。
その素性に偽りがあったとしたら、そこいらの庶民を姫に仕立てて鬼を謀ろうとしたというなら……。
明くる日、始祖は彩女を伴って庭園をそぞろ歩きしていた。
御影が寝入ってしまってそうそう目覚めぬであろうことを確認し、庭へと連れ出した。
彩女はかなり緊張している様子が見受けられた。鬼を統べるもっとも貴き者に、理由も特に告げられずに連れ出されれば仕方ない事である。
恐らく頭の中を問いが駆け巡っているだろうが、それを口にするのは出来ないようだ。
彩女を一瞥して、始祖はおもむろに問いかけた、お前は本当に姫であるのかと――。
鬼に捧げられる『花嫁』は、対価を支払う者の血筋たる高貴な姫であるはず、そうでないならば鬼を侮る事となる。
それを聞いた彩女は静かな面持ちで一度目を伏せてから、確かな声音で紡ぎ始める。
「姫と呼ばれる事はありませんでしたが、お館様の姪にあたりますのは間違いありません」
「……領主の姪であれば、姫と呼ばれて然るべきでは?」
ゆるゆると、彩女は首を左右に振る。その表情には少しばかり苦い色が滲んでいた。
彩女の母は、領主の妹に当たる女性であるという。公家の血を引く高貴な姫君であったらしい。
けれども、姫は婚儀の前に誰の子とも知れぬ子を身籠った。
出産こそ許されたが家名を損ねる不祥事として慌ただしく遠方の他家へ嫁がされた――生まれたばかりの彩女を置いて。
彩女は叔父である当主の温情によって、館の奥にて育てられた。
けれど何故か叔父の正室は彩女を毛嫌いし、奥の侍女のする事から下女のするような仕事まで、朝から晩まで働くように命じられていたとの事である。
無論姫と呼ばれる事もなく、むしろその存在を隠されるように片隅で生かされてきた。
『花嫁』を差し出すにあたって自分の娘を失うのを拒んだ正室は、まがりなりにも当主の姪である彩女を『花嫁』とせよと声高に叫んだ。
続いた災いに戦、それまでの贄は側室から生まれた娘を差し出していたが、それも数に限りはある。
残るは本腹の姫ばかりとなった時、正室は血走った目で彩女を指さした。
確かに母は公家の血を引く姫であり、当主の姪であれば高貴な血筋である事には間違いない。
周囲がざわめく中、家と里の為に彩女は拒む事なくそれを受け入れた。
自分が花嫁として出立する日の、叔父の複雑な眼差しが忘れられない。
彩女は知っていた、けれど終ぞ呼べなかった――『お父様』と。
語り終えた彩女の顔には、穏やかな微笑みがあった。重い話を紡いでいたとは思えぬ、静かな笑みが。
此度困惑するのは始祖の方だった。
何故この娘はこんなにも穏やかに身の上を語る事が出来たのだ。何故、微笑む事が出来るのかと。
人と鬼とは違う理にある、情のありようも、価値観も違うものである。
けれども、彩女は恨まなかったのだろうか、呪わなかったのだろうか、己の置かれた境遇を……この世に生まれた事を。
心に生じた問いを、始祖は彩女へと投げかけた。返ってきた答えは、否だった。
彩女は言う。全く恨まなかったし嘆かなかったと言えば嘘だと。けれどもそれ以上に、と続ける。
「生まれなければ見る事も聞く事もできなかった。何も知らず何も感じず。守りたいと感じるもの、優しいと思うものに出会う事も出来なかった」
苦しい事も哀しい事もない、けれども何もないのだ。
生じなければ、無であったから。
日々の小さな喜びも幸せも、愛しむ気持ちを抱く事にも、優しさに心動く事も何も。
それは、あまりに寂しい事だから。
「せっかくこの世に生まれ落ちたのであれば、私は憎む事よりも愛する事を見つけていきたい。だって……」
憎しみは連鎖する、拡がり行く。何もかもを暗き場所に飲み込んで。
それならば、と彩女は言う。
その声音に偽りはない、本心より紡がれる彩女のこころ。始祖は言葉を返す事も忘れてそれに聞き入ってしまう。
そして見入ってしまう、あまりに温かに優しく微笑む娘に。
「この世は、こんなにも美しいのですから」
――うつくしいと、始祖は感じた。
何もかも許したもうたような、受け入れ昇華させたような、慈愛に満ちた微笑みだった。
無邪気もあり、母のように包み込む深さもある、不思議で眩い笑みだと、始祖は思った。
ここに至るまでには苦労もあっただろうに、けして平坦な生ではなかっただろうに、彩女は微笑うのだ。
始祖は、こころの奥に温かな『何か』が灯ったような気がした。
黙り込んでしまった始祖を見上げながら、彩女は徐々に動揺の色を滲ませながら問いかける。
「始祖様?」
「……『
問う声に返ってきたのは、あまりに意外な応えであり、彩女はきょとんとした表情で目を瞬く。何を聞いたのか理解できていないと言った風だ。
続く言葉が見つからない様子で沈黙して首を傾げる彩女に、玄い始祖は更に続ける。
「……我の名は、淵玄だ。……お前は、我をそう呼ぶが良い」
彩女も、屋敷へ戻った後にそれを知った皆もただただ動揺するばかりであった。
鬼を統べる尊き長がただの人の娘に名を許したのだ、無理もない事である。
玄を纏う始祖は何も語らなかった。何も語らぬまま、気が付いた時には、彼は彩女に魅入られていた。
それが、彼の中で人が『糧』以外の意味を持った、始まりの日だった。
周囲の困惑を他所に、季節が過ぎて幼子は育ち行き、始祖の裡に生じたこころは募り行く。
それは始祖の裡のみではなく、人の娘の裡にも同様であった。
始祖は彩女に花を送り続けた、歌を添えて。
鬼と人の理違えども、それが求愛である事に気付かぬ者は居なかった。
高価な物や大がかりな物は贈らなかった。
名人の手による美々しい衣を贈った時には彩女は申し訳ないと恐縮し、季節を望むものに変えてやった時には目を回したからだ。
その代わり、欠かさず花に事寄せて歌を贈った。
彩女の文箱にひとつ、またひとつと歌が仕舞われる度、二人のこころに温かなものが積もった。
御影の成長を見守る二人は、自然と寄り添って在る事が増えていく。
始祖が彩女に求婚したのは、或る秋晴れの日の事であった。
彩女はただ震え、身に余ると拒否を口にしようとした。
全ての鬼を統べるこの男性は、不老不死の命と強大な力を持つ存在であり、儚い存在である彩女と到底釣り合いなど取れない。彩女はそれを弁えなければと告げる。
されど始祖は諦めず、言葉尽くして希いう。己の中の恋心と畏れに暫し葛藤を続けた彩女は、やがては始祖の温かく大きな腕に抱かれて静かに承諾を口にしたのである。
長の口から彩女との婚姻を告げられた鬼の青年は筆を取り落したまま茫然としていた。
紅い髪と瞳持つ精悍な印象与える青年は、始祖の執務を助けて書き物をしていた最中に、何気なくそれを告げられた。
最初こそ頷きながら聞いていたが、内容を理解したならば、あまりに衝撃的な言葉に完全に固まってしまっている。筆を落したことにも恐らく気づいていないだろう。
紅い鬼は、掠れた声で切れ切れに言葉を絞り出した。
「……『花嫁』を……贄である人の娘を妻に迎える、と……?」
一部の乱れもなく直衣を着込んだ生真面目な紅い鬼は、続く言葉に相当迷っている様子だ。
不敬を紡ぐのは以ての外、けれども事が事である。
そもそも贄がこんなに長く命を永らえている事も、屋敷に部屋を与えられて過ごして居る事も今まで無かった事態である。
そこに、長がその贄との婚姻を望んでいると言うならば、生真面目で、些か融通の利かぬ性質の紅い鬼でなくとも言葉を失うであろう。
紅の眼差しの先、始祖の漆黒の瞳に揺らぎはない。表情にも欠片の冗談も存在しない。元より長は悪戯に他者を揶揄う気質ではない。
大きく頷くと、始祖は己の決意を再び口にした。
「我は彩女以外の女を妻とする心算はない」
「し、しかし……長様、それは……」
前例がない、種族が違う、身分が違う。反対する理由なら幾らでも紅い鬼の脳裏に浮かぶ。
けれどもそれを口にできない、長はそれ全てを承知の上でこうして告げているのだと悟っているから。
蛇に睨まれた蛙のように蒼褪めて固まってしまっている紅い鬼と、それを無言で見つめる始祖の耳に、不意にふわりと朗らかな声が届いた。
「まあ、いいじゃないの」
「翠黛!」
紅をさし、艶やかな重の小袿を纏い緋の袴を身に着けた、傾城と称してもおかしくない程の美女が楽しげに笑っている。
髪も瞳も翠玉を思わせる色で、額には当然鬼の証である角がある。
宮中に入れば至高の位に昇り詰める事も可能であろう程に美しい翠の鬼を見ても、長は表情動かさず、紅い鬼は顰め面で苦々しく呟く。
「お前……また長の御前にてそのような恰好を……」
「いいじゃない、綺麗なんだから」
紅い鬼が渋い表情をするのには訳がある。
理由としては簡単だ、この翠黛と呼ばれた絶世の美女……に見える鬼が本当は男というだけだ。
美しいものを好む鬼は女が纏う美々しい装束を好み、自ら纏い化粧までして見せる始末である。
長が咎める事も無いため、これ幸いと日々艶やかに装う事に余念がない。
「紅焔、貴方は小難しく考えすぎなのよ」
「お前は考えなさすぎだ」
能天気なまでの軽さで言われた言葉に、口の端引きつらせて重々しく答える紅い鬼こと紅焔。
その様子を見て肩を竦めながら、嘆息交じりに翠黛は続ける。
「今までどんな美女を見ても醒めた顔してらした方が、漸く乗り気になってくれたのよ? 喜ばしい事じゃない」
「それはそうだがな……」
始祖は今まで捧げられたどの『花嫁』にも興味といえる興味を示さなかった。
時折気まぐれに相手をさせる事はあった、しかし結局は喰らって終わっていた。
鬼にも美しい女達はある、それすらも傍に寄ろうとすれば面倒そうな表情をするばかり。
『無限』の命を持つ故か、己の子や血脈を残す事にも全くもって頓着せず、長の周囲に女の気配は皆無と言って良かった――彩女が現れるまでは。
紅焔は小さく呻く。例えここで反対したとしても、始祖の決定は絶対である、覆る事は恐らくない。
祝福述べた後に、さあ花嫁御寮の支度をしなきゃと女衆と盛り上がる翠黛。
対照的な二人を見遣りながら、長は静かに立ち上がると、今頃御影の遊び相手をしているであろう愛しい娘の元へと足を向けた。
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