《玄》 始まりに謳う


 今よりも幾分人と人ならざる者が近しく、現世と幽世の境界が曖昧であった頃。

 人の世は群雄割拠の戦の時代、興っては滅び、勇が現れてはまた消える。

 そのような世にあって、力を持ち合わせた男は天下を伺う事はよくある事であり、その影に女の涙があるのもまたよくある事。

 中には人ならざる者の力を借りてでもと切望する者とてあり、彼らは願いを聞き届けてもらう対価を捧げた。


 ――『彼女』もまたその一人だった。




 人里から離れ更に行きて、何時辿り着くのかと迷い込んだ者は思うという。

 招じ入れられなければ、永久に彷徨う妙なる色合いの霞に隔絶されるようにある場所。

 人の世の何処からも通じ、何処へとも行ける不可思議な地に、それは存在した。

 常に花々が咲き誇り、数多の果実が枝を撓らせ、大地は彩りに満ちた美しい地。

 この地を目にした者は、ここをこそ浄土とも思うかもしれない。

 けれども人の身では招き入れられなければ、けして足を踏み入れる事叶わない夢の郷。

 それが、強き力と永き命を持つ『鬼』と呼ばれる者達の暮らす『鬼幻郷』であった。

 美しき夢幻の地を目にする事が出来る人間は左程多くない、そしてその者達の大概がそう時を置かずして本物の浄土へと旅立つことになる。

 何故なら、鬼幻郷に入る事を許される人間は全て鬼の贄たる者達だからだ。

 慎み身を清め、美しい装束に身を包み迎えられる贄の女達を、鬼は『花嫁』と呼び習わした。



「此度の『花嫁』は何処からだったか」

「……北の山間にある小さき国の主より身内の姫を差し出すとの事です。干ばつがあった故に里の豊穣と……次なる戦に助力を希望しておりました」


 まほろばの里の最も奥まった場所に、大層風情ある屋敷があった。

 いや、屋敷と呼ぶには、その細部まで意匠凝らされた寝殿造りの建物は見事すぎた。都のどの建物と比べても……御所とも比肩し得るものである。

 屋敷の渡殿を進む影が二つあった。

 くつろいだ袿姿のまま優雅に歩みを進めながら言葉を交わす二人は、あまりに見目麗しすぎる風雅な容貌である。

 全てを統べて合わせたような漆黒の髪と瞳の男と、蜜を思わせる黄金の色と髪の瞳の男。

 端麗な二人の額には、人とは決定的に違う証である一対の角があった。彼らはこの鬼の郷を総べる長たる鬼――始祖と呼ばれる存在と、それに従う者である。

 漆黒纏う始祖は、問いかけに帰ってきた金の鬼の言葉を聞いて、つまらなそうな嘆息交じりに告げた。


「谷の小者が分をわきまえぬ夢を見たか。……仕方ない、一応加勢はしてやるがいい」


 『花嫁』を差し出してきた事に見合う返礼をしてやらねばなるまい。

 統治者の血筋の娘を代償として差し出したのだ、そうそう軽く扱う訳にも無碍にする訳にもいかないだろう。

 しかし、と始祖は続ける。


「ただし、ある程度で構わない。……それで破れるようならそれが天命」


 そもそも、此方から求めたわけではないのだ、命運覆す程に付き合う義理は無い。

 長がそう考えているのを感じ取り、金の鬼は諾の意を述べる。

 また一つ嘆息し、統べる鬼は呟く。


「土地に恵みを与えてやっているだけで、既に糧を得る事と引き換えの約定は果たしている筈。それ以上は過ぎたものだ」


 鬼は人を喰らい生きる存在。

 この地に根付き糧を得る事への対価として、鬼からは人の住まう里への豊穣を約した。

 それは支配者と鬼との間に交わされた密かな約定である。統治者が里人の犠牲を容認したと同じ事だが、それは鬼の知った事ではない。

 人が魚や獣を喰らって糧とする事と、鬼が人を喰らって糧とする事の何が違うのだろうか。

 喰う者喰われる者が変わっただけ。自分達は対価を払っている、ならば何を気に負う事があろうか。

 そんな中で人の支配者は、時折血筋から『花嫁』として贄を差し出してくる。そして大概何かしらの願いを告げてくる。

 くれるというなら貰う、告げられた願いも相応の範囲であれば叶えてやる、それだけの事。

 ただ、最近その頻度が増えてきていることに、始祖は些か食傷気味であった。

 それでも、来た者をただ放っておくわけにもいかないと、彼を待っているであろう『花嫁』の元へと歩んでいる最中なのである。


 その後言葉なく歩みを進めた二人であったが、始祖の足が止まる。

 東の対屋において、麗らかな日差し差し込む庭池に面した座敷。

 『花嫁』の座す場所へと眼差し向けた始祖であったが、一呼吸置いて後方にて足を止めた金の鬼へと無感動に告げた。


「……居らぬが?」

「……え?」


 全く予想していなかった言葉に、思わず軽く目を見張る金の鬼。

 慌てて『花嫁』の在る筈の場所を覗き込むけれど、確かにそこには人影などない。幾度見直しても、もぬけの殻である。

 今までになかった出来事に、躊躇い滲ませながら金の鬼が浮かんだ疑念を口にする。


「逃げ出したのでしょうか……」

「帰る場所などないと言うのにか?」


 始祖が冷静に告げた言葉は真実である。

 贄の娘達はここに来た時点で大概覚悟を決めている、今更逃げ出す事など考えられない。

 仮に命が惜しくなり逃げ出そうとしてもこの屋敷からまず逃れられぬだろうし、よしんば抜け出せたとしても帰る場所などない。

 鬼の勘気を蒙るのを恐れる者達は娘を受け入れる事はない、ここに差し出された段階で娘は死を迎えたと同義である。


 さてどうしたものか、と眉間に皺を寄せて嘆息する始祖だったが、ふと何かを感じて眼差しを虚空へと向ける。

 歌が、聞こえたのだ。

 馴染みのない澄んだ声で紡がれるのは、聞いた覚えのない歌。優しく柔らかな響き伴うそれは、知らぬというのに何故か『子守唄』と感じた。

 この屋敷に在る者であれば彼が知らぬ者はない、これは間違いなく彼が今日まで聞いた覚えのない者の声である。彼が見知らぬ存在で、今日現れたというならば、それは――。


 困惑する金の鬼を置いて、始祖は奥の座敷へと更に歩みを進める。

 声はそう遠くから響いてきたわけではないそれならばと歩む足に迷いはない。過たず鬼の足はそこへと至り……。


 そこには、見知らぬ娘が居た。

 汚れのない真白の衣を纏った娘は、腕に幼子を抱いてあやしながら、歌っていた。

 被っていた筈の綿帽子は畳の上に無造作に置かれている。余程慌てて外し置いたのだろうか。

 無邪気に笑う角持つ幼子に向ける眼差しは、温かで優しい。

 際立って美しいというわけではない。この娘より見目麗しい娘達なら鬼の内にもあるし、幾人も『花嫁』として捧げられてきた。

 美しいというより愛らしい顔立ちは、どこか稚い印象すら与える。それなのに、幼子に向ける笑顔は、今まで見た中で一番うつくしいと始祖は感じた。

 娘は始祖が背後に現れた事に気付かない。気付く事無く、幼子に歌を聞かせてやっている。


 最初に新たな人影に気付いたのは幼子のほうだった。

 見慣れた長身を認めたなら、それまでの表情とは変わって怯えたように顔を歪めたのだ。

 それを見た娘は漸く気付く、自分へと感情の伺えない眼差しを向けながら立つ鬼の男の存在に。


「……何をしている」

「ええと……その……」


 問いかけに、娘は蒼褪めて口籠るばかり。

 その頬に汗の玉が伝う。顔色は蒼を通り越して、その身に纏う白無垢もかくやという程に白い。

 問いを口にした鬼が一体何者であるのかを察した様子だ、表情は強張りかすかに震えているのが見える。

 ややあって、震える声で絞り出すように口にしたのは、切れ切れな問いかけだった。


「あの、貴方様は……もしかして……」

「……この御方は、我ら鬼の一族の長である始まりの御方……始祖様であられる」


 追いついて、少し遅れてその場の状況認識したらしい金の鬼が、長たる鬼に変わって応える。

 心に生じた疑惑が肯定されたであろう娘は、今にも倒れんばかりの様子である。

 自分の背負う境遇と、自分が今ある状況を認識した娘は、その口から言葉を紡ぐ事が出来ないようだ。

 始祖は、彫像のように凍り付いてしまった娘へと、先の問いを今一度口にする。


「何をしている、と問うている」

「……あの。‥‥…子供の泣き声が聞こえて、黙っていられず……」


 『花嫁』の装束を纏いながら必死に幼子をあやしていた娘は、問われて震える声で応える。

 この娘は『花嫁』という名の贄として差し出された娘である。そのことは本人も知っているだろう、命を失う事を覚悟してここに来た筈だ。

 それが子供の泣き声に黙っておられず、置かれた状況を忘れてあやしていると。額に角持つ、どう見ても人を喰らう鬼と分かる幼子を。

 重く深い沈黙がその場を支配する。

 処刑寸前の咎人のような面持ちで固まってしまった娘の頬に、幼子が触れる。突然歌を止めてしまった相手を、続きをせがむように見上げている。


「珍しいですね、あの御影が大人しい……」


 その様子を見た金の鬼が、感心した風に呟く。

 長に連なる血族に生まれた幼子は、非常に人見知りする性質であり誰にも懐かなかった。

 癇が強く火が付いたように泣くことや暴れる事が多々あり、日頃屋敷の者達が手を焼いていた。

 その御影が、あの人の娘の腕に抱かれ、むずがる事なく機嫌よく笑っている。懐いてすら居るようだ、警戒する事なく身を預けている。

 けれども、何時までもそうさせて置くわけにはいかないと金の鬼が侍女を呼びつける。

 幼子を連れていくように命ぜられた侍女に、抱いていた子を渡すべく娘が手を離した、その瞬間だった。

 幼子は火がついたように泣きだし、対屋に響き渡る程の絶叫を上げ始めたのである。

 いやだとむずがりながら泣いて暴れる子供に、狼狽える侍女と娘。

 如何したものかと眉寄せて思案する金の鬼に、頭痛がすると言わんばかりに蟀谷おさえ溜息をつく始祖。

 大音響を背景に、始祖は娘にある意図をもって目配せし、恐縮しながら娘は頷いた。

 そして侍女から幼子の身を預かると、再び幼子をその腕に抱いてあやし始める。

 ぴたりと収まる大絶叫。うってかわって幼子はご機嫌に再び笑っている。楽しそうに、娘に手を伸ばしすらしている。

 今度は、何とも言えない沈黙がその場に満ちる。

 またも深く溜息をついたなら、始祖は娘へと底知れぬ深い黒の眼差し向けて新たな問いを口にした。


「……娘、名は?」

「は、はい……! 彩女と申します……!」


 あやめ、と一度口の中で名を繰り返す始祖。

 美しい鬼が呟く名は、何故はひどく甘やかに響く。

 名を呟かれた彩女は僅かに頬を赤らめるものの、すぐに状況を思い出して顔色は薄紅から蒼を経由し白に戻る。

 始祖の処断をその場にいる者が沈黙し、待ち受けていた。ややあって、漸く始祖はゆるりと言葉を紡ぐ。


「ならば彩女。……お前を御影の守り役としてこの屋敷に留置く事とする」

「長様……!?」


 彩女が息を飲みさらに凍り付くのと、金の鬼から怪訝そうな声があがったのは同時だった。それに動じなかったのは、彩女の腕でご機嫌な幼い御影だけ。

 彩女は驚愕を隠す事もできないまま始祖に眼差し向けるけれど、そこには嘘や冗談の色はない。

 答えを促す眼差しを始祖が送ったならば、彩女は平伏しながら震える声で反射的に諾の意を口にした。

 それを聞いた始祖はひとつ頷くと、そこにいた侍女へ、部屋を用意し休ませてやれと命じる。

 御影をどうしたものかと言いたげな表情を向けられたが、再び大泣きされても、と始祖は一緒に連れていけという意の眼差し向けた。

 侍女が彩女を連れて去ったなら、その場に残されたのは鬼の男二人。


「良いのですか?……贄の娘を子守になど」

「ならば、お前が御影の面倒を見るか? 金雀枝」

「……謹んで辞退致したく」


 かつてない事態に流石に動揺隠せずに問う金雀枝に、始祖は露程も動じずに問いを返す。

 如何に如才ない金の鬼も言葉の通じぬ幼子の相手は苦手としている、返答が些か逡巡含んでしまったのは致し方ない。

 始祖は彩女の消えていった方向を見つめていたが、休むと言い置いて己の私室へと歩んでいく。

 頭を垂れてそれを見送っていた金雀枝であったが、その内心では混乱気味ですらあった。今までにない事だ、と言葉を失ってしまう。

 始祖は、何時も『花嫁』を面倒だとばかりにさっさと喰らってしまっていた。

 贄の娘が命を保ったままこの屋敷に過ごす事を許されたなど、今までに無かった事である。

 ただ、あの暴れん坊で気難しい幼子を皆がほとほと持て余していたのも事実。その面倒を担ってくれるというなら、まあ有難いといえば有難い。

 けれども何か……大きな境目を迎えたような気がするのだ、鬼の一族が。


 その『何か』が何であったのか、それを金の鬼自身が知る事になるまでには、まだ暫しの時が必要であった。

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