《幕間・伍》

収束する物語


 最後を静かに結び終えたなら、二人は余韻に満ちた沈黙に漂う。

 暫しそのままであったが、何処かふわふわとした口調であやめが言葉を紡いだ。


「女の子は幸せになって、悪い奥さんと旦那さんに、バチが当たったんですね……」

「あやめさん……?」


 温かい腕に抱かれ、低く落ち着く声で語られる物語を聞くうちに、あやめは夢に誘われかけていた。

 これではいけない、こんな事ではいけないと思うけれど、遂には何がいけない事なのかが分からなくなってくる。

 此処は私が居ていいところじゃない……いいえ、私の場所。懐かしくて優しい、私だけの。

 帰ってきた、そう、何時か必ずと約束した……。

 言葉少なだったあやめは、何時しかそのまま安心しきった様子で眠りについていた。



「こういうところは、変わらんな。他に対する警戒が些か足りない」


 あどけない程の寝顔を見せるあやめを静かに見つめていた玄鳥は、不意に溜息交じりに呟いた。

 窘める言葉ではあるものの、その言葉が帯びる響きは不思議に優しい。

 目を細める男の口元には微笑みがある。

 平素の頼りなさもよれた雰囲気もそこには無い。何者に対しても丁寧であった口調も、何処か別人のようである。

 身体を預けて寝入ってしまった娘を守るように抱く姿にあるのは、威厳と慈しみ。


「……お前にこの世で一番焦がれる男を前にして、無防備すぎるぞ?」


 額に一つだけ口付け落す、今は此れが精一杯。

 何れ時は至る、彼女はそう約束したのだから。

 そう思いながら男はそれ以上の言葉を紡がぬまま、少しだけ抱く腕に力を込めて彼女を見守り続けた。


 ◇◇◇◇◇


 明けて次の日。

 家の掃除などを片づけたあやめは、何時ものように買い物に出ていた。

 しかし、顔色は蒼いを通り越して白い。更に表情も固い。行き会った知人たちが心配するほどである。


 あやめは今日、何時も通り自分の床で目を覚ました。

 何時も以上にぐっすりと、夢も見ない程の深く眠っていたようだ。

 さて身支度をして朝餉の支度、と起き上がりかけて固まった。自分は、何時床についたのか、と。

 自分で寝床に入った覚えはないし、そもそも意識が消える前に最後に居た場所は……と思えば途端に蒼褪めてしまった。

 あろうことか、玄鳥の腕に抱かれて眠ってしまったのだ。

 それを玄鳥はあやめの部屋まで送り届けて寝かせてくれたのだ。


 あってはならない事づくめの事態に、もうあやめの脳裏は混乱しきりである。

 考えが纏まらないどころではない、顔色は一人百面相の有様。

 嫁入り前の娘が、あろうことか殿方の腕の中で無防備に寝入ってしまうなど。しかも、寝床まで運んでもらって。

 身持ちが悪いとかふしだらなと眉を顰められても仕方ない、いやそれだけではなくて玄鳥の手を煩わせてしまった事が……。


「どんな顔をすればいいの……」


 起きた時、玄鳥は既に出かけた後だった。

 御影と共に出かけてくるとの書き置きがあった為、今日も訪れた御影が玄鳥を起こしてくれたのだろう。

 何でも新しく身内が出来る事となった為、祝いを届けに行くとの事である。

 人影のない居間に書き置きを見つけた後から、日頃の勤めも果たせない事への罪悪感も合わさってあやめの心は重い。

 けれども、何処かで顔を合わせずに済んだ事に安堵を覚えている。

 眠りにつくまでにあったことも、語られた話も、ちゃんと覚えているのだ。

 どのような顔をしていいかわからない、あやめの心の裡はこの言葉で埋めつくされている。

 あちこち寄り道をして、何時も以上に買い物に時間をかけてしまう。

 帰らない訳にはいかない、玄鳥が心配する。さりとて顔を合わせるのは大変気まずい。


 あやめの心の天秤は揺れに揺れて定まる事を知らぬまま、それでも何とか笑顔を取り繕って八百屋の店先へと辿り着く。

 八百屋の嫁は、あやめを見ると驚いたような様子を見せた後、耳打ちするように声を潜めて口を開いた。


「あやめさん、あの家を出されていてむしろ正解だったわよ」

「え?」


 八百屋の嫁が何を言っているのかが直ぐには理解できず、思わず首を傾げてしまう。

 それを見て、口元に手をやりながら八百屋の嫁は更に続けた。


「嘉島のお家……ご当主様が逮捕された後、完全に傾いてしまってご一家は離散されたそうよ」

「……ど、どういう事です……?」


 あやめの口からは、戸惑いしか紡がれなかった。

 八百屋の嫁が言う事には、何でも叔父が売りに出した宝飾品がさる公爵家から盗難届の出されていた品だったという。

 格上の家門の怒りを買い窃盗の疑いをかけられ叔父は逮捕され獄中にて首を吊り、主を失った家は元よりの事業の失敗もあって完全に潰れてしまった。

 家人は散り散りに離散し、叔母も従妹も行方知れず。使用人達も次の雇用先を見つける暇もないまま追い出された。

 上流階級の間の噂として囁かれていたその話は、今朝の新聞に取り上げられるに至った。今日は朝から、帝都の人々はその話題で持ち切りであるとか。

 やっぱり後ろ暗い事のおありな家だったのね、と溜息交じりにいう声も、遠くに聞こえる。

(どういうこと……?)

 我ながら薄情とは思うが、叔父や叔母達に対する同情の念は湧いてこなかった。

 代わりに、次々と疑問が湧き上がり膨れ上がっていく。

 これは、玄鳥が語った『銀の鬼』の物語にあった少女の血族の末路、そのままではないか。

 玄鳥は何処かから話を聞いて、あの話を考えたのだろうか。

 話の中に出てきた『初枝』と『瑞枝』の名前だって、あやめの昔語りから叔母と従妹の名前を使って。

 叔父が若い頃に遊学の経験がある事だって、ただの偶然で……。


 ならば玄鳥は何処からその話を聞いたのだろう? 

 実は華族様の出だという噂は本当で、実家などから仕入れた噂を語って聞かせたという事なのか。

 それとも、別の伝手から話を仕入れて、新聞を介して帝都に広まる前に知って……。


 何処からが本当で、何処からが作り話なのか。

 違う、そうではない。玄鳥は言っていた、自分は語り手でしかないのだと。


 それに『銀の鬼』の話だけではない。

 『金の鬼』に愛された『二番目の妻』が消えたからこそ、妾の娘は嫡子と成り得た。

 『紅の鬼』に愛された『夢に微睡む令嬢』は妾の子だった資産家の娘に婚約を奪われている。

 『翠の鬼』に愛された『女優の付き人』を守って跡継ぎであった青年は死に、それ故に婚約の話は消えた。

 『蒼の鬼』に愛された『薔薇屋敷の娘』は女学校の朋輩を姉とも慕い、それ故に朋輩の実家は陥れられ傾いた。


 妾の娘から嫡子となった資産家の娘である祖母、祖父は祖母を妻に迎える為に婚約を破棄し、婚約破棄を責められた令嬢は死と焔を願った。

 あやめに最初に決められた婚約者には家を出て女優の付き人をしている妹がいた、彼は急に亡くなった。

 薔薇咲く家の娘が自分に懐いてくれたが故に、彼女の保護者である壮年の男はあやめの実家を陥れた可能性がある。

 そして、あやめを冷遇して濡れ衣着せた家は盗みの咎を受けて取り潰された、話の中で『銀の鬼』が愛した『待宵の少女』を連れ去った者達のように。


 全てが絡みあい結びつき、或いは迂遠に、今日の自分へと繋がっている。

 物語として語られたものと同じ逸話があるからこそ、今のあやめがある。

 語られる物語を絡めとり、今を生きるあやめの日々は続いている。

 過去と今、二つの流れが何処かに収束しようとしている。彩の名前を持つ五人の鬼と、彼らと絆を紡いだ娘達の物語によって。

 生まれる前の出来事から、直接知る知己の登場する話となり、あやめに繋がる人々との間に鬼との縁は存在した。

 ここに至って確信が生まれた、語られた五つの物語が全て現実にあった話である事を。

 そしてその鍵となるのが、語り手である玄鳥と、あの不思議な万華鏡……。

 全てが結びつき流れ至る真実の先に、あやめの中にある『約束』が叶う時がある。

 もう、分かっている、答えはすぐそこに――。


 思索に耽っていたあやめの耳に、不意に新たな話題が飛び込んでくる。


「そうそう、それに。この前の騒ぎを起こした男が居たでしょう?」

「ええ、あの酔っ払いの……」


 八百屋の嫁の語って聞かせた事は、更なる驚愕を呼んだ。

 先日あやめに絡んだあの男が、気が触れたとして病院に送られたという。

 何でも『鬼に追いかけられた』と大騒ぎして回ったらしい。

 大暴れした挙句に警察の厄介になったのだが、最早その言動は支離滅裂で正気の範疇に無かった。

 黒かった髪もどれ程の恐怖に遭遇したのか、すっかり白くなってしまっており、最早自分が誰かもわからぬ有様であるとか。

 命はあるものの、あれでは残りの生涯もう娑婆に戻る事は叶うまいとの話である。

 罰が当たったのだわ、と語る八百屋の嫁に曖昧に微笑むと、お勧めの品を幾つか買って店を後にした。


 破落戸の末路に、胸が騒めいた。

 鬼に追われたなど、絵空事もいいところだと以前のあやめなら笑っていただろう。けれども、今はそれが出来ない。

 本当にあった事だと思うから、五つの物語も、鬼に追われた男の話も。

 二つの点を結びつけるものはないだろうか、物語と、先日の出来事に共通する何かは。

 次から次に浮かぶ疑問、声に出して問いたくても言葉とする事が出来ない。

 そういえば、あの時にあの人は彼に何と言っていて、その後彼はどうしていただろう……。

 それは……。


「……玄鳥先生……」


 もう顔を合わせるのが気まずいなどと言っていられなかった。

 今は、玄鳥に会いたいという思いしかなかった。会って、その口から真実が聞きたい。

 何かに導かれるように、あやめは再び歩き出した。

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