籠女・三
少年が新しく温室の管理に携わる事になった事は、使用人達は知らないようだった。
老庭師はまだ臥せったままであり、現在日々の手入れをしているのは透瑠である。
璃子は女学校から帰宅後、暇を見つけては温室へと通うようになっていた。
少年は確かに薔薇を育てる事に長けていたし、知識も豊富であった。
問いかけた事に淀みなく答えてくれ、その度に璃子を感心させる。
「……薔薇を綺麗に咲かせるのは本当に大変なのね」
「はい。でもこの蒼い薔薇は従来の薔薇よりも随分丈夫なので助かります」
透瑠は蒼薔薇を見上げた。
二つの視線が向う先で、今日も美しく咲き誇っている。
心なしか前よりも艶やかに咲き誇っているようにさえ見えるのは気のせいだろうか。
「他にはない色というのもありますが、何か特別な秘密があるのかもしれませんね」
この世には存在しないとさえ言われている奇跡、不可能を意味するとさえ言われている蒼い薔薇。
何故ここにそれが存在するのか、如何にしてこれを手に入れたのか。
疑問は尽きないけれど、璃子にはそれ以上に知りたい事がある。
透瑠の事が知りたい。
少年は自分の事をあまり話さない、ここに来る前の事、どんな家族のもとでどのように暮らしていたのか。
如何なる経緯にて老庭師に見いだされるに至ったのか。
それ以外にも、どんなに小さい事でも構わない。好きな食べ物でも、趣味でも、何でも。
そして知りたい、透瑠に出会って宿った胸の奥に熾火のようにある熱の正体を。
鬩ぎあう心の中の願いに気を取られた璃子を現実に引き戻したのは、指先に走った鋭い痛みだった。
「痛っ……!」
「璃子様!」
薔薇の棘が璃子の指先に、小さな宝石のような紅い雫を作った。
失礼と短く言った少年は、その指先を口に含む。璃子としても急な痛みに戸惑っていたし、透瑠としても咄嗟の対応だったのだろう。
しかし、一呼吸おいてお互い我に返れば、二人揃って頬を染める事となった。
「も、申し訳ございません……」
「い、いえ、いいの。気にしないで……」
鼓動が身体の内に大きく響いている、身体全体が心臓になってしまったかのようだ。
落ち着いて、と自分に言い聞かせるけれど、裡に響く早鐘はそうそう止まってくれそうにない。
透瑠と、視線があった。
頬に赤みを残したまま、交差する眼差しに二人は揃ってはにかむように笑って見せた。
◇◇◇◇◇
数日たち、館の主の男性が帰宅した。
璃子へと土産である数々の品を渡しながら、変わりはなかったかと問う男。
沢山の美しい品々を見てはしゃいで見せながら、璃子は何も、と答える。
温室で大事に育てあげられた華は、支配者の望む通りに微笑み続ける。
変わらず淀みなく流れていく日々。けれども、其処には一つの歪みが存在していた。
夜更けて人々が寝静まった頃、温室にて硝子越しの夜空を眺めていた。
隣には庭師の少年の姿。
体調が悪化し入院する事になった老庭師に代わり、透瑠は温室の管理を続けていた。
庇護者の帰還によって日の在る内に来る事が難しくなった後、二人が温室で会話するのは専ら夜闇の下だった。
その日あった事など、他愛無い事をあれこれと話す時間はとても楽しい。
璃子はこの場所でだけは、作りあげたものではない、本物の無邪気な笑顔を見せていた。
透瑠はそんな璃子の話を相槌打ちながら、微笑んで聞いてくれている。
「私は、夜空の下で見る方が好き」
璃子はある時、蒼薔薇を見つめながら不意に呟く。
「月の下のこの花は、哀しい感じがするから」
昼間の陽光の下の蒼は美しいけれど、自分には眩しすぎる。けれど、夜闇の下の深い蒼は、心に落ち着く気がする。
璃子の横顔は寂しげであり、透瑠は沈黙したまま眼差しを向けるだけ。
雄弁に元気づけようとするより、黙してくれている方が璃子は嬉しいと思った。
璃子の口から、ぽつりと再び言葉が紡がれる。
「ねえ、透瑠」
「どうしました? 璃子様」
返る声音はあくまで静かで優しい。
璃子は首を少しだけ傾げると、僅かに微笑んで問いを口にした。
「……私を盗んでくれる?」
「璃子様……」
それが何を意味しているのか気付いた透瑠は、言葉を失ったようだった。
抑えているようだが、その沈黙には戸惑いが滲んでいる。
暫し沈黙が二人の間に満ちる、けれどそれを璃子の明るい声音が破った。
「ごめんなさい、冗談よ。忘れてね」
努めて朗らかな口調を作り、璃子は言った、
何を言っているのだろう、と心の中で自分を苦々しく思いながら。
何処へ行こうというのだろう、何をしようと。透瑠を巻き込んで、どうしようと。
今はこれだけでいいのだ。この夜空の下でのひと時があれば、それだけで。
璃子は、自らを戒めるようにそれを心に刻みつけた。
◇◇◇◇◇
それからまた日々は流れ行く。
鏡を覗いて笑顔を作り、無邪気に屋敷の主を出迎える。
土産として菓子を手渡され、蕩けるような笑顔で礼を口にする。
謳うように囁く『大好きよ、おじさま』と。
そして二人でお喋りの時間を過ごしたのち、璃子は部屋へと戻っていく。
何時も通り、そう変わらぬ日常。
けれど、璃子は知らない。
璃子の背を見つめる男の顔が、激しい憎悪に鬼の面の如く歪んでいた事を――。
布巾に包んだ菓子を手に、手燭の明りを便りに璃子は温室へと向った。
透瑠は菓子を喜んでくれるだろうか、甘いものが苦手という話は聞いた事なかったが……。
どんな顔をするだろう、胸を躍らせながら歩む足取りは密やかであっても軽やかだ。
唯一、璃子が本当の璃子でいられる時間。
透瑠と語り合う時間を心待ちにしている自分に気付いている。
そして、何故そうなのかも、もう。
心の中では、あの言葉を何度も繰り返していた。そうして欲しいと、願う心は次第に強くなっていく。
けれども、少年を失いたくないならば耐えなければいけない。この夜のひと時とて、露見したなら待つのは破滅だ――。
「透瑠?」
温室に足を踏み入れて、名を呼ぶ。けれど応えがない、まだ来ていないのだろうか。
何時もならば先に来ていて出迎えてくれるのに、と訝しく思いながら璃子は足を進める。
不意に足元から水音がする。水たまりでもあったのだろうかと思って、視線を下へと下したならば……。
其処には一面に広がる紅があった。
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