籠女・二

 透瑠が息をのみ絶句したのを遠くに感じながら、璃子の思考は過去に巡る。


 何処の家にもお喋り好きの使用人はいるものである。

 この家に引き取られて左程経たないうちに隠れて耳にした話から、璃子は自分に纏わる真実を知ったのだ。


 裸一貫から身を起こして、時流に恵まれ財を成した男がいた。傾きかけた由緒正しい家に美しい令嬢がいた。

 男は多額の援助をちらつかせて強引に令嬢を妻に迎えた――有体に言えば、金で買ったのだ。

 与えうる限りのものを与えても、妻は夫に心を開かなかった。夫を忌避しながら他の男と恋に落ち、その男の子を身籠った。

 『間男』がどうなったのかは知らない。恐らくは最早この世の人ではあるまいと、ぼんやり思うだけ。

 妻は子供を産むと人に託してこの屋敷から遠くに逃がし、産後の肥立ちが悪くそのまま逝った。

 子供が殺されると危惧して、或いはそれ以上の災難が降り注ぐ事を恐れての事だろう。

 けれど、あの人は執念を以て探し出したのだ、妻が命がけで逃がした赤子の居場所を。

 璃子を引き取っていた遠い親類は金を積まれて一も二もなく彼女を差し出した。

 元より楽でない暮らしに押し付けられた厄介者でしかなかった子供である。

 その内遊郭にでも売ろうかと考えていたのだ、それより高値で無駄な食い扶持が減るのであれば願ったり叶ったり。

 最初は探し出したら殺すつもりだったのではないか、と璃子は思う。

 何故永らえたかは、隠すように屋根裏に置かれた母の写真が教えてくれる。

 璃子は、母に生き写しと言えるほどに瓜二つになっていく。

 あの人は、亡き母の面影を痩せた子供の中に見出したのだろう。

 失われてしまった、本来築き上げていくはずだった時間をやり直そうとしているのかもしれない、そんな事を考える事もあった。

 あの人は璃子に、引き取った日を誕生日とし十八歳になったら自分と結婚するのだと告げた。

 十八は、母があの人に嫁いだ年齢である。それに籠る執念を思えば、薄ら寒い心地で苦笑いするしかない。


 男性は、璃子に惜しみなく沢山のものを与えた。

 美しい着物に宝飾品、道具類、人形、調度品、素晴らしい部屋、物質的には過分な程に甘やかされた。

 一流とされる女学校に通い学問を修め、師を招いて数多の教養を身に付けさせ。

 本当に沢山のものを与えられた――自由以外のあらゆるものを。


 あの男性は、他者が璃子の関心を引く事を嫌う。

 璃子が少しでも心を開いたならばその女中や下男は直ぐ様解雇され、璃子の世界から消えていく。

 それは朋輩とて同様だった。

 女学校にて、お姉様と呼び慕っていた少女がいた。

 けれどそれを知ったあの人は、その少女の実家を陥れ傾けて女学校から去る様仕向けた。

 それ以来彼女とは会えていない。璃子が好意を向けた、理由はただそれだけ。


 あの人は、璃子が自分以外に笑顔を向ける事を病的なまでに嫌っている。

 嘗て逃げていった妻を思い出すのだろうか。妻のように、璃子も笑顔向けた相手と共に逃げてしまうと思っているのだろうか。

 逃げられる訳がない。

 そもそも、璃子の世界はこの屋敷と学校以外許されていない。屋敷の外に在る時は、常に女中と下男の目がある。

 環境的に不可能というだけではないのだ、それ以上に『こころ』が無理なのだ。

 もう肌を刺す寒さに凍えるのも、顔が映る程に薄い雑炊すら有難い空腹も、擦り切れた着古しで朝から晩まで働かされて打たれるのも。

 戻りたいとも思わない、それに今の自分が耐えられるとも思わない。

 自分は、あまりにも寒さからも飢えからも遠い、過分な程に与えられ守れられるぬるま湯に慣れきってしまった。

 それに、あの人は自分を愛し慈しむと同時に憎悪もしている。

 不貞を働いた亡き妻に瓜二つの自分へと、あまりにも複雑な愛憎を抱いている。

 拒絶の言葉を口にしたならば、きっと命はないだろう。それは予感というより確信である。

 だから今日も、朗らかに微笑みながら無邪気に告げるのだ。『大好きよ、おじさま』と。

 明るく紡ぎながら心の中では哂うのだ。ああ、なんて打算的だろうと己を嘲笑うのだ。

 悪い人ではないと思う、被害者とも言える人だとも思う。けれど、伴侶として愛せるかと言えば恐らく否だ。

 ああ、何て醜い。

 目の前に待ち受ける未来を厭いながら、それを変えようと試みることも、逃げようともしない。

 それどころか、保身を正当化するばかり。ああ、ああ、何て打算的なのだろう。




 我が身に纏わる事を淡々と、まるで他人事のように璃子が語り終えたならば、その場には痛い程の沈黙が満ちる。

 透瑠は何かを考え込んでいる様子で、眉根を寄せて俯いている。

 いきなり聞かせる話ではなかった、我ながら馬鹿な事をと思い謝罪の言葉を口にしようとした。

 その時、透瑠は静かに口を開いた。


「打算的、確かにそう言えるかもしれないです」


 穏やかな声音で紡がれた言葉に、胸の奥にちくりと痛みが走る。

 けれど、続いた言葉は璃子の意表を突くものだった。


「でも、璃子様は生きようとしているだけです」

 思わず目を瞠って、透瑠を見つめる璃子。

 驚き宿した瞳と戸惑い滲む表情の彼女は、希望を見つけた寄る辺ない子供のようだった。

 あくまで穏やかに静かに、少年の言葉は紡がれる。


「意に添わず置かれた場所で、それでも必死に生きようと努力しているだけです」


 籠の鳥が、例え扉が開け放たれていようと籠の外では生きていけないように。

 無理やり植え付けられたとしても、手をかけられ温室で育てられた花は、決して寒風吹きすさぶ荒地では生きていけない。

 それならば、支配する理に従い順応して生きるのが少しでも居心地よくする術ではあるまいか。

 逃れられない軛の下であっても、必死に生きようとするのなら。


「僕は、むしろ好きですよ、そういう方は」


 少年は淡く微笑む。璃子が今まで誰からも言われなかった言葉を口にしながら。

 向き合ってくれる相手を得られなかった事もある。自らを曝け出せなかった事も理由である。

 けれど、こうして自分の在り方を肯定されたのは初めてだった。

 気が付いたなら、璃子は泣いていた。

 哀しくて? 嬉しくて? それはもう璃子にも分からない。

 堰が決壊したように、暫くの間璃子の頬を伝う雫は止まる事はなく、少年は黙ってそれを見つめていた。

 薔薇の苑の静寂の中に、璃子のかすかな嗚咽だけが響いている。

 それもやがて止み、瞳を拭って顔をあげた璃子は何を言っていいか迷っているようだったが、意を決してという風に言葉を紡ごうとした。


「あの……」

「ご存じですか? 璃子様」


 一つ願いを口にしようとしたが、返ってきたのは意外な問いかけ。

 きょとんとした表情で透瑠を見つめる璃子に、彼は少しばかり悪戯っぽさを含む笑顔で続けた。


「異国では『薔薇の下で』という言葉は『秘密』という意味を持つと言われるそうです」


 首を傾げたまま黙って聞いている璃子に、向けられる透瑠の笑みは優しい。


「薔薇の下には秘密が眠るもの、それなら今日のお話もまた秘密です」


 ああ、と璃子は心の中で呟いた。

 少年は璃子が願おうとしていた事などお見通しだったのだ。

 この温室の中だけでの内緒の話と、聞いた話を収めてくれようとしているのだ。

 ありがとう、囁くような小さな言葉は届いただろうか。

 あとは取り留めない話をして、そろそろ戻らないといけないと璃子は温室から姿を消していく。




 残されたのは、透瑠一人。静寂を取り戻した温室の中、薔薇に囲まれて少年は呟く。


「そう、秘密が眠るんだよ。……『この下』にはね」


 誰も居なくなった夕暮れの硝子の庭。

 少年の黒い瞳は、瑠璃を映して蒼に見えた。

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