《蒼》 籠女の華

籠女・一

 さあ、華が綻ぶように微笑んで、謳うように囁きましょう。

 何時もの言葉を、何時ものように繰り返しましょう。

 あの人へ伝えましょう『大好きよ、おじさま』と。


 ◇◇◇◇◇


 その屋敷は帝都の一角に存在していた。

 広大な敷地内に温室まである見事な庭園を有する威風堂々たる屋敷は元々さる名家の持ち物だった。

 色とりどりの薔薇が所せましと咲き誇る庭園では、かつては時節に応じて様々な催しが開かれ、訪れる人々を魅了したらしい。

 屋敷の意匠にも薔薇が用いられており、人々はその屋敷を『薔薇屋敷』と呼んでいたとの事だ。

 けれど今は、今は新興の実業家の所有である。

 屋敷を目にしながら人々が囁く、あの屋敷を手に入れる為に今の主は前の主を陥れる為に相当あくどい手を使ったらしいと。

 成金が由緒あるお屋敷を手に入れて箔を付けたつもりか、と密かに嗤っている。

 声を潜め何かを伺うようにしながら、表向きでは屋敷の今の主を持ち上げながら。

 少女はそれを知っている、けれどどうとも思わない。

 彼らの気持ちがわからないでもない、思うところはあれども従うしかない人間の気持ちは。


 美しいもので埋めつくされた夢のような部屋から出て、廊下を歩きながら溜息をひとつ。

 砂糖菓子の細工もののような、脆くて儚い印象に、頭のてっぺんからつま先まで、隙一つなく一流の品で整えられた少女だった。

 西洋人形にも似た美しい顔は伏し目がちで、物憂げでどこか枯れた印象を与える表情が浮かんでいる。

 壁にあった鏡に自分の姿を映して、浮かべる表情に苦笑する。


 これではいけない。

 首を左右に振ったなら、一度目を伏せて開く。するとそこには、それまでの表情から一転して蕩けるような笑顔がある。


 そのまま重厚な細工の手摺に手を滑らせながら、玄関ホールへと降りていく。

 調度、壮年の男性が出迎えた使用人に外套や鞄を手渡しているところだった。

 朗らかな喜びを輝く笑みに宿して、そちらへと駆けていく。少しばかりお転婆な行動であるけれど、構う事はないのだ。


「おじさま、お帰りなさい!」

「ああ、ただいま、璃子りこ


 璃子と呼ばれた少女は、走るなんてと咎められても悪戯に笑って見せる。

 何故なら、咎めた相手の顔には笑みがあったから。咎められたことすら嬉しそうにして、璃子は男性と共に歩き出す。


「今日の学校はどうだったね」

「英語の朗読で、先生のお褒めの言葉を頂いたわ」

「それは素晴らしい。璃子は私の自慢だよ」


 璃子の頭を撫でながら、男性は頷きながら言う。

 よくある仲の良い親子の会話にも聞こえる遣り取り。

 けれど、男性と少女は親子ではない。

 保護者である事には間違いない、だが父と呼ぶ事は許されていない。

 璃子は、頬を微かに染めながら応えた。


「おじさまに相応しい女性になりたいもの、当然よ」


 十八の年を迎えたら、璃子は男性の妻になるのだ。恥じらいつつもその日を心待ちにしている。

 ――そう見せるのも随分うまくなったと、己を嘲笑う自分がいる。

 今日も璃子は、整えられた庭園で手をかけられ咲き誇る華のように、定められた通りに振舞うのであった。


 ◇◇◇◇◇


 あくる日、璃子は自室の窓から庭園を見下ろしていた。

 整えられた薔薇咲く庭の中心を走る道の先には、屋敷の正門がある。

 あれは、主の許しなく璃子に開かれる事のない外との唯一の接点だ。

 屋敷の主は先程あそこから出ていった、何でも取引の為に数日家を空けると言っていた。

 その間は自由に使える時間である、でも璃子の唇から零れるのは溜息ばかり。

 璃子の世界は酷く限られている。

 この屋敷の塀の内側と、女学校、その二つだけで構成されている。それ以外は許されていない、例え誰かが付き添っていたとしても。

 西洋の貴族の屋敷を模したとされるこの屋敷には、立派な図書室も美術品の回廊も、沢山のものがある。

 けれど、この屋敷に引き取られてから十年も経てば大概のものは見飽きてしまっている。

 女学校の行き帰りは女中がついており、速やかに家と学校を往復する車に乗せられる。当然ではあるが寄り道は厳禁である。

 必要なものや欲しいものが出来た時は、出入り商人に持ってこさせる。

 商人が持参した品を吟味するのは、璃子ではない。璃子はあの人が選んだ品を喜び、身に着け、そして微笑むだけ。

 それ以外は、この身に望まれてはいない。強制されたわけではない。この場所で生きていくために、必要だと知っているからだ。

 あの人は、璃子を大事に愛し慈しんでくれている、多分それに偽りはない。

 けれども、時折璃子を見つめる眼差しに暗い何かが潜む事がある。

 それは、多分憎悪と呼ばれるものだろう。

 その理由は知っている、故に仕方ない事と思っている。

 この屋敷は何処にいても、重苦しく息苦しい空気に、時折押しつぶされそうな錯覚を覚える。

 せめて外の空気を吸いたいと思った璃子は、部屋を出て歩き出す。

 外へ出ようとすると、見とがめた女中が声をかけてくるが、温室へ行くのだと言えば引き下がる。

 何時もの事である、璃子には屋敷の中であっても誰かの目が向けられている。

 万が一に璃子が屋敷の外に出てしまえば、それを見過ごした者達には苛烈な罰が下されるのは間違いない。

 親しくならぬように距離をとりつつも、彼女の動向に使用人達は神経をとがらせているのだ。


 庭園の片隅に温室はある。贅沢に硝子板を使い、名の在る技師に設計させて造らせたと言う。

 これは前の主の時代にはなかったものらしい、つまり今の主である男性が建てさせたということ。

 そんなに花が好きなようには見えないのに、不思議だと思うけれど問いかけた事はない。

 その中に入った途端、大きく息を吐く。漸く普通に息が出来た気がする。

 この硝子の温室の中だけは、人の目を逃れる事が出来る唯一の場所である。

 何故なら、この場所には屋敷の主と璃子、そして世話を任されている老庭師しか入る事が許されていない。

 温室内にも様々な種類の薔薇が咲き誇っている。屋敷に咲く花の中でも特に繊細な管理を要するものがあるからというのが表向きの理由。

 全てが嘘という訳ではないが、本当の理由はここにある『秘密』の為だ。

 半ば茂みを為している色とりどりの薔薇の間を抜けて、温室の中央部へと足を運ぶ。頬を綻ばせ、硝子越しの日の光を浴びる其れに眼差し向けながら、璃子は呟いた。


「今日も綺麗に咲いているわね」


 そこには、あまりに美しい『蒼』があった。

 高く澄み渡る蒼穹よりもなお深い、瑠璃をそのまま花弁に宿したような薔薇の花。人の世には存在しないとされている奇跡が、そこに存在している。

 支えに絡みつきながら上へと蔓を這わせて、温室の天井を目指さんとする一株の蒼い薔薇。これこそが、硝子の中に閉じ込められた『秘密』である。

 吸い込まれそうに深い色、飽きる事なく眺めていられるそれが好きだった。何もかも忘れていられる、我も現も、全て、彼方に追いやっていられる、その時間が好きだ。

 けれど、土を踏みしめる靴音が、璃子を現実へと引き戻した。

 今日、この館の主は留守にしている。老庭師も身体の具合が良くないとかで、ここの処寝込んでいる。

 立ち入りを許されている三人のうち、この場に存在できるのは璃子だけだ。

 ならば、この足音は一体……。


「……誰!?」

「……! すいません!」


 厳しい誰何の声に応えるように紅い薔薇の影から姿を現したのは、華奢な印象を与える人影だった。

 綺麗な子、璃子は最初の印象としてそう感じた。

 西洋の宗教にて語られる御使い、感じたのはそんな印象である。

 淡い金色の髪に蒼い瞳が似合いそうな、空気に溶けて消えてしまいそうに淡い雰囲気を持つ女の子。

 飾り気のない襯衣に洋袴でいるのが勿体ない、きっと美しいドレスや着物が似合うだろうに。

 その華奢な腕には、よく持てるものだという土がついた重たそうな麻袋がある。

 璃子が問いかけの言葉を口にしようとした時、相手が先に恐縮して頭を下げた。


「驚かせて申し訳ありません。僕、誰も居ないと思って……」

「僕……?」


 思わずきょとんとした表情で、首を傾げてしまう。

 僕、と目の前の相手は言った。確かに落ち着いて声を聞いたなら、女にしてはやや低い。

 それは、つまり。

 この子は、少女ではなく……少年であるのだという事に気づいて璃子は口元を押さえた。


「ごめんなさい、てっきり女の子かと思って……」

「構いません、間違われるのには慣れていますから」


 慌てて頭を下げる璃子を、恐縮したような少年が止める。

 少年は、透瑠とおると名乗った。

 最近身体の不調を訴える事の多かった老庭師が、後を引き継がせるためにとった養子であり弟子だと言う。素直に感心しながら、璃子は息をつく。


「私よりも年下に見えるのに、あの頑固者に弟子入りが許されるなんて大したものだわ」

「縁続きなのですが、薔薇を育てる見どころがあるという事で引き取ってもらえたのです」


 この秘密の庭の管理を任される老庭師は、前の持ち主の頃からこの館の庭を整え続けている。

 去る使用人が多かった中、主が誰となろうと庭を放り出せないと言い切った事が今の主に気に入られたらしい。

 黙したまま花々を見事に咲かせる姿を、璃子は遠目に尊敬を込めて見つめていた。

 仕事に並々ならぬ思い入れのあるあの老人が見込んだとあれば、この少年の才は確かなものなのだろう。

 庭仕事をするにしては細い腕や肩と思うが、よくよく見つめれば節ばったところもあり、ああ男の子なのだなと思いもする。

 そんな事を考えながら見ていたならば、かなり凝視してしまっていたようだ。


「あの、お嬢様……」

「……ご、ごめんなさい……」


 所在なさげに俯く透瑠の声を聞いて、漸く璃子は自分の無礼に気付く。またも慌てて頭を下げると、相手もまた恐縮してそれを止める。

 二人の眼差しが交錯する、途端に吹き出す二人。

 何やら面白くなってしまった璃子と透瑠は暫し笑い転げる。

 目尻に滲んだ涙を指で軽く拭う、こんなに笑ったのは何時ぶりだろうかと懐かしさすら感じる。

 ひとしきり笑って落ち着いたなら、璃子は静かに口にした。


「私は、璃子よ」


 少年は一瞬きょとんとした表情を見せる。

 多分相手は自分の名前は聞いているだろう、そう思いながらも璃子は続ける。


「出来れば名前で呼んで欲しいの、お嬢様って呼ばれるの、本当は好きじゃないから」


 相手が困惑している空気を感じる。

 確かに令嬢に名前で呼べなどと突然言われれば、どう返答してよいかは迷うところだろう。

 璃子は、どこか皮肉交じりの声音で呟いた。


「だって、私は『お嬢様』なんかじゃないから」


 この家の主を保護者に持ち使用人に傅かれて暮らす璃子が溜息交じりに紡いだ言葉に、少年の戸惑いが更に深まったのを感じる。


「私はね、あの人の亡くなった奥様の子供なのよ」


 主の妻の娘、それはつまり主の娘である。それならばお嬢様と呼ばれるべきなのではと、少年の瞳は問うている。

 その疑問は自然なものだ、何を言おうとしているのだろうと、心の中に呟く自分がいる。

 今初めて会った相手に、何を知らせようというのだろう。けれど、何故か聞いて欲しいと思ったのだ。

 知って欲しいと思ったのかもしれない。

 この場所の『秘密』を継ぐ事になる少年に、自分の秘密もまた知らせたいと。

 ……或いは、ただ話し相手に飢えていただけなのかもしれない。

 様々な考えがよぎる中、璃子は苦く笑いながら更に続けた。


「でも、あの人の子供ではないの」



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