玄鳥の妻


 翠の鬼の物語から、数日の後。

 玄鳥は出かけた後である。

 ここのところ近所の老婦人がある用件で頻繁に訪れており、辟易したらしい彼は朝から所用といって家を空けている。

 玄鳥が外出してから少し経った頃、御影の訪問があった。

 応接間に通すと、玄鳥から預かっていたもの……連載の原稿を手渡す。

 口を酸っぱくして言い含めた甲斐あって、御影の目的である原稿は出来上がっている。確認してから外出するのを見送ったので当然である。

 あやめを拝むようにしながら受け取った御影が中身を確認しているのを見ながら、あやめは前々から抱いていた問いを投げかけてみる。


「御影さんって、玄鳥先生とは付き合いが長いのですよね」

「ええ、子供の頃からですので……」


 幾人も編集者が出入りしているが、その中でも御影との間は何処か身内のような気安さを感じていた。

 その分、原稿の進みが暗礁に乗り上げた時に割を食うのは御影であるのだが。

 他の編集者との関係よりも、随分と打ち解けたような、気心しれた雰囲気を感じるのは気のせいではないと思う。

 そう感じて思い切って聞いてみれば、返ってきたのは成程と思う答えだった。

 やはり、作家と編集者という付き合いだけではなかったようだ。子供の頃からの付き合いであるならば、納得である。


「幼馴染だったのですか」

「あ……いえ、幼馴染というわけでは……」


 頷きながら問いを重ねたならば、返ってきたのは少しばかり歯切れの悪い応えだった。

 どういう間柄だったのだろうと不思議に思いながらも見つめると、何故か困惑した風な表情を浮かべる御影がいる。

 昔馴染みというのは間違いないです、と少しばかり強引に結んだ御影は逆にあやめへと問いかけてくる。


「何か気になる事でもありましたか?」

「ええ。そうなら、御影さんに聞きたい事があって……」


 付き合いが長いというなら、御影は知っているだろう。問いかけに一先ず答えてから思案するように一呼吸置き、徐に問いを口にする。


「先生の奥様は、どんな方だったのですか?」


 以前から気になっていた事であり、ここ暫くで更に疑問が深まった事である。

 玄鳥の妻については、随分前に亡くなったという事しか聞いていない。

 深く詮索する話題ではないし、玄鳥の方から口にする様子がないならば、触れられて嬉しい話題でもないだろう。

 だから亡くなった、という事実を胸に留めるだけで済ませていた。


 けれど、今日玄鳥が出かける前の事。

 問いかけてみたのだ、あの不思議な万華鏡の事を。


『昔、作ったものです……妻の為に……』


 大きく目を見開いたかと思えば、瞳を伏せながら顔を背けて玄鳥は答えた。

 驚きと哀しみが表情を覆ったのを、あやめは見逃さなかった。

 玄鳥は、複雑なものが入り交じった苦笑いを浮かべて、何処か遠くを見るような眼差しで呟いた。

 特別に作らせた、という事だろうか。

 それ以上に問う事は出来ず、言葉を返せぬままそう思っていたならば、玄鳥は何処か逃げるようにして出かけていった。

 触れてはならない話題だったのか、と悔いた時には彼の姿は既に見えなくて。

 それからずっと心に引っかかっているのだ、あの不思議な万華鏡の持ち主であったという玄鳥の亡き妻の事が。


 出がけの反応からして本人に問うのは気が引けて、玄鳥の昔を知るであろう御影に駄目元で問いかけてみた。

 しかし、それに対して思いもよらなかった反応があった。

 御影は驚いた様子であり、そして酷く傷ついた風な表情をしたまま言葉を失ってしまっていたのだ。

 やはり触れてはならない何事かがあったのか、とあやめは後悔する。

 二人揃ってこの反応ならば、何かあったのだろう。ならば玄鳥の妻については詮索してはならない。

 そう思って諦めようとして、謝罪を口にしかけた時だった。


「優しい方でした。……明るくて世話焼きで、芯の強い方でした」


 懐かしむような声音で、御影は語り始めた。

 時として冷たそうな印象を与える青年の顔に、穏やかで仄かに優しい笑みが浮かぶ。

 それだけで、玄鳥の妻に対しては良い印象を抱いていたのだろう事が感じられる。


「ご夫婦仲は本当に良くて、人が羨む程で。あの方は奥様に出会って随分変わられました」


 妻に出会う前は随分と気難しい人で……と苦笑いしながら御影は続ける。

 自分はそんな玄鳥が怖くて仕方なかった、と言われれば目を丸くしてしまう。あまりに今の玄鳥からは想像が付かない。

 今の玄鳥に至る要因となったのが、亡き妻であるという。御影は複雑な感情入り交じる吐息と共に、呟いた。


「あの方が思うのは、今も昔も奥様ただ一人だと思います」


 確かに愛されていたのだろうと思う、あのようなうつくしい万華鏡を誂え贈られる程に。

 それに……とあやめは振り返る。

 玄鳥が老婦人の訪問を避けた理由もそれだった。

 その老婦人は近所でも見合いの世話焼き好きで有名な人で、玄鳥に後添えを紹介したいとここのところ日参していたのだ。

 年頃のお嬢さんを一人で住み込みさせるなんて、と言外に非難しながら、持ってきた話を次々と聞かせるのだ。

 あやめにも釣り書きが渡されたのは、聞こえの悪い状況の勤めなど辞めてきちんと嫁げと言いたかったのだろう。

 それに対する玄鳥の応えは同じだった。

 何時にないしっかりとした声音で『私の妻はただ一人だけです』『あやめさんを何処かにやるつもりはありません』と言っては、渡される釣り書きを固辞していたし、あやめに渡された釣り書きも一緒に返していた。

 助かったと思うと同時に、普段とは違う毅然とした玄鳥の様子を思い出す。

 あのように強くある事ができるなんて。余程妻を愛していたのだろう。そう思った瞬間、ちくり、胸を刺すような痛みが走る。

 気のせいだ、とあやめは首を振る。

 玄鳥は雇い主である、それ以上であってはいけない。それ以上を自覚すれば今のようにはいられない、あるいはもっと辛いところに堕ちるだけ。

 己の分を弁える事、それがこの家に居るために必要な事。

 そう心に言い聞かせていたあやめの耳に、不意に低いつぶやきが飛び込んでくる。


「……俺のせいで、亡くなったんです」

「え……?」


 思いもよらぬ内容と違和感に、思わず目を見開くあやめ。

 今、御影は『俺』と言わなかっただろうか。それに『御影のせい』とは一体どういう事なのだろうか。

 問いと戸惑いが鬩ぎあい、何とも形容し難い表情で見つめるあやめの眼差しの先。唇を噛みしめる御影の顔には、はっきりと深い後悔と怒りの色があった。


「俺が……いえ、私が軽率な行動さえしなければ、今頃、お二人は……」


 どういう事かと問いかけたかったが、出来なかった。言葉を奪う程に、そこに宿った悔恨の念と、咎を糾弾する意思は強すぎた。

 何があったかは分からない。けれども御影が玄鳥の妻の死に関して、己に対して怒りを抱いている事だけは痛い程に伝わってくる。

 己が身を苛みかねない程の罪の意識を感じている事も、また。


 違う、とあやめの中に不意に生じた。

 分からない事だらけで困惑しきり、でも自分の中からその言葉は浮き上がってきた。

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。

 そんな顔を見たかったわけじゃない。

 違う、私は、わたしは……!


「御影さん」

「あ、先生」

「……玄鳥先生……」


 静かで、それでいて有無を言わせぬ何かを秘めた声がその場に満ちかけた沈黙とあやめの裡の不思議な声を霧散させた。

 弾かれたように其方を見てみれば、何時の間にか帰宅した玄鳥が難しい表情を浮かべて立っているではないか。

 手にした華やかな彩りの薔薇の花が、その場の空気とは酷くかけ離れている気がする。

 お帰りなさいと慌てて出迎えたなら、返ってきたのは何時も通りの穏やかな笑みだった。

 手にした花束を、訪ねたお宅からの頂き物と言いながらあやめに手渡してくれる。

 花瓶を用意しなきゃ、と言いながら受け取るものの、あやめとしては内心気まずい。

 彼の知らぬところで、妻について詮索していたのが知られた状態である。浮かべる表情はややぎこちない。

 そして気まずいのは、御影も同様のようである。

 返す言葉も取り繕う表情も持たずに黙り込む御影に、玄鳥は深い嘆息と共に言葉を紡いだ。


「……もう言わない約束でしょうに」

「申し訳ありません……」


 まるで聞き分けない幼子に教え諭すような声音で言われれば、御影は謝罪を口にして俯いてしまう。

 叱られて拗ねた子供のようにも、深い後悔に沈む大人にも、どちらにも見える不思議な感覚を覚える様子である。

 妙な既視感と不思議な感覚を抱かせる二人の様子に、あやめの胸の奥に騒めく何かがあった。

 汗が一筋頬を伝う。何かが目を覚ましそうで覚まさない。

 その先を知りたいと思うのに、知る事が出来なくてもどかしい。胸が、苦しい……。

 沈黙のままお互いを見つめていた男性二人も、漸くあやめの異変に気がついた。


「あやめさん? どうしました?」

「顔色が……」

「大丈夫、です」


 手を振って、殊更明るく告げるあやめ。

 けれども男二人の疑念を払拭するには至らなかったようで、二人の表情は気づかわしげなまま。

 大丈夫であると行動で示すべく、明るく笑ってみせながら、抱えた薔薇を活けてきますと身を翻した次の瞬間の事。

 足元をすくわれるような感覚覚えて、あやめはその場に倒れかける。

 床に身体を打ち付ける衝撃を覚悟したものの、何時まで経ってもそれは訪れない。

 代わりに、身体を支えてくれる力強い感覚がある。温かくて、頼もしくて、切ない程に懐かしい……。

 あやめの意識はそこで一度途切れ、気が付いた時には見覚えのある天井をぼんやりと見上げていた。

 枕辺には今にも泣き出しそうに顔を歪めた玄鳥が座している。

 最初こそ理解が追いつかずぼんやりとそれを見上げるままだったが、直に思考が明晰になっていくと、今度は事態に蒼褪める。

 そこが自分の部屋の床である事に気づいた直後、あやめは自らの置かれている状況に気付いたのだ。

 自分は恐らく倒れて、玄鳥がここまで運んでくれたのだろうという事に。

 二人を心配させてしまったと慌てる様子を見て、玄鳥は漸く息が出来た、と言った風に大きく息をついた。

 目があった瞬間に表情が緩み、そのまま泣き出すのではないかと思う程だった彼は、心から安堵したといった様子でしみじみと呟く。


「良かった……。いきなり倒れたから驚きました」

「……心配させてしまって、申し訳ないです……」


 心配させた上に面倒までかけてしまった事を、あやめは只管に恐縮する。

 それを制しながら、玄鳥は覗き込むようにしてあやめを見つめながら言った。


「起きられそうですか? ご近所さん達から差し入れがありますが……食べられますか?」


 枕元には病人の色々看病に必要そうなものが揃っている。これは恐らく御影が用意してくれたものだろう。

 玄鳥が持ち帰った頂き物の薔薇の束も、何時の間にか活けた花瓶があやめの部屋に飾られている。玄鳥によればそれも御影の手によるとのこと。

 御影は狼狽える玄鳥を叱咤してあやめを部屋で休ませたり、医者を呼んできたりとあれこれ駆けまわってくれたのだと言う。

 その騒ぎを聞きつけた近所の奥さん達が、それは大変、と煮物やら何やら色々と持ち寄ってくれたらしい。

 次に会えた時に皆にお礼を言わなければと思いながら、玄鳥の手を借りて起きあがる。

 先程感じた奇妙な感覚は消えていた。これなら一人で歩けるだろうと断ったが、玄鳥は頑として添え手をすると主張する。

 気を揉ませた事を後ろめたく思う故に断り切れず、玄鳥に支えられて今まで移動する事となった。

 ……触れる手の温もりに胸が違う騒めき覚えたのを、あやめは必死で知らぬ振りをした。

 差し入れられた惣菜の数々はとても美味しくいただけた。玄鳥が後片付けは自分がと言いかけたが、全力でそれだけは止めた。

 調子を確かめながら後片付けをするものの、もう何時も通りと安心して息をついたのも束の間、すぐに床に戻るように玄鳥に懇願される。

 もう大丈夫なのに……と思いつつも、必死に案じてくれる様子を嬉しく思い、少し苦笑しながら横になった。

 再び枕元に玄鳥は座す。大丈夫だからと何度言い聞かせても、心配だからと言うばかり。

 ならば、とあやめは思い口を開く。

 お願いがあると告げたなら、玄鳥は何ですか、と言いたげな静かな眼差しを向けた。

 それを見上げながら、あやめは淡く微笑みながら、続ける。


「先生、またお話が聞きたいです……。鬼と、人のお話……」


 視界の端にゆれる鮮やかな薔薇の花を捉えながら、子守唄をねだる子供のようにあやめは物語をせがむ。

 聞きたい、と素直に思ったのだ。たまらなく、彼の穏やかな口調で語られる、不思議な物語を。

 一瞬きょとんとしたものの、玄鳥はすぐに頷いて静かな声音で語り始める。


 ――ならば薔薇にちなむ話でも、との静かな言葉にて。不思議に満ち足りた月夜の物語が始まる……。


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