籠女・四


 黒へと転じかけている、夥しい赫、咽返るような匂い。生気のない、少年の白い肌――。

 眩暈のするほどの対比に、璃子はよろめいて後退る。

 温室の中央、蒼い薔薇の元に拡がっていたのは血だまりであり、その中央に沈むようにして透瑠が倒れている。

 その身体には、刃によると思われる傷があった。

 刺されているのは一か所だけではない。何度も何か所も、執念深く念入りに少年は刃を突き立てられたのだ。

 行きがかりの人間の仕業ではありえない、そこには激しい怨恨と憎悪しか感じない。


「とお、る……?」


 掠れた声で、少年の名を呼んだ。

 けれど応えはない、応えられる筈がない。これだけの傷を負って、血を流して、応えられるわけが。

 璃子は、透瑠が死んでいるのだと――誰かに殺されたのだと認識する。

 誰が、そう思った瞬間足音がした。答えは、薔薇の茂みの影から現れた。


「おじさま……」

「まだまだ子供かと思っていたが、甘かったな」


 それは、璃子の庇護者たるこの屋敷の主だった。

 何時も璃子を見守り続けた穏やかな眼差しは何処にもない、在るのは醜悪なまでの負の感情に歪んだ眼差しだけ。

 露見していたのだ、とその時璃子は知る。何処からどう知れたのかは分からない、でももうそれはどうでもいい。

 今ここに、男がいて、透瑠は死んでいる。その事実だけが動かせぬ事。

 男は吐き捨てるように続ける。


「もう間男を作るとは、やはりお前はあの女の子供だよ。血は争えん」


 是非にと望んだ女に裏切られ、その女の子供を代わりとしようとして長い年月をかけた男の歪んだ憎悪が伝わってくる。

 取り繕う事など出来はしない、あまりに心がうけた衝撃が大きすぎる。

 それに、もう取り繕いたくなどない。だってこの人は。


「透瑠を、殺したの?」

「自分のものを盗もうとする不届きものを罰しただけだ」


 鼻を鳴らしながら、忌まわしさを隠そうともせずに男は透瑠を見下ろす。

 その手には、血にまみれた短刀がある。

 あれで透瑠を刺したのだろう、何度も何度も、少年が息絶えてもずっと。

 揺れる灯りに照らされて、男が纏う返り血が凄絶に映る。

 すっかり顔色を無くしたまま茫然と言葉を紡ぐ事ができない璃子へと眼差し向け、男は尊大な口調で言い放つ。


「一度だけなら許してやろう」


 慈悲深さを示そうとでも言うのだろうか。

 吐き気がする、嫌悪がもう隠しきれない。

 沈黙をどう受け取ったのかわからないが、男は口元を歪めて続けた。


「お前は、私が与えたものに囲まれて、私の為に微笑み続ければいいのだ」


 炎が、弾けた。

 胸の奥に宿っていた熱が、形を変えて燃え盛る焔となる。

 男に与えられ続け従い続け抑えてきたこころの奥底にある、璃子の本当のこころが叫び声を上げる。

 抑えきれない勢いとなって、璃子を心の底から突き上げてくる。


「……嫌よ」


 低く呻くような呟きは、璃子の唇から紡がれていた。

 そこには、朗らかさも砂糖菓子のような儚さも甘さも、何も無い。

 純粋な嫌悪と憎しみだけがある。毅然とした眼差しに、確かな己の意思がある。

 璃子は、顔を上げて男を睨みつけながら叫んだ。


「……嫌よ! 私はもう、貴方の為になんか、笑わない……!」


 透瑠を……初めて恋した人を殺した男の為になど、絶対。

 流される事無く、怯える事なく、璃子は絶対の意思を込めて相手を見据える。

 今までの日々、決して見せた事のない顔で拒絶を紡ぐ璃子を見て、男は一度だけ目を見開く。

 そして次の瞬間、更に顔を歪めた男は両腕で璃子の首を締め上げていた。

 必死に藻掻くけれど、力の差は如何ともしがたい。首を圧迫されて息が出来ない。苦しさに視界が歪む中、強く想う。

 ここで自分は死ぬとしても、せめて彼を殺したこの男に一矢報いたい。

 この男を殺すだけの力が欲しい。何者でも構わない、どうか、どうか……!

 強く求める心は、有り得ざる事象となって結実した。

 奇跡が起こったのだろうか。渾身の力で藻掻いた後、大きな衝撃を感じる。

 男が弾かれたように後ろへと倒れ込んだと思えば、喉元の圧迫感が消えた。


 何が起こったのかと、璃子が茫然とした眼差しで見つめるのは血に濡れた自分の指先だった。

 爪が伸びて硬く変質しているではないか。

 自分の手が、男の腹部を切り裂いたのだという事を認識するまでには少し時間を要した。

 自身に起きたもう一つの変化に気付くには、更に。

 爪の変化だけではなかった。

 璃子の滑らかな額には、一本の角が生じていた。

 強い望み故に、自分は人ならざる者となってしまったのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えていた璃子の耳に苦痛と怨嗟に満ちた声が届く。


「やはりお前も鬼か……」


 男はまだ生きていた。

 けれども腹部からは鮮血が流れ落ちて衣服を、地を汚していく。相当な深手である事は間違いない。

 鬼かと問われて、璃子は答える事が出来ない。答える事が出来るほど思考は明瞭ではない。

 璃子にだって、己の事が分からない。自分が何であるのか、答える事など出来ない。

 男は血を吐いた、それでも男が璃子に近寄ろうとしたその時。

 二人にとって、あまりに意外な声がその場に響いた。


「そりゃあ、父親が鬼ならね」


 僕らの血は強く出るんだ、呟きと共に血だまりに伏していた人影が何事もなかったかのように起き上がる。

 璃子は暫し茫然としながらも、震える声でその名を紡いだ。


「透瑠!? 生きて……」

「見ての通り、生きているよ」


 人影――血だまりに倒れ伏して事切れて居た筈の透瑠が埃を払い、肩を竦めながら立ち上がったではないか。

 少年はつまらなそうな表情で、男が落した血濡れた刃をくるくると指先で弄んで見せる。


「こんなちゃちな刃でつつかれたぐらいで、僕が死ぬわけないだろう?」


 少年には明確な変化があった。

 口調に丁寧さはない、あるのは何処か尊大な空気と意地悪な笑み。

 目の錯覚かと思いきや、彼が纏う色彩は黒から、奇跡の薔薇のような蒼へと転じていく。

 そして、額には一対の角――。

 男が引き攣った叫び声を上げたのが聞こえた、けれどそんな事はもうどうでもいい。

 黒よりも余程相応しい色を纏った透瑠は、なんて美しいのだろうと璃子は感嘆の息を零した。

 恐ろしいなんて思わない、むしろ慕わしくすらある。だって、璃子もまた角を持つのだから。


「一応、これでも大妖とか言われる鬼なんでね。かすり傷にもならないよ」


 伸びをしながら言って見せる透瑠は、露程も負傷を苦痛と思う様子はない。

 そもそも衣服こそ血に染まっているが、刺された傷は最早存在していないように見える。

 言葉が完全に消え失せて、茫然と自分を見つめる男と璃子に蒼の眼差しやりながら、ひとつ息をついて鬼は語りだす。


「……人の世に出ていた僕の一族の行方が知れなくなった。その男は人間の女と恋に落ちたらしい」


 透瑠は何を伝えようというのだろう。言葉なく続きを待つ、どこか騒めく胸を抑えながら。


「……僕が聞いた話によると、その男は女の夫に殺されたらしい」


 ぴくりと、男の肩が跳ねる。その顔面は見てわかる程に蒼白だ、冷や汗すら流している。

 鬼は冷ややかな眼差しを男に向け、更に続ける。


「愛する女を人質にされたら言う通りにせざるを得ないだろうね、あの実直な男は。そんなあいつをお前は切り刻んだ挙句にここに埋めた」


 璃子は目を見張る。

 透瑠の眷属とは、その鬼が愛した女とは、そして鬼を殺した女の夫とは。

 璃子の知る事実と、語られた言葉が一致していく。

 透瑠が語っているのは、この屋敷で過去にあった璃子に繋がる昔話。


「骸は、世にも珍しい華の苗床となった。薔薇の下には秘密が眠るとは良く言ったものだよ」


 璃子ははっとして温室の中央に在る蒼薔薇を見る。

 苗床だと、鬼は言った。

 この人の世に有り得ざる華は命奪われた鬼の――璃子の父の亡骸を苗床としていると。


 男は妻を人質に、妻の心を奪った鬼を殺した。切り刻んだ鬼の骸を地に埋めたなら、其処から人の世には存在しない筈の華が咲いた。

 男は、温室を作りそれを覆い隠した。硝子で囲い、薔薇を植え、その下に罪の秘密を封じた。

 薔薇の下には、確かに『秘密』が存在していた――。


 立ち上がった透瑠は、男へと静かに歩み寄る。

 男は後退ろうとしたらしいが、その足が縫い留められたように動かなくなる。


「同胞にしてくれた事の報復はさせてもらうよ」


 鬼は、男が先程璃子にしたように、喉元を締め付けた。ただし、片手で。

 さして力が籠っている風にも見えないというのに、男の身体は僅かに宙に浮き、見る見る間にその顔色は血の気を失っていく。

 男が必死に藻掻くのを醒めた目で見据えながら、透瑠は冷徹な声音で告げる。


「……璃子はお前の庭には過ぎた華だ」


 男の抵抗が更に激しくなる。見苦しいまでのそれを見て、透瑠の口元に浮かぶのは皮肉な笑み。


「鬼の五彩の頭領が一人『蒼鷹そうよう』が貰い受ける」


 ――鈍い音がして、男は動かなくなった。

 無造作に地に放られれば、物言わぬ身体となった男はがらくたのように地面に転がる。

 残されたのは、一対の角持つ鬼と、一本の角持つ少女。


 璃子はただただ茫然として男の骸を見つめていた。

 複雑な愛憎こそあれども庇護者でもあった存在の死に、何を言えば良いのか、何を思えばいいのか、わからない。

 哀しいと思えばいいのか、けれどそう思えない。自分は余程薄情なようだと、璃子はぼんやり思った。

 気が付けば、蒼の眼差しが璃子に向けられている。震える声で、相手の名を紡ぐ。


「透瑠……?」

「ごめん、それは偽名。蒼鷹って呼んでくれるかな」


 蒼鷹、と鸚鵡返しに数度口の中で繰り返す。

 ああ、今初めて聞いたというのに、しっくりと心に馴染む。最初からそう呼んでいたように、心の中に収まっていく。

 目の前で起きた出来事は、あまりに現実とはかけ離れていて、今もなお全てを受け入れきれていないけれど。


「……蒼鷹」

「何だい?」


 けれども、璃子は紡いだ。心の中で繰り返し続けた、ひとつの願いを。


「私を盗んでくれる……?」


 彼が鬼であった事も、目の前で男を殺した事も、全て事実である。

 それでも、璃子は彼が自分の手を取ってくれる事を願ってしまった。

 己の自分本位さに、情けのなさに、苦い笑いしか浮かばないけれど。それでも尚、璃子はこの美しい鬼を求めている自分がいる事に気付く。

 蒼い鬼は、微笑みながら璃子の頬を両手で包む。少しだけひやりとした感触の手は、とても優しく思えた。


「嫌だって言っても、盗んでいくよ」


 鬼は謳うように囁く。

 その微笑みがあまりに甘く蠱惑的で、恐ろしい程に美しくて、けれど目が離せない。

 言葉ないまま見つめる璃子に、囁きはまだ続く。


「僕は美しいものが好きだから。ただ美しいだけじゃなくて、従順でありながら強かなものが」


 白い手が、璃子の陶器のような頬を撫でる。視界の端に、蒼い薔薇が揺れる様が過ぎった。


「君の事は、美しいままに留めてあげる。君は君のまま、ずっとずっと僕の隣で咲き続ければいい」


 人の庭に過ぎたる籠女の華は、これからは鬼の庭にて咲き誇る。

 始まりの鬼のように人を傍に置く事になるとは思わなかったけれど、君と出会ったから。

 これは僕がもう決めた事、君が選んだ事。

 ……逃がしてなんて、あげないよ?

 愛しい鬼の囁きを聞きながら、ああ、幸せだと璃子は微笑んで静かに瞳を伏せた――。


 『不幸な事故』により主を失った屋敷は、再び人手に渡る。新たな主を迎える事となる。

 けれども、亡くなった主が育てていた少女の事について使用人達の誰もが思い出せず。

 少女の事も、罪を封じた温室のことも、何時しか人の世の誰の記憶に残る事もなく消えていたという。

 


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