喝采・四
雨は何時の間にか止んでいたが、その夜は月の光のない闇夜だった。
灯篭が灯され、現れるものの為に道が示されている。
誰一人として言葉を発する事のない重い沈黙の中、突如として鈴が鳴る音がひとつ響いて。
それはやがて幾つもの鈴音となり漣のように拡がっていく。
闇に浮き上がるように、一人の青年の姿が現れる。
紋付き袴の花婿の装束を纏い、ゆるりと歩みを進める青年の額には一対の角がある。
翠の瞳をした中々に端正な顔立ちの青年を、正装の主夫婦が出迎える。
礼を尽くした後に、青年を屋敷の奥へと無言の内に誘い、とある部屋へと招じ入れる。
そこには金屏風の前に座した白無垢の花嫁の姿がある。
花嫁は言葉を紡ぐことなく、静かに三つ指をついて深々と頭を下げる。その花嫁の表情は、綿帽子に隠されて伺い知る事は出来ない。
角持つ青年は、言葉なく花嫁へと歩みを進める。彼が伸ばした手が花嫁に触れようとしたその時だった。
くぐもったうめき声が響き、鬼の口から紅い流れが顎を伝い、敷物へと落ちていったのだ。
案内してきた人間達は驚愕に目を見開き、苦悶の表情の鬼の青年はその元凶へと歪んだ眼差しを向ける。
――『花嫁』の手に握られた短刀が、深々と『花婿』の腹に突き刺さっていた。
「こんなにも色々違うっていうのに、本物と偽物の区別も付かないなんて大した事ない男ね!」
たっぷりの皮肉を込めて紡がれたのは、中性的な高さを持つ笑い声である。
『花嫁』は短刀を勢いよく引きぬいた。飛び散る血飛沫で部屋も、白無垢も、鬼も赫に塗れていく。
苦し紛れに伸ばされた鬼の手が綿帽子を剥ぎ取る、そこには……。
「お、お前は一体……!」
「貴方、あれは確か……」
狼狽えて誰何の声をあげる夫に、妻はかつて見覚えがあると震える声で伝える。
そう、白無垢に身を包んでいた『花嫁』は、何と緑子であったのだ。
展開される光景に怯えた表情の、本来の『花嫁』であった灯里が金屏風の影から姿を現す。
確かに、灯里と緑子では背丈も体格も違う。良くこれで間近になるまで気づかれずに済んだものだと思いながら。
――遡り、一刻程前。
花嫁の装束を着せられて、鍵のかかった部屋に茫然と灯里は座っていた。
部屋には屏風など、一応婚礼の支度らしきものがされている。
鍵などかけずとも何処にもいかぬ。
もう如何にでもなれという捨て鉢な心と、自分のせいで兄が死んだという罪悪感で、置かれた状況に抗う気すら起こらない。
心残りがあるとするなら、緑子に一言伝えてからだったらと思う。戻らない灯里の事を、あの人はどう思うだろう……。
『灯里』
耳に触れる優しい声。
ああ、最期に一目会いたかったと思うあまり幻聴すら聞こえてしまったのかと口元が歪む。
『灯里、しっかりしなさい』
『え……?』
続けて耳に届いた声は、幻ではなく現の響き。
驚愕に灯里の目が見開かれる。
幻ではない、そこに紛れもない本物の緑子が居る。
どうしてこの場所に、と問いを紡ぎたくても唇がわななくばかりで一つとして音にならない。
『後で説明してあげる。……時間がないわ、アタシの言う通りになさい』
声を潜めたまま、緑子は口元に人差し指当てて灯里が叫びかけたのを制する。
何が何だか訳のわからぬままに、言われた通りに灯里は花嫁衣裳から目立たぬ装いに、緑子は花嫁衣裳に。
そして先程まで灯里が座していた場所に緑子が座り、灯里は屏風の裏へと隠れ、訪れる者を待ち受け……。
「アタシの可愛い灯里を不届き者に差し出すわけにはいかないもの!」
不遜なまでに堂々と、緑子は血に塗れた短刀を構えながら叫ぶ。
その言葉に胸が熱くなった灯里だが、次の瞬間若干表情が固まる。
「それに、一回ぐらい花嫁衣裳も着てみたかったのよね!」
直ぐに冗談よと笑って言ったものの、灯里は心の中で呟いた。
(多分半分ぐらいは本音だ……)
本来の性別であれば確かに花嫁など為れよう筈もない、確かにそれはそう、なのだが。
「貴様、何者か知らないが……。私が『翠の鬼』としっての事か……」
報いを受ける事が恐ろしくないのかと、口元の血を拭いながら鬼の青年は緑子を睨み据える。
その眼差しは人の心に畏れを呼び覚ますもの。恐れをかきたてられて、灯里は言葉を失った。
けれども、向けられた当人は全くもって表情を変える事なく、むしろ満面の笑顔を浮かべて謳うように言葉を紡ぎさえするのである。
「貴方……情報不足ねえ」
「何だと……?」
臆する事なく鬼へと呆れた風な溜息をついて見せる緑子を、灯里は言葉のないまま凝視してしまう。
このままでは緑子が殺されてしまうかもしれないというのに。何故だか、不思議とそんな気がしない。
くるくると短刀を回して見せながら、緑子は続ける。
「翠の鬼はね、変わり者で有名なのよ」
緑子は何を言おうとしているのだろう、この人は何を。
微笑むあの人は、一体『何』なのだろう。そんな思いが灯里の裡を埋めつくしている。
灯里を可愛がってくれた人、お茶目で面倒見のいい、美しい人。
灯里が心の奥底に、恋しいという思いを抱き続けてきた人。その人に間違いない筈なのに。
「美しいものが好きでね、そういう物で自らを飾る事も好き。そして一生懸命で可愛いものを愛でるのが好き。それが過ぎて仲間に引かれてもお構いなしな、変わり者なのよ」
変化が生じ始める。
緑なす黒髪と讃えられた美しい髪は、ゆるやかに色を転じていく。瞳もまた同様だ。
そして、その額には一対の……。
誰も何も言う事が出来ない。目の前の出来事に理解が追いつかない。
一番初めに『それ』に気付いたのは鬼の青年だった。
その表情には最初に見せていたような落ち着きも威厳も何もない、ただ只管に驚愕と畏怖の念だけが在る。
青年に歩みよりながら『緑子』は続ける。
「翠の鬼……『
灯里もまた気付いた、この人の正体に。
宝石を思わせるような煌めく美しい翠色の髪と、同じ色の瞳は、人に許された美ではない。
額に生じた角すらも全てが調和して美しい、翠の色彩纏うその人は続ける、朗らかな声音の中に逆らえない程の威厳を潜ませて。
「お前のような小物に貸してやれるほど、安い名前ではないのよ……?」
一対の角を持つ翠の髪と瞳に転じた麗人――真の翠の鬼『翠黛』である者は、凄絶なまでに美しい微笑を浮かべて言った。
その翠玉の眼差しに宿るのは、明確なまでの怒りである。
人間達は、言葉失ってその場に立って在る事できずに、力を失い座り込んで茫然と彼の鬼を見つめている。
『花婿』であった鬼の青年は最早何も出来ずその場に膝をつく。小さく切れ切れにお許しをと聞こえてくる。
「運が無かったわね。灯里さえ狙わなければ見逃してやったかもしれないのに」
無造作に振るわれた短刀が、青年の眉間に吸い込まれた。
鈍い音、生々しい音を伴いながら、刃を受けた青年は赫い軌跡を描きながら床に倒れ伏し、動かなくなる。
そして、黒い塵となった身体はゆるやかに消え去り、そこにいた痕跡すら残さなかった。
訪れる沈黙、人は誰も言葉を発する事が出来ない。しかし、不意にそれを朗らかな声が破った。
「それじゃあ、灯里は連れて帰るから」
緑子は――いや、翠の髪と瞳を持つ鬼は、茫然と立ち尽くしていた灯里を抱き上げるとくるりとその場に背を向ける。
言葉を紡ぐ事出来ずに口を金魚のように開いて閉じてを繰り返すしか出来ない人間達の横を通り過ぎながら、低く何かを抑えた声音で囁く。
「これ以上灯里に関わらないというならこのまま平穏を上げるわ。でもね? 今後少しでもこの子に近づいてみなさい」
灯里の父母であった人達は、何も言えない。顔にあるのは恐れと畏れ。彼らは、人ならざる力あるものの怒りを招いてしまった事を漸く悟ったのだろう。
そんな二人へと、止めのように本物の翠の鬼は告げた。
「残さず喰らってあげるから」
少女を抱えた鬼が去った後、惨劇の場に残された彼らがどうしたのか。
そして、彼らがどうなったのか、灯里は終ぞ知る事は無かった。
◇◇◇◇◇
気が付いた時には、灯里は見慣れた緑子の住まいに居た。
何時の間にか気を失ってしまっていたようだ、そんな灯里を抱えて此処まで連れてきてくれたのだろう。
目を覚ました灯里へと笑う緑子には、角もなければ髪も瞳も美しい黒だ。
一瞬夢だったのかとも思った、けれどそうではないと灯里は知っている。
灯里が付き人として仕えていた人は、人では無かったのだ。人ならざるもの――力ある鬼であったのだ。
しかし不思議と恐ろしいとは思わなかった。灯里に向けてくれる優しい笑顔に、偽りはなく、在るのは温かな想いだけ。
「……アタシが怖い?」
不意に、緑子は――翠の鬼と呼ばれる男は呟いた。少しばかり何かを恐れているように感じる。
何を恐れる事があるのだろう、こんなにも美しくて力ある存在が。
灯里は何も言わなかった。言葉を紡ぐ事はせず、ただそのまま首を左右に振った。
恐れなどなかった、だってこの人はこの人なのだ。鬼であったからといって、過ごした日々が変わる事などない。
憧れの女優であり、恋しい男性である事に、変わりなどない。
それを見た翠の鬼は心からの安堵の笑みを浮かべて見せる。無邪気なまでの本当に嬉しそうな笑顔で。
「良かった、嫌いとか怖いって言われたら立ち直れなかったかも」
「……私にそう言われたって……」
相手が安堵の吐息交じりに呟いた言葉に、困惑の表情を浮かべる灯里。
自分よりも余程強くて美しい輝く星が、自分の言葉に左右されるなど、と疑問と戸惑いが心を支配する。
「アタシ、愛でたい相手に嫌いとか面と向かって言われたら弱いのよ……」
物憂げに嘆息する様子は、やはり溜息が出る程に麗しい。
仕草ひとつとて灯里を魅了する美しい鬼は、更に切ない吐息零しながら続ける。
「今までは人間とはほどほどに距離を保っていられたけど、灯里があんまり一生懸命で、健気で可愛いから、もう……」
「あ、ありがとうございます……?」
何やら万感の思いすら籠っていそうな呟きを聞いて、灯里の表情に浮かぶ戸惑いは増すばかり。
どう返答してよいものか迷いに迷った挙句、何故か疑問形の礼を述べてしまう。
その内なる揺れすらも包みこむかのような笑みを浮かべながら、翠の鬼は何気ない口調でとんでもない爆弾を落した。
「アタシ、そろそろ女優を一回お休みしようと思うの。やりたい事が出来たから」
「え!?」
唐突な申し出に、思わず灯里は驚愕して相手を凝視してしまう。
そんな、緑子程の名女優が舞台から去ってしまうなんて。言葉に出せずとも表情が雄弁に語っている。
灯里を見て吹き出した翠の鬼は、楽しげに笑う。灯里の頬を優しく撫でながら、彼は続けるのだ。
「お休みして、ちょっと別人に『変装』して。今度はアタシが灯里の付き人になるの。今度は灯里が、舞台に立つのよ」
灯里は思わず目を見開いた。相手の言っている事が直ぐには理解できなくて、問うような眼差しを向けてしまう。
そんな少女を見つめる鬼の眼差しは優しい、愛おしむような温かさに満ちている。
「本当は灯里を独り占めしたいけど、舞台に立つ夢を叶えて欲しいと思うの。それを支えてあげたいのよ」
好きな子の願いは叶えてあげたいものでしょう?
その言葉は甘く優しい響きと包み込むような温かな感触を伴って灯里の耳を擽った。
本来喰う者であり喰われる者、人の子をこんなにも愛しいと思う日がくるなんてねと鬼は囁く。
灯里も思う、本当であれば怖いと思う筈なのに怖くないのは何故だろう。それはきっと、この鬼だから。
あの日のように抱き締めてくれる温かな腕に幸せを感じながら、少しだけ躊躇った後、灯里はその背に腕を回した……。
支え支えられて、寄り添いながら過ごしたい。始まりの鬼である彼の人が、妻と微笑みながら過ごしていた日々のように。
願う鬼は愛しい娘の為に、喝采の宴を捧げる。
何時かは共に立てる日が来ると良いと願いながら。
――暫く後、新しきスタアの名が浅草の街に鳴り響く事となる。
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