喝采・三
空は灰色の雲に覆われて、篠つく雨に人々は傘をさしながら足早に通りを進む。
天候は生憎であれども、本日も劇場は満員御礼の人だかりである。
雨の中少女は何時ものようにシトロンの瓶を抱えて走り抜ける。
……その姿を人目を避けるようにして追いかける複数の人影に気づかないまま。
今日も舞台の幕が降りたなら、劇場は喝采に包まれた。
続く拍手に応じて再び上がった幕、舞台の中央には艶やかに笑う緑子が居る。
先日の傷は幸いにしてそれほど深いものではなく、もう化粧で隠せる程度まで回復していた。
灯里は再び付き人生活に戻っていた。
眼鏡にお下げに質素な身形、それを見て誰が先日突如として舞台に出現した綺羅星と思うだろうか。
支配人は勿体ない、舞台に立つべきだと言ってくれた。けれども灯里は困ったように笑って固辞した。
人々はまだあの日の見知らぬ女優についてざわめいてはいるけれど、時が流れれば自然に忘れられていくだろう。
そうして、灯里は日の当たらぬ場所に戻っていくのだ。
それは元あった場所へと戻っていく安心感と、少しの胸の痛みを伴う。
これでいいのだと言い聞かせる。あの明るい場所は、緑子のような人にこそ相応しいと……。
人目を避けた場所で物思いに耽る灯里に、近づく人影があった。その人物は、静かに灯里に呼びかける。
「灯里お嬢様」
「……あなた、は……」
久しく呼ばれてなかった呼び名に驚いて振り返った灯里は茫然として其方を見つめた。
シトロンの瓶が、地に落ちて割れる音がして。
――灯里の意識は、そこで途切れた。
緑子は割れるような拍手を背に舞台袖へと戻ってきた。
けれどもおかしい、何時もであれば出迎えてくれるはずの付き人が居ない。
お疲れ様です、と笑いながら声をかけてくれる灯里が居ない。
「あら? 灯里は?」
「ああ、灯里さんでしたら……。舞台中に、ご実家から連絡がきまして」
「何ですって……!?」
裏方の男が伝えた事実に、緑子の眉が明確に潜められる。
それを聞いた瞬間に緑子は駆け出し、あっという間に舞台袖からも消えて居た。
疾風のように去った女優に、裏方の男は目を白黒させて立ち尽くしていた。
◇◇◇◇◇
帝都のとある場所にある、由緒ある佇まいの屋敷。
その内の一部屋に少女の叫び声が響いている。
「どういう事ですか!? 何でこんな人攫いみたいな真似を……!」
他でもない灯里である。
まだずきずきと頭が痛む、あの時使われた薬のせいだろうかと灯里は唇を噛みしめる。
あの時、昔に呼ばれた呼び名で呼ばれて驚いて振り返ったなら、見覚えのある男が二人居た。
それは灯里の実家の家令と下男の一人だった。
何故ここにいるのか――灯里がそこにいると気付いたのか。
それを問う間もなく、口元を布で塞がれて薬の匂いを感じたと思えば視界が揺らぎ、意識が暗転して……。
再び瞳を開いた時、屋敷の広間に転がされていたのである。
辛うじて立ち上がる事が出来た灯里の目の前には、父と育ての母が居る。けれども彼らは、もはやかつて灯里を慈しんでくれた二人ではなかった。
纏う空気も表情も、忌まわしいという思いを隠そうともしていない。灯里を忌々しいと感じている事だけが伝わってくる。
鼻を鳴らして、父が口を開いた。
「まったく、手をかけさせておって……。まさかあんな処に隠れていたとは」
「お父様……」
「父などと呼ぶな、汚らわしい。生まれ持った役目も果たさず浅ましい世界で遊び呆けて」
父は何を言っているのだろう。訳がわからないまま、灯里は必死に震える身体を抑える。
生まれ持った役目と父は言った。自分は何を課せられていたというのか、わからない。
その答えは、刺々しい口調の声が説明してくれた。
「お前はね、元々鬼への贄に……『花嫁』にする為に産ませた子なのよ」
母は灯里を憎悪の眼差しで睨みつけながら、語って聞かせた。あの日の優しい微笑など、幻だったのかと思う程の歪んだ表情で。
この家は、あるあやかし――強大な力をもった『翠の鬼』と称される鬼と取引する事で栄えたのだという。
そう『花嫁』という名の贄として当主の血筋の娘を捧げるのと引き換えに。
正妻は己の子を犠牲にするのを厭って、夫に外の女との間に子を設ける事を許した。その結果として生まれたのが灯里だと。
「下賤の女が、子を産ませてもらっただけでも感謝するべきだったのを、子供を犠牲にできないなんて拒絶して……」
言葉に過ぎったのは過去の殺意。
それを感じた瞬間、灯里は産みの母が「産後の肥立ちが悪くて」亡くなったのではないと直感した。
母は生まれた我が子が如何なる定めを負ったのかを知り、拒絶して、恐らく……。
母であった女は、茫然とする灯里など構う事無く尚も続ける。
「極上の贄となるように令嬢としての教育をうけさせて習い事をさせて……曲がりなりにも娘として扱ってやったのに」
本来外腹と蔑まれ生きる筈が、本腹と同様に育てられた。
沢山のものを与えられ、慈しまれ。何時か父母に孝養を尽くすのだと思いながら、幸せを疑う事なく。
「私たちに感謝して贄になって然るべきだったのに……逃げ出した恩知らず!」
そうだったのか、と灯里は漸く気付いた。
大事に育てられていたのは家を愛し血族を愛するように仕向ける為、今わの際にけして家族を呪わず自ら望んで贄となるように。
そして花嫁という名の贄として最上のものとなるように。
あの優しい時間は、ただの茶番劇。初めから愛されてなどいなかったのだと、知ってしまった。
それならば。
(お兄様は、何故あんな事を……)
喉がからからに乾いて、言葉を紡ぐのが辛い。震え掠れる声で、灯里は問いを紡いだ。
「お兄様、は……」
「死んだわ」
母であった人が何を言ったのか、理解できなかった。
兄が死んだと、この人は言いたいのだろうか。
「あの子は、死んだのよ」
思い知らせるように、もう一度繰り返される言葉。少しずつ少しずつ、灯里の中にその事実が染み込み、理解していく。
何故に、その答えは問う前に齎された。
「全部お前の所為よ!」
言って、女はそこにあった何かを覆っていた布を剥ぎ取った。
そこに居たのは、否あったのは、間違いなく兄の……首だった。
三方に載せられて、まるで何かの捧げもののように置かれているのはあの日別れた兄の生首である。
見せしめの為に弔う事も許されず、こうして腐らぬように術を施され置かれているのだと父は告げた。
全身の血が音を立て引いていく心地がする。唇は震えるばかりで、まるで用を為さない。
「お前を『花嫁』にするのを反対して、連れ戻すのを拒んだせいで、あの御方に殺されて……」
その所為で外腹に家督を継がせる事になった、と忌々しげに吐き捨てる義母。
良い婚約も約束された将来もすべてご破算だと何やら喚いているけれども、それは如何でもいい。
兄は自分の所為で命を落した、その事実だけが全てだった。
あの人は、止めようとしてくれていたのだ。灯里が何も知らずに父母の思惑通りに在る事を。
わざと辛くあたって家から出るように――贄の定めから逃れるように仕向けて、助けてくれたのだ。
冷たい態度の裏側に隠されていた兄の想いを、灯里は漸く理解する。
兄は、逃げろと必死に訴えてくれていたのだ……。
私の所為、と小さく呟いた灯里はその場に膝をつき崩れ落ちる。
逆らう気力が失せた様子の灯里を、引きずるように女中達が連れていく。
此れからやってくる『花婿』にふさわしい装いに、灯里を整える為に。
俯いたままの灯里は、一言も発する事なくされるがままだった。
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