泡沫・二

 今日の空模様は生憎なようだ、と心の中に緋紗子は呟いた。

 差し込む光こそ穏やかではあれども空模様は灰色がかっている、これは一雨くるかもしれない。

 一雨来た方が逆にこの夏の暑さを少しは改善してくれるかもしれない。

 身体にまとわりつくような重い空気、窓を開けてもどこか生温い不快な風が通り過ぎて、顔を僅かに顰めて閉じてしまう。

 発条が軋む音を立てながら、女中が顔を出して何時ものように緋紗子の支度を手伝ってくれる。

 会話をしている筈なのに、噛み合わっていない気がするのは気のせいだろうか。

 話しかけても要点を得た答えは帰らず、あちらは一方的に報せを告げているだけな気がするのだ。

 すっきりとしない心持ちを感じながらも、続いた言葉に緋紗子は思わず目を見張る。


「旦那様は、蘇芳様をお迎えに行かれるとのことです」


 お兄様は、まだお戻りになられていなかったの?

 でも、おかしい。昨日お兄様とお話した気がするのに、夢でも見ていたのかしら……。


「ぼうっとして、どうした? 緋紗子」

「ああ、ごめんなさい、お父様……」


 声をかけられて、びくりと身体を震わせる。

 目の前には怪訝そうな表情の父がいる、外出の支度を整え、後は出るばかりといった出で立ちだ。

 そうだった、お兄様を迎えに行くというので連れていってもらおうとしたのだった。

 緋紗子は心の裡で溜息をつく、自分で用事があって父を呼び止めたというのに、気を逸らすなんて如何した事だと。

 気を取り直して、父にしとやかに頭を下げて願いを口にする。


「お兄様をお迎えに行くのでしょう? 私も連れていって下さい」

「ああ、それなら一緒に行くとしよう。支度をしなさい」


 承諾を得るや否や、喜び隠しきれない様子で緋紗子は足取りも軽く部屋へととって返す。すぐさま支度をして、待ってくれている父の元へと急いで戻った。

 忙しない様子を少しだけ苦笑いした父は、緋紗子を促して外に待つ馬車へと乗り込もうとして、緋紗子もそれに続く。


 いや、続こうとした。

 けれども、足が縫い留められたように動かない。

 父の姿は見る見る内に馬車の中へと消えて行く、後に続きたいと思うのに緋紗子は動けない。

 このままでは父は行ってしまうと焦る。

 父が気付いて戻って来てくれる事を願っても、父の姿は消えたまま。


 不意に足が動いた。

 そう思った瞬間、緋紗子はその場に倒れて、また動けなくなった。

 身体のそこかしこが痛い、ぶつけたのだろうかと思ったけれど、それだけではない。

 まるで体中殴りつけられたかのような、鈍い痛みに全身が悲鳴を上げている。

 床に倒れ伏していたら、誰かと目があった。

 痛みでぼんやりとしたまま見つめたその人は、父だった。

 助けてくれないかと、願いを込めてみつめもした、従者がこちらを見ながら伺いをたてる。

 けれど。


『好きにさせておけ』


 父は吐き捨てるように言った。

 面倒事を聞かせるなと、煩わしいと言わんばかりの口調で。


『それであれの気が晴れるなら、好きにさせておけ。どうせ大して役にも立たない娘だ』


 手で埃を掃うような仕草をして背を向けて、父である人は歩き出す。

 ぽつりと呟いた小さな言葉が、何故かはっきりと耳に響いた。


『最初の子が女とは、何とも幸先悪い事だと思ったが、矢張りな』


 行かないでください、そうじゃないとお母様が……。

 けれど、父はそのまま去ってしまった。

 痛くてつらくて起き上がれない。

 床に転がされたままでいると、女中達が話している言葉が聞こえてくる。


『旦那様は今日も別宅だそうよ……』

『そりゃあ、あちらには男の子がいらっしゃるもの。跡継ぎが可愛いのよ……』


 この家の嫡男はお兄様が居るではないですか……。何故お父様はそのように仰るのですか……。

 お父様とお母様は仲が宜しくて、別宅など在るはずがないのに。私には弟など居ないはずなのに……。


 父も母も優しくて、皆が自分を認めてくれて、愛されている。

 幸せだ、しあわせである、筈なのに。


 雑音は昨日よりも酷く聞こえた。

 部屋の中の様子すら歪んで見える程に、酷く。地震でも起きたのかと思う程に地面が揺れる、廻る。

 何もかもがおかしい、苦しい、気持ちが悪い。

 これは一体何なのか、どうしてしまったのかという思考がぐるぐると出口なく巡っている。

 そんな時、雲を裂く雷のような呼び声が聞こえた。


「緋紗子!」

「おにいさま……?」


 目の前には蘇芳が居るではないか。

 心配そうな顔で此方を覗き込んでいる、座り込んでしまっていた緋紗子を支えながら。

 気が付いたなら、自分は玄関ホールへと続く道に脱力した風に膝をついてしまっていた。

 記憶を手繰る。

 ああ、そういえば私はお出かけになるお父様を、お兄様と一緒にお見送りしたのだった……。


「突然座りこんでしまったから驚いた……」

「そういえば、眩暈がしたかもしれません」


 貧血でも起こしたのだろうかと思ったけれど、今は特に何も感じない。

 大丈夫なようだと告げたなら、蘇芳は安心した様子で緋紗子を立たせてくれる。

 けれど手を添えてくれたまま、まだ完全に心配が解けたのではないようだ。

 表情を曇らせたまま、やや唸るように蘇芳は呟く。


「今日は俺に、あの曲を聞かせてくれる日だったが……」

「そうでした」


 今日は特段用事が無いから一日家に居るのだという兄に、洋行で求めてくれた楽譜の曲を弾いて聞かせると約束したのだ。

 何度も練習して漸く満足の出来る仕上がりになったので、是非聞いて欲しいと緋紗子から願ったのだ。

 蘇芳は快く承諾してくれた、それが今日なのだ。


「日を改めた方がいいな、今日は休め」

「いえ、大丈夫です。少しお休みしたら弾けますから」


 本当に? と顔に浮かべながら首を傾げる蘇芳に、ゆるゆると首を振って伝える。

 弾きたいから、それを聞いて欲しいから、他でもないこの人に。

 優しい苦笑と共に、こつんと緋紗子の額に己の額を軽く当てる蘇芳。

 吐息すら感じる距離にある兄の端正な顔に、騒めく胸を押さえるので精一杯。

 緋紗子は、悟られぬようにと心の裡の揺れを顔に出さないように必死であった。


「なら、休んで元気になったら――」


 蘇芳が微笑う、優しい……けれど何故か何処か哀しく感じさせる光を瞳に宿しながら。


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 ――ひとつ弦が弾ける音がして、旋律に跳ねるような不協和音が混じる。

 

 ◇◇◇◇◇


 空の蒼は灰交じり、空模様はあまり宜しくない。心浮きたつ筈の季節であるが、少しばかり憂鬱になる。

 病とは言え長らくお休みしてしまったのだから、早く学校へ行けるようにしなければ。

 皆様にまたお会いするのが楽しみなのに……。

 春が来て待ちに待った入学の日がやってきて、幸運な事にお友達も沢山出来たのだ。

 皆心配して手紙や見舞を届けてくれている、早く顔を見せて安心したいところである。


「緋紗子様、今日はどのような髪型に致しましょうか」

「緋紗子様、今日はこの先日誂えた着物に致しましょう」


 甲斐甲斐しく女中達は世話を焼いてくれる。

 皆が好意的であり、口々に緋紗子の日頃の努力を讃えてくれる、認めてくれる。

 けれど何故か、緋紗子には決められた言葉を繰り返しているように聞こえてならないのだ。

 まるでレコードを、蓄音機で再生しているかのように。針が盤を擦る音すら聞こえてくる気がする、考えすぎであろうか。


 支度を整えてもらい、部屋を出る。

 館の中を歩いていると、すれ違う女中達は静かに頭を下げて己の仕事に戻っていく。彼女達は無駄口を聞かずにてきぱきと仕事をこなしている。

 通りすがろうとしたその時だった。

 視界に幾筋もの黒い雑像が混じる。不快な雑音が混じりの会話が耳を塞いでも聞こえてくる。

 遠巻きな会話、ため息交じりの女達の話し声がする。


『お可哀そうとは思うけどね……』

『関わって奥様の勘気を蒙りたくないからね……』

『仕方ないわよ、奥様に睨まれちゃたまらないわ』


 女中達は、けして自分と話そうとはしない。

 必要最低限の意思疎通は行う、けれどそれ以上は話しかけようとしても聞かぬ振りだ。

 まるで緋紗子と話しをして、少しでも情が通ったと思われたくないとでも言うように。自分に好意的であれば、咎めをうけるでも言うかのように。

 用事が済めば直ぐに去っていく、緋紗子を一人残して。


 一人、独り、冷たい、寂しい。


 麗らかな気候の季節である筈なのに、温かさを感じる事が出来ない。身を切るような冷たさだけが、感覚を支配している。

 何もしないで居る事が耐えられず、外に出ようとする。

 何処でもいいから行きたかった、庭でもいい、出来れば屋敷の外に出たい。外の空気を吸いたい、そう、学校に行かないと……。

 そう思っているところに、女中の一人が声をかけてくる。


「緋紗子様、今日もお熱がございます。学校はお休みいたしましょう」


 熱なんてないのに、と緋紗子は呟こうとした。

 けれど、その言葉は紡がれない。いや、紡いだ筈の言葉は音にならず、相手に伝わる事もない。

 何度このやり取りを繰り返しただろう。

 過保護だと思いながら聞いていたのは、何時までだっただろう。

 わたしは、どれぐらい学校へ行けていないの……?

 ぐるぐると世界が廻る、地面がぐらぐらと揺れる。

 深いところから来る不安が、感覚を、世界を支配していく。

 弾かれたように、緋紗子は歩みを早める。

 外へ行きたい。監禁されているというわけではないのだ、行こうと思えば何処にだっていけるはず。

 それなのに。


「お部屋に戻りましょう、お嬢様」

「お風邪をひいてはいけません」

「旦那様がお呼びでしたよ」

「奥様がお嬢様の新しいドレスを作りたいと仕立屋をお呼びに」


 外に行こうとすると誰かに必ず呼び止められる、用事を伝えられて行けなくなる。

 どうして、外に出られない、出してくれないの。


「大丈夫か、緋紗子」


 声をかけられて、我に返る。見れば蘇芳が、緋紗子の肩に手を置いて留めている。

 気が付けば、緋紗子は敷地の片隅にまで来ていた。

 何時の間にこんなところまで歩いてきたのかと、我知らずのうちに移動した距離に茫然とする。

 少し先にやや寂れた風な建物が見えるではないか、あれは。


「ああ、あれは伯父様が住んでいらした離れだ」

「伯父様……?」


 記憶を探る風に呟いた緋紗子に、蘇芳は首を傾げて問いかける。


「忘れたのか? 五年前に亡くなられた……」


 思い出した、と緋紗子は呟いた。

 そう、父には兄にあたる人がいた。

 伯父は本来家督を継ぐべき嫡男でありながら生来蒲柳の質であり、体調を理由に退いて離れに暮らしていた。

 趣味人であり、ピアノが上手な人だった。幼い頃に聞かせてもらった事がある。病に障るとあまり訪れる事を許されはしなかったけれど。

 何故か、とても伯父が暮らしたというあの場所に行ってみたくなった。

 しかし、歩き出そうとした緋紗子を、蘇芳は尚も留めて首を振る。


「今は使われていないから、あそこには何も無い」


 それでも、行ってみたい気がする……。あそこには『何か』がある気が……。


「行ってもしかたない、戻ろう」

「はい、お兄様……」


 促されて屋敷へと戻り行く、一筋の未練を残しながら。

 あの離れを見ていて湧き上がったわけもない不安が、胸の裡を占めて消えてくれない。

 肩を抱いてくれる腕の温もりだけが、今の拠り所であった。


 ああ、お兄様。お兄様がいらっしゃるなら『ここ』にいたい。

 ここは、わたしの居ていい場所ですよね……?


 蘇芳は、微笑んで見せながら謳うように言葉を紡いだ。


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 ――どんどん弦が弾けて飛んで、旋律の中に跳ねるように不協和音が響く。

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