《紅》 泡沫の繭

泡沫・一

 変わらぬ一日の始まりは、開かれた窓から差し込む穏やかな朝日である。

 美しいもので彩られた部屋にて、少女が一人目覚めて寝台より降りた。

 咲き初めた花を思わせる風情の、清楚なうつくしさを持つ少女である。

 少し残る微睡みにぼんやりしているけれど、喜び含んだ黒瞳は輝く玻璃の窓に向けられている。

 緩く波打つ黒髪をふわり揺らして歩み寄れば、そっと伸ばした指先に触れるのは少しばかりひやりとした感触。

 外に広がるのは目にも鮮やかな蒼穹であり、眩しさに少女は少しだけ目を細めた。

 窓を開いて外の空気を招き入れ、吸い込んだなら新鮮な大気が胸に満ちていく。冬の大気は清冽で、肺腑が引き締まる思いがする。

 朝の気配に浸っていたならば、顔を出した女中が慌てて駆け寄ってくる。

 感冒を拗らせて学校を休んだ彼女が復調したのは、つい数日前の事である。

 大事をとってのここ暫くであるのにと、心配する女に軽く咎められれば少女は苦笑して謝罪した。

 身支度を手伝ってもらいながら聞いていたならば、少女にとっては福音とも言える報せが女中から齎される。

 髪が結いあがるまで待つ間すらもどかしく、淡い紅の着物の袖揺らして少女が忙しく階下へと駆けた。

 転びかけながら飛び込んだ先の食堂、そこには彼女が求めていた人物の姿があった。


「お兄様!」

緋紗子ひさこ、はしたないぞ」


 両親と談笑していたのは、一人の青年。

 切れ長な目元が時として冷たい印象を与えるけれど、心根は温かく些か真面目すぎるところのある事を知っている。

 洋行帰りであるこの家の長男、つまりは少女――緋紗子の兄の蘇芳すおうである。

 蘇芳は学業の一環として、暫し異国を巡っていた。兄はこまめに便りをくれたものの、顔を見られぬ日々は不安であり、無事を祈る日々だった。

 昨日の深夜に家に到着したものの、皆を起こすのは忍びないと密かに帰宅したという。

 直ぐに顔を視たかったのにと膨れる妹へ、兄は表紙に外国語のある薄い書籍を差し出した。


「何とか手に入れる事が出来たよ。緋紗子はこの曲を弾きたがっていると聞いたから」

「ありがとうございます、お兄様」


 それは異国の曲の楽譜だった、良家の子女の嗜みとしてピアノを習い、奏でる事を好む緋紗子が求めていたもの。

 蘇芳から楽譜を手渡された時に、指先がほんの少し触れあった。

 特筆する事のない何気ないそれに、鼓動が大きく跳ねた。

 指先が熱を帯びた感覚がある頬が紅に染まりそうになるのを必死に抑えながら、緋紗子は微笑みながら礼を述べる。


「お転婆は控えて大人しくしてくれれば、それでいい」

「まあ、お兄様ったら!」


 嬉しさが先だって駆けこんできたことを揶揄われているのだと悟れば、緋紗子は頬を染めつつも拗ねて見せる。

 確かに淑女としては褒められた行動ではなかったが、久方ぶりの再会故と思えば許して欲しいものである。

 そんな二人の耳に、笑いを含んだ優しい二つの声が届く。


「そうよ蘇芳、緋紗子ほどお淑やかな妹に向って」

「そうだぞ、何処に嫁に出しても恥ずかしくない自慢の娘だ」


 微笑ましく兄妹の再会を眺めていた両親が、楽しげに笑いながら言葉を重ねた。

 夫婦となって歳月が流れ齢を重ねてもなお、仲の良い両親は緋紗子にとっては憧れである。

 揃って優しい微笑みを浮かべて頷きながら、こちらを見つめているのだ。

 温かな眼差しを嬉しく思う緋紗子は、好意的な感情を含む囁きも耳にする。


「お嬢様はお美しいだけじゃなく、頑張り屋でいらっしゃるから」

「そうそう。それだけじゃなく、私たちのような身分のものにもお優しくてね」


 聞こえてくる使用人達の囁きに、面はゆくなって緋紗子は照れて俯くばかり。

 褒められて嬉しくない人間は居ないだろうが、此処まで手放しに褒められると些か困ってしまう。

 少しばかり罰悪い感じを覚えながら眼差しを父母と兄に戻せば、三人は変わらず談笑している。


「ただ、そろそろお前も落ち着いてもらわないと困るぞ」

「お蔭で緋紗子の方が先に婚約が決まってしまったじゃない」


 兄はこの家の跡取りであるが、未だ妻を迎える準備をする様子がない。

 然るべき時が来たら、妻を娶り家門を守り伝えていく責務を負う人である。

 義務から逃れる心算はない様子だが、その話になると上手くはぐらかすのである。

 父はまったく、と溜息交じりに言葉を続けた。


「まさか浮ついた連中のように自由恋愛なんぞ言い出すのではなかろうな?」

「自由恋愛も多いにありとは思うけど……そうだな、俺は……」


 飄々とした様子で父の言葉を受け流していた蘇芳は、悪戯っぽく笑って緋紗子を見つめながら紡ぐ。


「俺は緋紗子の笑顔が一番好きだから」

「うまく誤魔化しおって」

「もう、幾ら妹が可愛いからといって」


 冗談めかして笑う蘇芳を、父も母も仕方ないといった様子で笑いながら見つめている。

 言葉にこめられた優しさは、知らずの内に頬を緩ませるものがある。

 冗談であっても嬉しい、と緋紗子は胸が踊った。けれどもそれは慎み深い笑みの下に覆い隠してしまう。

 心の中をどれ程喜びが満ちようと、それを表に出してはいけない。

 これは、この想いは知られてはいけない……。密やかに芽吹いたそれは、花開いてはならないものだから……。

 顔を覗き込むように、蘇芳が優しく促してくれる


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 緋紗子はいつしかピアノの前に立っていた。

 父が数年がかりで手を回して手に入れてくれた、精緻な細工の施されている見事な舶来のピアノである。

 ピアノだけではなく、教師もまた異国人の教師をわざわざ招いてくれている。

 家中の皆は、こんなにまで大事にされてお嬢様は幸せものだというし、自分も心からそう思う。

 父も母も優しくて、皆が自分を認めてくれて、愛されている。何よりも、自分を慈しんで大事にしてくれる兄がいる……。

 この想いを抱く事が胸に苦しくても、伝えられないこころを抱き続けているとしても、こうして今傍に居られるならば、それで充分だと思う。

 ああ、自分は幸せだと、一日の終わりに緋紗子は我知らずのうちに呟くのだった。


 ◇◇◇◇◇


 目覚めた緋紗子は、今日も窓辺に歩み寄っては空を見上げる。

 今日は些か青空に陰りがあるようだ、もしかしたらこの後天候が崩れてくるのかもしれない。

 女心を秋の空とは良く言ったもの、今はまだ晴れていても変わりやすいのがこの時期の空だから。

 庭にでも出てみようかと思っていたのにと、少しばかり残念な気もするけれど仕方ない。

 女中は笑顔で身支度を整えてくれる。

 他愛無いお喋りと共に、歯車が軋むような奇妙な音がするような気がする。

 時計でも壊れかけているのだろうかと不思議に思っている間に、女中は手際よく支度を終える。女中の声が、何故か機械的に感じるのは気のせいだろうか。


「もうじきお兄様もご旅行からお帰りになりますから」


 何を言っているのだろう、と思わず首を傾げる。

 お兄様はもうお戻りになられたではないか、お土産に楽譜を下さったではないか。

 視界に黒い雑像が入り交じったかと思えば、一瞬ぐにゃりと歪む。

 けれどそれは一瞬の事、瞬き一つする間に消え失せて、目の前に広がるのは変わらぬ光景である。

 ……ああ、そうだ、お兄様はまだ異国の地にある筈だという記憶が戻り来る。

 会いたさが募って夢を見てしまったのだろうかと思えば、途端に胸が締め付けられるような苦しさを覚える。

 会いたい、傍に居て欲しい。貴方の無事を確かめたい、顔を見せて欲しい。焼けるような想いが心の裡を支配する。


 ――緋紗子は蘇芳に恋している自分に気付いていた。

 けれども、それは二重の意味で許されない恋である。

 蘇芳は、血の繋がった実の兄である。

 世の令嬢方の視線集める眉目秀麗な青年であろうと、文武両道と湛えられる存在であろうと。

 幾ら大事にこの上なく慈しんでくれる人であろうと、けして恋い慕っていい相手ではない。

 それに、これは不貞だ、と緋紗子は苦く心に呟く。

 緋紗子には婚約者がある、先だって整ったばかりであるが人の羨む程のご縁である。婚約者である人は、文句の抱きようもない程優れた男性だ。

 それなのに、自分の心にあるのはけして恋してはならない兄だけで……。

 罪深い、忘れなければいけない。封じてしまって、心の奥底にしまいこんで、なかった事にしなければならない。

 そう思うのに、己の心が侭らない事に苛立ちすら覚える。


「……緋紗子? どうしたというの。具合でも悪いの?」

「いえ、何でもありません。ごめんなさい、お母様……」


 声をかけられて顔をあげれば、そこには心配そうに覗き込んでいる母の顔がある。

 緋紗子は何時の間にか居間の長椅子に座っていた、その隣には母が淑やかに腰を下している。

 母と話している最中に、気が散ってしまったらしい。申し訳ないと顔を曇らせる娘に、母は顔をゆるゆると横にふりながら。


「まだ風邪が治り切っていないのかしら? 大事をとって今日は早くお休みなさい」

「お母様、ありがとうございます」


 母は気遣わしげに緋紗子の頬にほっそりとした手で触れると、何故か唐突に身体が驚いたように跳ねた。

 急に暗転する視界。

 母が何か言っているのが聞こえる。

 存在しない筈の痛みが生じて、かけられる温かい筈の言葉に雑音が混じる。


『少し具合が悪いからといって、こんな体たらく』


 甲高い音と共に頬が酷く痛む。


『正妻であるわたくしの子でありながら、女に生まれて』


 激しい痛みと共に、髪が抜けそうになる。身体が引っ張られる。


『あの下賤な女の子にむざむざ家督を奪われる、出来損ないの癖に』


 固い靴底の感触と共に、更なる痛みが刻まれる。

 頬を何度もたたかれる、髪を掴んで引きずりまわされる、足蹴にされる。

 痛くて、いたくて、くるしくて、つらい。


『ごめんなさい!』


 心から謝っても、届かない。降り注ぐ痛みの雨は止まらない。


『ごめんなさい、次はもっとがんばります、だから』


 次こそは願った通りの結果を出すからと、震える声で訴えてもそれが受け入れられる事はない。


『ゆるしてください、おかあさま……!』


 どれだけ必死に許しを乞うても、許される日はこない。

 そこには般若の面を被った女がいる、女は聞き取る事も出来ぬ甲高い罵声を浴びせ続ける。


 どうして? これは何?

 醜いものも、苦しい事も、辛い事もない。

 ここに在るのは、ただ美しいもの、心地よいもの、優しいものばかりだ。

 父も母も優しくて、皆が自分を認めてくれて、愛されている。

 幸せだ、しあわせである、筈なのに。

 この傷は、何? 痛みは何? あれは……誰?

 おにいさま、おにいさま、助けて……。何処にいるの、おにいさま……。


 必死に祈り呼びかける、助けを求めて手を伸ばす。


「緋紗子!」

「え……?」


 強く瞑ってしまっていた瞳を開いたなら、黒の眼差しの先には兄が居る。

 緋紗子は先程と変わらぬ長椅子の上にあったが、母の姿はない。

 もしかしたら、眠ってしまったのかもしれない。起こさぬように気を使って母は何処かへ場所を移したのかもしれない。

 こんな処で転寝なんて、またはしたないと笑われてしまうかもしれないと思えばバツが悪い。

 少し気まずいのを我慢しながら眼差し向けた先で、兄は揶揄うどころか安堵したように息をついている。

 蘇芳の手を借りて身を起こしながら、ふと緋紗子は疑問を抱く。

 そういえば、お兄様は何時の間にお戻りになられたのだろう、確かにもうじき戻ると女中が言っていた気がするけれども。

 でも、会いたかった。兄が居てくれれば、説明しがたい不安も苛む雑音も消えてしまうから。

 酷い悪夢を見た気がするが、もう何も覚えていない。

 蘇芳は緋紗子に手を伸ばして、ピアノの前まで誘った。

 大きくて温かくて優しい手に触れていると、心が満たされて行く。


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 蘇芳に促されるままに、ピアノを奏でる。

 不安な事が有るときでも、こうして奏でていれば不安は消えて行く。心が穏やかに静まっていく。


 ――ひとつ弦が軋む音がして、流れる旋律に不協和音が混じり始めた。

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