御影


 金の鬼の物語から明けて数日後、玄鳥宅の応接間には二つの人影があった。

 一人はあやめであり、もう一人は……。


「原稿は進んでいますかね……」

「頑張ってはいるようですね」


 深刻な表情で疑問を口にしたのは、名人の手による彫像を思わせるような、掘りの深い端正な顔立ちの青年だ。

 涼やかな目元には笑みの一つも浮かんでいたなら道行く娘達が振り返る事間違いないが、真面目な表情を浮かべていると些か冷たそうな印象を与える。

 背広を着崩す事なく着込んだ彼は、玄鳥の担当編集者である御影みかげ氏である。

 本日が締め切りである原稿を回収しに、朝一番でやってきたのだ。

 催促しても中々仕上げてくれずのらりくらりと逃げるばかりの玄鳥に業を煮やして、書き上がるまで待つ姿勢である。

 無言の圧を放つ御影を前に流石に根負けしたのか、玄鳥は大人しく書斎にて執筆に勤しんでいた。お茶を運んでいった時には、唸りながらも文机に向っていたのを見て来ている。


 持参した仕事をしながら待つ御影に、家の掃除をしながら時折お茶を差し入れつつ時間は経過し、正午の鐘が鳴った。

 恐縮する御影の前に昼餉のお膳立てをして、ふと書斎の方を伺う。

 どれぐらいの進捗だろうか、そろそろ食事を運んでいくかと思案していたあやめの耳に、御影の疑念に満ちた呟きが聞こえた。


「……もしかして……逃げ出したりしていませんか?」

「ああ、それは大丈夫です」


 あの締め切り破り上等の問題児が、静かな事に不安を覚えたらしい。

 この家は平屋であり、更に言うならば玄鳥には窓から逃亡したという前科がある。

 その玄鳥が何も言わず籠っているというならば、御影の懸念も当然の事だ。あまりに大人しく言う事を聞いている様子が、却って疑惑に繋がってしまっているらしい。

 けれども、あやめは確信を持って答える事が出来る、何故ならば……。

 あやめが口を開きかけた時、からんころんと何やら賑やかな音が玄鳥の書斎の方角から響き始めた。

 怪訝そうな御影をおいて、溜息を一度だけつくと冷静なままあやめは書斎へと向う。

 扉明けて書斎に入ってみれば、軒下にて賑やかな音をたてて鳴る鳴子の連なりを、強張った顔で眺めている玄鳥の姿がある。その手には、何処から出したのやら下駄があるではないか。

 部屋に隠していた分は回収したはずなのにと溜息をつく、油断も隙もあったものではない。

 あやめと御影がその場に居る事に気づいた玄鳥は、茫然とした様子であやめに問いかける。


「あやめさん、つかぬ事を聞きますが、これは何ですか……?」

「先生が締め切り投げ出して窓から逃げようとしたら鳴るように仕掛けておいた鳴子です」


 今日が締め切りであるのは勿論知っていた、だから窓枠などにちょいちょいと仕掛けをしておいた。それが功を奏した。

 息継ぎなしに淀みなく答えるあやめに、蒼褪めながら玄鳥は更に問う。


「雇い主に罠をしかけるとか、どうかと思うのですが……」

「先生が締め切りから逃げようとなさらなければ、発動しなかった罠なのですが」


 玄鳥が手にしていた下駄をさりげなく回収しながら、あやめは真顔で返答する。

 嘘は言っていない。玄鳥が窓から逃げ出そうとしなければ決して鳴らぬように工夫した、あやめ渾身の作だ。

 茫然としていたが、やっと事態を理解したらしい御影が笑顔を浮かべて褒めたたえる。


「流石です、あやめさん。毎度助かります」

「すいません御影さん、お待たせしてしまっていて。大丈夫です、速やかに仕上げてもらいますから」


 御影の他にも、日頃玄鳥の締め切り破りの挙句に逃亡という行状に泣いている編集者はいる。彼らの胃痛を思うと思わず目頭が熱くなる。

 確かに生みの苦しみは想像を絶するものであろう。

 だが、やはり約束というものは守らねばならないと思うし、全て放り投げて逃げるというのは、玄鳥の為にもならないと思う。

 ……と、説いて効果がある事もあれば、無い事もある。付き合いの長いらしい御影相手だと何かと気安いらしくて逃亡率が高い。

 それは些か御影が哀れというもの。故に、対策を打たせてもらったのである。

 見事に罠に嵌った形の玄鳥は、恨めしげにあやめを見つめながら低く呻いた。 


「……あやめさんの鬼……」

「頑張ったら、おやつに先生の大好きなシベリアを用意してありますからね」

「あやめさん、菩薩様!」


 あやめがにこやかにおやつの準備を口にすると、途端に打って変わってご機嫌な様子で彼女を讃える玄鳥。

 ここに来て二年、誰もが長く続かなかった環境で耐えてきたあやめは玄鳥の扱いというものを今ではよく心得ている。

 緩急というものは大事である。甘やかすだけも良くないが、厳しいだけも無論良くない。その匙加減を学んだのだ。


 後に、御影氏は同僚に『見事な飴と鞭を見た』と語っていたらしいが、今のあやめには知る由もない。

 本来雇われ人である女中のほうが弱い立場である筈だが、この家ではどう見ても力加減が逆転している気がするとも。

 ただ、見事に玄鳥の手綱をとっているあやめを、心密かに拝んでいる編集者は実のところ多いらしい。


 その後、廊下には御影・窓外の庭にはあやめという陣が敷かれた。

 そろそろ庭の手入れをしたかったから調度いいと鼻歌歌いながら仕事をしていれば、知らずのうちに時間が経過する。

 前門と後門の守りを固め、更にはあれこれと宥めすかした甲斐があり、三時のおやつの時間頃に原稿は無事完成した。

 出来上がったばかりの原稿を手に、御影は清々しい笑顔残して挨拶もそこそこに全力で駆け去っていった。

 やれやれと肩を竦めるあやめの視線の先で、少しばかりやつれた雰囲気の玄鳥はご褒美のおやつにお茶を楽しんでいる。

 この人はやれば出来る人なのにと思う。むしろその気になれば出来ない事などない筈なのにとも。それは確信に近いものであるが、何故そう感じるのかはあやめには分からない。

 首を傾げながら、ゆるりと寛ぐ玄鳥に声をかけて夕餉の買い物へと向かった。



 その日の夕餉はあやめが気合を入れた玄鳥の好物が並んだ。あやめなりに今日の彼の奮闘を労う気持ちを表してみたのである。

 玄鳥は大喜びで、何時ものように称賛しながら満面の笑みであっという間に平らげてしまった。お代わりも間に挟みつつの事である。

 食べ過ぎではないかと案じはしたものの、相手の顔に浮かぶ幸せそうな表情を見れば優しく苦笑いしてしまう。

 後片付けを終えた頃には、硝子越しの外は黒に満ちていた。

 窓辺によって空を見上げれば、星が瞬いているのがちらほらと見える。きらきら輝く南京玉を散りばめた、黒の天鵞絨を敷き詰めた如き風情があって美しい。

 まるで、あの万華鏡の中に見た風景のようだとも不意に思う。

 ひとつの色が戻った万華鏡、金の色がちらちらと散じては集い、集っては散じた。

 今までに見た事のあったものとは違うけれど、何故かしら不思議なあの万華鏡に惹きつけられるのである。 

 もう一度見せてもらおうと思い、玄鳥が居る筈の書斎の扉を叩く。

 調度良かったという言葉と共に応えがあり、お茶でも頼まれるのかと思い入って見れば……。


「今日は頑張ったので、疲れているのです」

「疲れているのと、いきなり膝枕させられる事がどう繋がるのですか」


 そこに座って下さい、と言われて言葉通りにしたならば、唐突にあやめの膝を枕に玄鳥はごろりと横になったのである。

 問いかける言葉が若干強張った声音であるのは仕方ない。

 これは雇い主と女中との分を越えてはいまいか、と思う。

 そう突き放す事もできるのだが、こうして世話を焼いている時の、こちらに委ね切って安らぎきった表情を見てしまえばそれが出来ない。

 甘えられて母性を擽られでもするのかと、裡に問うては見るけれど違う気もする。

 不思議と、こうして欲しかったのだ、という言葉がふわりと浮かぶ。

 誰に頼る事も知らずに張り詰めているこの人に、こうして力を抜いて欲しかった。その世話を焼けるが嬉しくて、幸せと……。

 そして、ふとそんな事を考えている自分に気付くと、あやめは茫然とする。

 いやいや、何故そうなると首を左右に振る。この人は張り詰めるどころか、常に緩んでいるではないかと。

 あやめの様子を見て不思議そうな眼差しで見上げる玄鳥に、何でもありませんと返せばそれ以上の追及はない。 

 そう、今のは気の迷いである。甘えられて、委ねられて嬉しい、などと感じたのも気のせいである……!

 あやめの不思議な葛藤は表情に表れていたようで、その百面相を楽しそうに見上げていた玄鳥は、ふと何かに気づいたように口を開いた。


「今宵も、ひとつ物語を聞かせましょうか」


 驚いて眼差し落せば、優しい光を宿す瞳がある。

 違う鬼の話であると言う。そして、やはり小説として世に出す気はないとも言うのだ。

 小説として綴る事のない話を何故聞かせてくれるのだろうと、不思議に思う。

 内容についての意見を求められているわけではない、けれども聞いたあやめに『何か』を求められているのは感じる。

 胸がざわめく、けれどもこころは聞きたいと求めている。

 無言を承諾の意と受け取ったのか、一瞬何かを懐かしむような表情をした玄鳥は、新たな鬼の物語を語りだす。


 ――棚に飾られた螺鈿細工の筒が、淡く光を帯びたのが視界の端に映った気がした……。




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