泡沫・三

 窓の外は灰色の空、何時雨が振り出すとも知れぬ陰鬱な空模様である。

 冷たい冬の大気が肌を刺すようだ。

 身震いして窓を閉めると、一つ溜息をつく。気持ちが沈みかけたのを、これから来る楽しみを思い浮かべて打ち消そうとする。

 そう遠くない内に、音楽学校への進学する事が決まった。更にピアノを学ぶ事が出来るのを、緋紗子は心待ちにしている。

 ピアノの先生は、緋紗子には才があると褒めてくれた。そして音楽学校への進学を勧めてくれた、恩師へと口添えしましょうと。

 予科の入学試験にて主席で合格し、父も母もそれは喜んでくれたのだ。


 今のうちにもう少し練習しておこう、とピアノのある部屋へと向う。

 歩き出したその時、世界がまた歪んだ。

 耳障りな雑音と共に、両親が刺々しい口調で話している会話が耳に侵入してくる。


『音楽学校へ行きたいだと? 何を馬鹿な事を言っている。そんな無駄な事を』

『四六時中ピアノなんて弾いているからですわ。嗜みに学ばせたけれど間違いだったわ、処分してしまいましょう』


 世界が歪んで軋む。

 雑音は最早耐えきれない程に凄まじく、黒光りする雑像で視界はかすむ程だ。

 けれど緋紗子は必死に手を伸ばす。足元を救われて倒れ伏しても、必死に手を伸ばして懇願する。


 お願いです、それだけは止めて下さい。

 私から取り上げないで、唯一つの、わたしの縁なのです……!


 けれどもそれは届く事はない、願いは叶えられる事はない。

 ピアノは、何処かに消えてしまった。未来は、断たれてしまった。

 気が付けば、緋紗子は敷地の片隅へと走っていた。

 足を向けた先には、伯父が暮らしていたという離れがある。

 あの場所が気になってならない。あの場所には『何か』があるのだ、確信はないけれど、恐らく。

 もう少しで離れに辿り着くというところで、腕を強く引かれた。 


「駄目だ、緋紗子」

「でも、お兄様。ピアノが無くなってしまったの」


 真剣な表情で緋紗子を留める蘇芳。

 ゆるゆると首を振って緋紗子は訴える、茫洋とした光をその瞳に宿しながら、何処か虚ろな表情で。

 自分が何を言っているのかもわからない、けれど緋紗子は続ける。


「『あそこ』に、あるの」

「……行ってはいけない。……行くな、緋紗子」


 押し留めようとしても、緋紗子は前へと、離れへと進んで行こうとする。

 その身体の何処にそんな力があるのかというほどの勢いに、蘇芳の表情が辛そうに歪む。

 緋紗子の視界が、唐突に何かに覆われる。

 感じるのは包み込んでくれる温かさと力強さ、それに鼓動。

 気が付けば、緋紗子は蘇芳の腕の中に居た。

 兄は妹を強く抱きしめている、離したくないとばかりに、きつく。

 抱き締める腕に籠る力は思いの外強くて、少しばかり苦しいと思う。

 けれどこうしていて欲しい、離さないで欲しい。どうか私を『ここ』に、留めて欲しい――。

 髪を撫でてくれる手は優しい。

 少し腕が緩んだのを感じて身じろぎして顔を上げたなら、眼差しが交錯する。

 伝わってくる切なさ、哀しみ、そして『愛しい』というこころ。

 思わず息を飲む程の想いが、そこには見えた。

 違う、勘違いしてはならないと戒める。

 蘇芳はあくまで兄として、妹である自分を心配してくれているだけ。

 もしかしたら、なんて絶対に思ってはならない。

 心の奥底の想いを浮かび上がらせてはいけない、悟られてはいけない……!


 絡めとられて動かせなかった眼差しを漸く逸らして見せたなら、その様子を見て兄は漸く妹を解放した。

 どうして良いかわからずに所在なさげにする緋紗子に、蘇芳は苦笑いと共に言葉を紡いだ。


「お前のピアノは無くなったりしていない」

「え……?」

「悪い夢でも見たのだろう、おいで」


 蘇芳は緋紗子の手を引いて歩き出す。導かれるままに歩んだ先、ピアノはそこにあった。

 無くなってしまったなど、蘇芳のいう通りに夢でも見ていたのだろうかと緋紗子は溜息をついた。

 そう、ピアノはある。

 でも、どうしてだろう。

 そこにあるのが、父が用意してくれたあの立派なピアノではなくて、見た事もない古ぼけたピアノに見えるのは。

 けれども、緋紗子は何故かそれを「おかしい」とは思えなかった。

 蘇芳はそんな緋紗子に囁くのだ。


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 ――もはや、旋律は不協和音で埋めつくされていた。

 

 ◇◇◇◇◇


 世界にもう色はない、窓から見上げる空は漆黒だ。夜空とてまだ明るいと思う、夜闇よりもなお暗いものがそこにある。

 窓を開いてみても、胸のすくような大気は入ってくることはない。肺が爛れるような重苦しくて淀んだ大気が流れ込むだけ。

 現れた女中は、言葉を発する事のできない絡繰り仕掛けの人形である。

 されるがままに身形を整えて向かう先は、何時も通り食堂である。

 そこには、化け物が二体座っていた。

 黒い澱みのような汚らわしい身体に、滑稽な事に人の着物を纏っている。

 ずんぐりとした身体に顔はない、けれど大きな口が亀裂のように開いており、覗く鋭い牙は獲物の人生をばりばりと喰らいそうでとても恐ろしい。

 そんな化け物が、上機嫌に何事かを話している。不思議なことに、怪物たちは父と母の声で話すのだ。


「先方が結婚を早めるのを望んでおられる、準備を進めるぞ」

「お嫁に行ってしまうのは寂しいけれど、緋紗子が幸せになると思えばね」


 ざわざわと神経を逆撫でする声音で言葉をかけてくる怪物を見ていると背中を冷たい手で撫でられている心地がする。

 それでも、緋紗子は振り絞るように言葉を紡ごうとした。


「私……私は……」


 他に、想う人が。

 誰の事をなどと言える筈がない、けれどもこんな気持ちのまま嫁ぎたくない。

 必死に拒絶の言葉を紡ごうとした。

 その瞬間、恐ろしい化け物たちが驚く程大きく膨張したかと思え、ば緋紗子を覆い尽くさんばかりの影となり金切り声で叫ぶ。

 覚えのない、いや覚えのある言葉を。


『婚約を解消されたなど、何と恥さらしな……!』

『少しばかり金があるだけの……しかも元は妾腹の娘に婚約者を奪われるなんて、これも全てお前が至らないからですよ!』


 知らない、知っている。私の所為じゃない、私の所為。

 思考は纏まらず、感情の天秤は揺れに揺れて、もう留まる事を知らない。

 雑音が、雑像が、止まらない。耳鳴りがする、眩暈がする、世界がぐらぐらと揺れている。


『評判に傷がついたお前など、もう価値などないわ』

『何処かの後妻にでもくれてやるしかあるまい』


 影がぼたぼたと澱みを零しながら、手を伸ばしてくる。

 あれに捕まってはいけない、捕まったならば恐ろしい結末が待っている。

 その結末にもう辿り着きたくない、だから逃げなければと必死に緋紗子は駆けだした。


 何時ものようにピアノを弾こう、そうしたらきっとこの耳鳴りも眩暈も落ち着いて元に戻れるから。


 緋紗子は必死にピアノを探す、何時も弾いていた、父が買ってくれた大切なピアノを。

 それなのに、何処を探しても見つからない。

 確かにあった筈の場所にもない、家の中の何処を探しても影も形もない。あの綺麗なピアノは何処にもない。

 そして漸く気づく、そんなものは最初から無かったのだと。

 ああ、思い出した……。

 自分が触れたのは、おざなりに用意された、調律すらしてもらえない古ぼけたピアノ。そして、あの離れにあった、忘れ去られたピアノだけだった

 あの美しいピアノは、何時か触れてみたいと夢に描いていた幻のピアノ――。

 それすらも、今はもうない。

 代わりに手には鋭い光を放つ鉄の刃が握られている。

 何時の間にか『兄』が傍に立っていた。『兄』は変わらぬ笑顔で、優しく促す。


「ピアノを弾いてくれ、緋紗子」


 いいえ、弾けないの、もう弾けない……。

 お兄様の額に一対の角が見えるから。

 私の身体も、私の手も、何もかもが赤く染まってしまったから。

 この手には、刃で人の身体を貫く感触が刻まれてしまったから。

 わたしは、もう『ここ』にはいられない……。

 ――旋律は、途絶えた。


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