華燭・四


 依子が十六の齢を迎える日がいよいよ近づいていたが、前日の夜、彼女は憂鬱の只中にあった。

 今宵は指籠へ行く事が出来ない、と心の中で深い嘆息。苛立ちの中、それでも努めて平静を装う。

 理由は簡単、珍しく夫が本邸に在るからだ。しかも今まで無かった事だが、依子は書斎に呼びつけられている。

二人の間には未だ沈黙が満ちたまま、何の用事だと渋面になってしまいそうになる。

 よもやまさか十六の祝いでも伝えてくれようとでもいうのか。似合わぬ真似は止めてくれとすら思う、それよりも早く――。


「……指籠へ行っているようだな」


 夫の口から出た思わぬ言葉に、心臓が跳ねた。

 冷たいものが、一筋二筋背を伝う。今、夫は何を?

 何か言い返さねばと思えども、思考は押し合い鬩ぎあい、ひとつとて言葉とならない。


「夜ごと抜け出して奥庭の社へ向かっていると報告があった」


 女中が夜ごとの微行について気づいて居た事を、初めて知った。

 手燭の減りが早い事から気づかれたのだとは、依子は預かり知らぬ事だったが。

 何も言われずに居た故に、あの能面のような表情故に、依子が気づかれていないと思っていただけだったのか。

 指籠に誰が在るのかを女中は知らなかったかもしれない、けれど女は主へと進言したのだろう。『奥様』が夜ごと抜け出して社の……恐らくは何者かの元に通っていると。

 夫は知っている筈だ、指籠に何者が在るのかを。だって金雀枝は言っていたのだ『此処の主に入れられた』のだと。それが何故であるかは、終ぞ聞き損ねてしまったのだが……。

 蒼褪め唇を引き結ぶ依子を見て、夫である男は口元を歪めて嘲笑う。


「見てくれの美しさにでも惑わされたか。まあ、所詮建前の妻だ。別段貞節など気にしてはいなかったが」


 嘲りも、今の依子の心には露ほども響かない。何も与えない。

 夫の心は自分にない事など百も承知であれば、今更傷つく心はない。此方とて愛してなどいなかったのだから、それで相殺というものだ。

 恐れるのは、この先あの場所へ行けぬ様になる事。部屋に軟禁でもされようものなら、もう金色の鬼の顔を見る事は叶わなくなってしまう。

 それだけは、と思った依子の視界に鈍い光放つ何かが過る。


「どうせこの鍵がなければ、奴は外には出られない。精々格子越しに睦言でも囁くがいい」


 冷たい声音で言い放った夫の手にあったのは、複雑な文様の刻まれた銅色の鍵だった。恐らくは、あの指籠の南京錠を開ける為の唯一の。

 それが、金雀枝を解放する為に必要な物であると気づいた時。その時には既に、金属の輝きを依子は夫の手から奪い取っていた。

 これ程の力が自分の内に存在していたとは思わなかった、茫然とする夫を前に依子もまた半ば茫然としていた。

 けれど、次の瞬間には部屋を転がり出るようにして駆けだしていた。この鍵を奪い返される前に、あの指籠へ行かねばと。

 あの鬼を自由にする唯一の術はこの手の中に、捕まる前に、取られる前に、早くと。

 少女はあまりに必死で、必死過ぎて。


 ――誰も自分の後を追ってこない事に、終ぞ気づく事が出来なかった。



 鍵を奪い走り去った幼い妻の後ろ姿を見つめる夫の表情には、深い憐れみの色があった。我を忘れるほどにあれに焦がれてしまった少女が、ただ哀れだと思った。

 彼女はもう選んだのだ。向う先に待つものが『何』であるかも知らず、自ら飛び込んで行った。それを止める術は、もう無い。

 それが男の交わした契約。契約は為され自分は代償を捧げた。それだけの事だと自らに言い聞かせる。

 あともう少しで日が変わる。

 彼女はもう直ぐ十六の歳を迎えるのだな、夫であった男はぼんやりと思った。




「金雀枝っ……!」

「依子……?」


 息を切らせて、服も髪も乱れたまま。

 何時にない程急いた、それも尋常ではない様子で指籠に現れた依子を、やや怪訝そうな表情で見つめる金雀枝。

 けれど、彼女が手にしている物が何か悟った時、双つの黄玉は軽く瞠られた。


「これで! 出られるの!」


 咳込み切れ切れに叫びながらも、依子は手にした鍵を掲げる。

 金雀枝は言葉を失った様子だった。無理もないと依子は思う、自由を約するものが現実となって目の前に現れたなら。

 僅かに喜びを滲ませたまま鍵を見つめる鬼の前で、依子は南京錠へと鍵を差し込み、回す。別段抵抗もなく、錠は静かに役目を終えて地に乾いた音と共に地に転がった。

 木戸が開く。興奮冷めやらぬままに、依子は中へと歩みを進める。

 早く、一刻も早く。追手がかかるかもしれない、その前に。

 金雀枝と共にこの屋敷を離れるのだ。そう思って依子は彼の手を取ろうとする。


「一緒に、出ましょう!」


 繊手は真っすぐに鬼へと伸ばされた、その手を取ってとの願いと共に。

 けれど。


(……え……?)


 叫んで、指籠の戸をくぐり鬼へと手を差し出した、その時だった。

 何もかもが一変した。

 この華やかな牢獄を取り巻く空気も。目の前の男を取り巻く空気も。捕らえた獲物を離さぬ執着が形を成したような、重く絡みつくようなものへと。

 華の燭の灯りが遠くに感じる。美しい調度が織りなす艶やかですらある空気が絡みつく。


「有難う。漸く来てくれたね」


 金雀枝が、静かに口を開いた。その声音は、何時ものように穏やかで優しいものでありながら、何かが違う。

 あまい、甘い、初めて出会った日に食べた砂糖菓子のように。

 甘やかで蠱惑的で魂が震える程に恐ろしいその声に、身が無意識の内に震え始め、一歩退こうとした。

 例えようもない純粋な『恐怖』が身の内を支配する。

 今しがた潜った戸から、外に出ようと弾かれたように身を翻して駆けだした。


 否、駆けだそうとした。

 無かったのだ、入口が。


 確かに潜った筈のこの牢獄の戸が、綺麗に消え失せて有るのは続く格子のみ。

 有り得ないと言葉を失う、ならば自分は何処から此処へ来たというのだ。

 言葉を失ったまま格子に触れた依子の前で、またしても驚くべき事象が起きる。

 格子に描かれていた呪いの文様が、霧の如く消失したのだ。

 背筋を冷たいものが伝う中、茫然とそれを見つめていた依子の耳に、愉しげな鬼の笑い声が届いた。


「此れでも私は大妖と呼ばれる身でね、この程度の結界を破るなんて造作もない事なのだよ」


 そもそも、その結界すらも尤もらしく見せる為に己が用意させたと鬼は何事もないように呟く。

 依子は何故、と問いかける事すら出来ないでいた。問いを紡ごうにも声は掠れて音にならず、吐息が虚しく過ぎるだけ。

 けれどその心の裡の疑問を見透かしたように、鬼は更に言葉を重ねる。


「言っただろう、待っているのだ、とね」


 瞳を見開いたまま、言葉なく格子を掴む。蝶番があった筈の場所にも、指先に触れるものはない。

 それでも、もしかしてと更に木の表面を辿ろうとした指先を背後から鬼の手がそっと抑えた。今迄なら仄かな熱を感じた筈の感触は、今は酷くひんやりと感じる。


 見えない。

 今まで見えた筈のこころが、重なったと思ったこころが。

 金雀枝が、見えない。


 格子の向こうに、何かが居る。

 白い透き通る影、もう今にもこの世から消え去りそうな朧げで儚い女の姿。哀しい顔を浮かべて此方を見る、あの影は

 あれは『わたし』だ……。

 漸く届いた、囁き続けた警告。


『聞いては駄目、見ては駄目、応えては駄目』

『近づいてはいけない、手を伸ばしてはいけない』

『とらわれてはいけない、戻れなくなってしまう』


 ――もう、遅い。


 背後から伸びた男の腕が、依子を絡めとる。

 愛しさを込め優しく抱きすくめる鬼を、僅かに許された身じろぎして、怯えの滲む双眸で見上げたならば。

 ――わらっていた。

 鬼が微笑う。櫨染を思わせた落ち着いた色の瞳は彩を変えていた。燃えるような黄金の輝きに宿るのは隠しきれぬ喜色と穏やかな静謐の底にある――狂気。

 初めて見る、否、見た事がある。

 あの日……『わたし』が確かにその手を振り払った――。


「あなた、は」

「漸く思い出した? そうだね、貴女は十六の歳を迎えたのだものね」


 何時しか日付が変わり、依子の十六の誕生日となっていた。堰を切ったように、依子の中に流れ込む『記憶』。それは独りの女と一人の鬼の、時を巡る物語。


 かつて一人の巫女があった。人々から尊ばれた、気高く美しい孤高の女。

 大勢に傅かれようと、大勢から敬われようと、その瞳には何かに餓える光があった。

 ひとりはいやだと心で叫びながら、それを押し殺し誰も触れざる尊きものとして女は生きていた。

 そんな女に、鬼は惹かれ焦がれた。

 けれども女は鬼を拒絶する、己が巫女であるが故に。

 伸ばした手の先、女は鬼の手を振り払い、己の命の刻を断ち切り逃げ出した。

 それから始まる追走。女は幾度か生まれ変わり、手が届きかけた矢先に全てを思い出してはまた命を断ち翔り去る。


 彼女がまた新たな生を得たと知った金雀枝は一計を案じた。

 幾度目かの際に、十六の齢を迎えた時に彼女は記憶を取り戻すのだと知った。

 だからこそ、此度はその前に……巡った刻が彼女に戻る前に、捕えてしまおうと鬼は考えた。


 子が失われるのを嘆く男へと持ちかけた。愛娘の命を繋いでやる代わりに、願いを叶えよと。

 現世の彼女をこの館に迎え外界との繋がりを断ち切り、心が頼るものなき不遇へと堕とせと命じた。

 それは、何れ鬼の在る指籠へと至る彼女が、出逢った鬼を唯一の縁と想うようにする為の下準備。逃れる続ける彼女が、此度は自らの意思で鬼に近づき、依存するように仕向ける為に。

 金色の鬼は、檻の中に自ら入り逃れられぬ罠の中枢に座しながら待ち続けた、彼女が罠に堕ちくるその日を。 


 そして、鬼の願いは成就する。今『彼女』ははこうして金雀枝の腕の中に在る。

 警告が何を示していたのか、見ていた夢が何を意味していたのか、全てが依子の中で明らかになった。

 けれど、もう手遅れ。鬼の両の腕は、抱き寄せて離さない。それは鋼よりもなお強固な戒めであるのだから。


 もう大丈夫と鬼は謳うように囁く。

 もう二度と貴女を寂しい想いなどさせぬし、孤独にする事もしない。

 この手を離す事などしない、何処にも行かせない。

 永劫に続く刻、貴女をこの閉じた世界に留めよう、この二人だけの華燭の檻に。

 ここに在るうつくしいものは、全てあなたの為に誂えたのだよ?

 大丈夫、何時か私の故郷に連れていくよと耳を擽る囁き。

 貴女の世界が私だけになったなら、何時かねと。


 今この時、頬を伝う雫は何故であろうか。

 思えば、此の鬼を拒む時。自分は何時も泣いていた気がする。

 此の涙は、何故か。

 その策略に堕ちた悔しさか、決して開かぬ籠に閉じ込められた哀しさか。

 それとも――?


「つかまえた」 


 囚ワレテイタノハ誰――?


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