華燭・三


 出会いから幾日過ぎただろうか、頻繁に依子は指籠へと通っていた。

 本来であれば、女主人がそう頻繁に夜に屋敷を抜け出していたなら気づく者が有りそうだが、誰に気づかれる事も無ければ咎められる事もない。

 『奥様』が何時も眠そうで、欠伸をかみ殺して居る事に懸念を示す者もいない。屋敷でどれだけ使用人達が依子に無関心であるかを示しているのが分かるというもの。

 ただ、依子にとって今はそれが有難かった。

 此処を訪れ金色の美しい鬼と格子越しに語らう時間は、無味乾燥だった日々に齎された彩だから。


 金雀枝は依子の語る事であれば、小さな事でも聞きたがった。

 楽しげに、或いは哀しみの相槌と共に聞き入ってくれる相手へと語るのは楽しかった。


「女学校には少ししか通えなかったけど、……素敵なお姉様がいたわ」


 相手に、近づく勇気が出せずに自分の女学校での日々は終わりを告げた。

 あの頃は唯、放り込まれた環境に振り落とされぬようにしがみつくだけで必死だった。

 だから、憧れを覚えたとしても近づく事など出来ず仕舞い、其れが今思えば悲しいと依子は結んだ。


「お姉様とお呼びしたかったけれど、お手紙を出す事もできなくて。とてもうつくしくて聡明な方だったわ」

「私にとっては、貴女が一番素敵に思うよ」


 ――こういうところが、と依子は頬を染めながら頷き、裡に呟く。

 この美しい鬼は、相手を讃える事に何ら躊躇いというものが無い様子。

 特に秀でた美貌を持つわけでもない、聡明であるわけでもない依子を何かにつけては褒めるのだ。

 まるで恋しい相手を語るように依子を褒めたたえる男に、心は時折大きく揺れる。胸の鼓動が早くて苦しい、言い返してやりたいけれど言葉にならない。


 これじゃあ、まるでと依子は思う。

 違うわ、そんなものじゃない。こい、なんかじゃない。話を聞いてくれるから嬉しいだけ、褒められるから照れるだけ。そう、それだけ。


 だというのに、頬の赤みはなかなか引いてはくれないのだ。そんな依子を、男は矢張り包み込むような温かな眼差しで見つめている。

 鬼もまた、様々な話をしてくれるのだ。

 人には思いもよらぬあやかしの世界の事、並び称される同胞の事、朋と思う者険悪な仲の者の事。御伽噺に語られるような不思議の世界の話に驚き、また喜び、畏れ。

 鬼は人が思うほど、人を害する存在ではないのだと優しい苦笑いと共に金雀枝は言う。

 確かに古の時代においては、人は鬼の贄であり玩具であったのだという。

 けれど、長である『始まりの鬼』が人の娘に恋をして妻として迎えたのが契機となり、鬼の意識は変容したのだと金雀枝は語る。人と友誼を結ぶ者も、人を恋うる者とて在るのだと。

 何故だかその下りを聞けば、面はゆく。そして、心の奥に冷やりとした何かが触れた心持ちした。


「また、訪ってくれるかい?」

「……また来るわ」


 格子越しに伸ばされた二つの小指が絡まり合えば、再びの訪れを約して、離れた。

 触れあったところが仄かな熱を持ったように感じる自分を、依子は否定できなかった。



 その日、依子は夢を見た。

 己が誰かの手を振り払い、拒絶している夢。

 夢の中の自分は、泣きながらそれは出来ぬと叫んでいた。

 叫んで、そして手にした刃を自分に……。

 其処で目が覚めた。

 起きた時には全身が心臓になったかと思う程の激しい早鐘の鼓動に、頬に二筋雫が伝っていて。

 委細が分からぬ筈の夢であった筈なのに、何故だか酷く哀しい心持ちだった。

 夢を見る事が増えた、と裡に呟く。

 後少しで依子は十六の歳を迎える、それが近づくにつれてそれは増えた。

 顔はぼんやりとしたものであったというのに。

 己に拒絶されたのが、あの鬼だったような気がしてならなかった――。



『とらわれてはいけない、戻れなくなってしまう』


 吹きすさぶ風は雲を呼び、雨を呼び。打ち付ける水の粒が地を打つ音に交じって、哀切の声音は訴える。

 ゆらゆらと揺らめく影は、儚さを増して今にも露と消えそうで。

 今なら戻れる? いえ、もう遅い。もう遠の昔に、わたしは……。

 泡沫の白い女の声を知るものは、誰もいない――。


 ◇◇◇◇◇


 気が付けば、すっかり指籠を訪う事が夜の倣いとなってしまっていた。

 初めて、依子が『居る』事を認められた気がするのだ。

 この家に嫁いできてから暫し経つ。けれど、向けた言葉にこころを以て応えてくれたのはこの鬼だけだ。

 こころ中にあった、餓えていた己を自覚する。こうして誰かと話したかった、紡いだ言の葉に返るそれが欲しかった。伸ばした手に、触れる温もりが欲しかった。

 わたしは此処に居るのだと、誰かに認めて欲しかった……。

 それは恋や愛とは違う感情なのかもしれない、と依子は思う。

 恋ではないと思えども、鬼に焦がれる感情は否定できない。しかし素直に認める事が出来ない、依子の内の何かが邪魔をする。

 けれど、己はこの美しい鬼に囚われている――。


「……依子?」

「え? ああ、ごめんなさい。ぼうっとして……」


 思索に耽りすぎていたようだ。格子を掴んでいる依子の手に金雀枝がそっと其の手を添えて、顔を覗き込んでいるではないか。

 我に返りその状況を認識すれば、途端に朱が散る白い頬。

 黄玉に慮る光を宿しつつも、鬼は僅かに悲しげな声音で紡ぐ。


「つまらなかったかな、私の故郷の話など……」

「いいえ! そんなことない! もっと聞きたいのに!」


 否定を叫べば、依子は必死に頭を左右に振って見せる。

 浄土もかくやという美しい鬼の郷の一角。夜闇に浮かぶ数多の灯篭が導く先に在る、幽玄の館。其処には金雀枝を主と仰ぐ眷属達がゆるやかな刻を過ごし暮らしているという。

 人の世の忙しさなどとは無縁の、夢幻の世界に依子は嘆息する。金の鬼が語る幽世の姿には、憧れすら掻き立てられた。

 金雀枝は嘆息交じりに、何かを思い浮かべるような遠い眼差ししながら言葉を紡ぐ。


「何時か貴女を連れていけたら良いのにと思うよ」

「……私は人間だもの。……鬼の世界なんて行ったら食べられてしまうわ」


 少しだけ不貞腐れた風を装い、呟きながら俯く。本気で思っている訳ではない、ただそう言わねば頷いてしまいそうだったから。

 それを聞いた金雀枝は、思わずと言った風に吹き出す。

 鬼が人を喰うというのは全くの間違いではないが……と金の鬼は苦笑い。

 それに私が依子の手を引いているから、と。流石に私の連れに手を出す愚か者はいないよ、と笑う金雀枝を依子は罰悪げに見つめる。


「何時か貴女に見せたいよ、私が暮らす世界を」

「……何時か、見てみたい、わね」


 金雀枝の眼差しと依子の眼差しが交錯する。

 見つめる黄玉に宿る優しさと熱を感じ取れば、頬が自然と熱を帯びるのを感じる。

 格子を握る手に、触れるあたたかな手。温もりを感じる程、哀しい。

 この牢獄に在る限り、この籠に在る限り。二人手を取り合って望む場所に行く事など叶わぬ願いであるのだ。

 並んで在る事すら敵わない、二人の間は阻まれている。呪いの文様施された、頑丈な格子が二人を隔てている。それ越しにお互い手を伸ばす事しか、今は許されていない。


 それでも何時かこの壁を超える事が出来たならばと、依子は何時しか痛いほどに願っていた。

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