華燭・二

 其処は、指籠さしこと呼ばれる牢だった。ただ、依子が伝え聞いていたものとは些か趣が違った。

 まず、狭さがない。一つの部屋と言ってもおかしくない開放感だ。

 それに、足元には畳ではなく、舶来ものと思しき毛足の長い絨毯すら敷かれている。

 中には華やかで眩いばかりの灯りが灯されており、それに照らさて在る数多の見事な装飾や調度の数々。屋敷の中の一室といっても過言ではないほどの空間。

 華燭に照らされた美しいものにて彩られた牢とも思えぬ指籠は、豪華な玩具箱とも思えるような不思議な空間であった。


 けれど、最も美しいものは指籠の中央に座していた。

 最初は女性かと思った依子は、直ぐにその考えを訂正するに至る。其処に居たのは、美女とも見紛う美しい一人の男性だった。

 華やかで美しくて、何処か歪な玩具箱のようなこの牢獄。その空気と趣を異にせず、溶け込むように其処にあったのは美しい男。

 そこいらの女では望む事も出来ぬような陶磁を思わせる白い肌に、灯りを受けて煌めき流れる儚い程の金の髪。

 櫨染を思わせる暖かい赤みを帯びた黄玉の瞳は、優しい光を湛え依子に向けられている。

 言葉を奪う程の圧倒的な何かを感じさせる、あまりに美しい……。

 何故このような場所があるのか、此処に囚われているのか。

 裡に鬩ぎあう疑問は中々言葉として紡がれる事はなく、見張った瞳は男に向けられたまま。


 唯、一つだけ。

 ――男が人ではない、というのは直ぐに知れた。

 男の滑らかな額には一対の角があった、人間にはそのようなものはない。


 鬼だ、と依子は息を飲む。

 見遣れば檻の格子のそこかしこに何やら呪いの文様のものが見えるではないか。

 此処は鬼を閉じ込める為の牢獄なのだ、と依子は悟る。

 人ならざる恐れる存在が其処にいると思えば、それ以上近づく事など出来ず足が動かない。

 息を飲み言葉を無くす依子を他所に、男は朗らかとも言える声音で問いかけの言葉を紡ぐ。


「これは珍しいお客様だね、お嬢さん。如何してこの様な場所へ?」

「……隠し通路を見つけたから、辿ってきて……」


 問われるままに応える依子の声は、やや掠れたもの。

 あまりにこの空間も、此の鬼も、浮世離れしていて、まるで夢を見ている心地すらするのだ。

 現実に傷つき鎖したが為に、現ならざる世界へと足を踏み入れてしまったのかと思う程だ。

 それを聞いて笑みを深めた美しい鬼は、軽やかな笑い声を立てて続ける。

 おいでおいで、と明るくいいながら優雅な手付きで手招きするのを見て、縫い留められたようだった依子の足が緩慢に格子へと進む。

 怖いと思う心が消えたわけではないのに、吸い寄せられるように指籠へと近づいていた。


「世話役の婆様以外に此処を訪う人など居ないと思っていたけれど、此れは楽しい」


 お近づきの印にどうぞ、と格子ごしに差し出された鬼の掌には、繊細なレエス編みの手巾に載せられた色とりどりの金平糖がある。

 鬼が金平糖、と思わずまじまじと相手を見つめてしまったならば鬼は優しく苦笑い。

 閉じ込められている身とは言え、惨い扱いをされているわけでは無いと。何かを望めば高望みな品でなければ与えられるし、菓子も齎されるという。

 無類の甘味好きで、と語る鬼は額の角さえなければ人の良さげな好青年に見える。……ただのというには些か、いや尋常ではなく美しすぎるのだが。

 不自由はないと言う、此処から出られない、それ以外は。

 夢のようなこの空間を現に引き戻す、頑丈な南京錠が扉を鎖しているのが視界の端に映る。恐らくは唯の南京錠ではあるまい、と察せられた。

 再度微笑と共に勧められたなら、ごく自然な動きで依子の指先は差し出された手巾へと伸ばされて。

 優しい色合いの粒の甘味が、こころに染みていく。見ぬ振りしていた心のひび割れに、静かに入りこみ癒していくような心地すら覚えて……。

 気が付けば抱いた疑問を紡いでいた、何故此処にと。


「待っているのだよ」


 何を、或いは誰をという問いに返ったのは曖昧な笑み。

 鬼は、自らを金雀枝えにしだと名乗った。

 待つものについてははぐらかしたけれど、此処に居る理由については『此処の主に入れられた』と語った。

 此処の主ということは、依子の夫である男の事だろうか。何のために鬼など閉じ込めるのだろうか。

 人ならざるものに家の栄達願うものもある、とは聞いた事があるけれど。それとは違う気もするし……。


 しばし思案していたところ、彼は依子について知りたいとせがむではないか。

 依子は請われるままに語った。

 初めて顔を合わせた、しかも人にあらぬ者に語る事では無い筈なのにそれは留まるを知らず。

 売られて嫁いできた事、如何なる境遇にあるか。何を想い、どんな日々を送ってきたかを。


 一度語りだせば、言の葉は尽きることなく次々と紡がれる。

 こんなに話したのは何時ぶりだろう。少なくとも、父の家へと攫われてからは無かった気がする、ぼんやりと思った。

 聞いてくれる者がなければ、語る事なきも必定。取り巻く誰もが耳を傾けてくれる事のなかった話を、金雀枝は優しく頷きながら聞いてくれた。

 そんな依子を見つめる双つの黄玉には、温かに包み込むような光が有り続ける。


 ひとしきり語り終えたなら、満ちる沈黙。

 気恥ずかしさが一息に襲ってくる、私は何をと。相手は今会ったばかりの、それも鬼であるのに。

 若しかしたら、だからかもしれないとも思った。人の世とはかけ離れた存在、日常とは隔絶した夢に在るような相手だからこそ、これ程までに……。


 言の葉続けて紡ぎ続ければ、刻は瞬く間に過ぎていて。もう間もなく払暁の頃を迎えよう、と地下に在る筈の鬼は告げた。

 流石に帰らねばと、依子は顔を顰める。如何におざなりにされる存在とはいえ、朝がきて何処にも姿が見えぬとなれば騒ぎにもなろう。

 けれど、後ろ髪引かれる想いは断ちがたい。

 今はお戻り、と告げる鬼の声音は穏やかなもの。

 一瞬寂しげな色の過る依子を見つめながら、金雀枝は微笑と共にゆるやかに首を傾げながら問うた。


「また、貴女の話を聞かせてくれるかい?」

「……ええ」


 問いに、応えが返される。それは再びの訪れを意味していた。

 お土産、と持たされたのは金平糖を包んだ手巾である。



 何処か我が事に非ずの風情で、元来た道を戻る。

 誰かの目につく前にと密やかに自室に戻った頃には、既に空が白み始めていた。

 慣れ親しんだ日常の風景の中に戻って一息ついて、ふと思った。

 ――あれは、夢ではなかったかと。

 夢かと思う不可思議な体験であった。

 けれどそうではないと、手にした見慣れぬ包みが其れを告げている。

 手巾をはらり解いたなら、ころりと可愛らしい色合いの粒が転がって。あの指籠にて、金雀枝が勧めてくれた優しい菓子が姿を見せた。 


 あの場所で見つけたのは、美しい鬼。

 そして、置き去りにしてきた筈のわたし。

 見ない振りをして我慢してきた、抑えつけられて苦しいと泣き続けてきたわたし。

 解き放たれて、笑うわたし……。


 心に溜まった澱のようなものが消え、僅かに心が軽くなった心地がしている。

 唯其処に在るだけを求められた者が見出した灯りが、人ならざる者とはと自らを皮肉る想いもある。

 秘された場所へと鬼を訪うなど、恐らくはしてはいけない事だろう。家人に露見したならば叱責だけでは済むまい。


 それでも、もう一度あの美しい鬼に会いたい。

 依子が今願うのは、それだけだった。



 闇に浮かぶ白い影は、哀しげに謳う。それは『彼女』の耳には届かない。


『近づいてはいけない、手を伸ばしてはいけない』


 警告は届かない。

 止められない、それがただ揺らめく女には哀しい……。

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