《金》 華燭の檻

華燭・一

《金》 華燭の檻


 囚ワレタノハ誰――?


 少女は口元に運びかけた匙を止め、隠す事なく盛大な吐息を零した。

 はらり、と少女の黒絹の髪が揺れる。

 うつくしいというよりは愛らしい印象を与えるそのかんばせに、浮かぶのは憂鬱の色だ。


「お口に合いませんか? 依子よりこ様」

「いえ、違うわ。……気にしないで」


 少女――依子の傍らに控えた女中が冷淡な声音で問いかける。その言葉に主を慮る響きはない、唯の事務的なもの。

 依子は首をゆるゆると振り問いに否定を返せば、再び手にした匙を動かした。

 齢十五の依子は、この家の主の妻であり女主人であるのだ。

 その彼女が気に入らぬとなってしまえば咎められるのは料理人である、それは望んでいない。

 同情の類ではない、要らぬ敵を作りたくない、其れだけ。ただでさえ味方が居らぬ中、敵だけを増やす等愚かだ。

 舶来の華やかな吊り灯に照らされた食堂、腕利きの料理人が調理した食事の味は申し分ない。

 けれど夕餉の時間、依子に共に食卓を囲む相手は居ない。一人であるならばそれはあまりに味気なく、砂を噛む心地すら覚える。

 煌びやかな灯りに照らされた贅を尽くした料理の数々をその様に思うのは我儘と思えども、感じる寒々しさは如何ともしがたい。

 自然と食事の手は緩慢なものとなってしまうけれど、女中は意に介した様子も見られない。


「旦那様は、今夜もあちらで……」

「そう……」


 女中は声を先程までと変わらぬ声音で告げるけれど、それに返るのは此れも心の籠らぬ相槌。

 それがほぼ毎日の事であれば、動く心など欠片もない。態々教えてくれぬとて結構、と思うだけ。

 広大な敷地の中にはある離れの一つ。

 其処には夫である男が囲う女とその娘が住まわされている、とお喋りな若い女中達が話しているのを聞いたのは、嫁いできてから一週間と経たぬ内だった。

 何でも夫は病がちな娘を大層可愛がっているらしい、本邸にいる事が少ないのもその所為であるようだ。

 離れに在る時間の方が長ければ、何方が本邸か――何方が本妻か分からぬと囁かれる声音に心痛めた日々も既に遠い、今では何も感じない。

 元よりこの身に望まれたのは、夫が名を得る為の橋渡し。

 不自由ない生活は与えよう、だから愛されようとは望むな。それが嫁いだその日に、夫である男性から言い渡された言葉である。

 現在、彼女が夫と顔を合わせるのは月に一度あるかどうか。

 元よりこの婚姻に夢も希望も抱いていなかった。親子ほども離れた年の相手と想い合えるなど思っていなかったから。

 世間ではどのように言われているのだろうか、知る術はないけれど。外出すらままならぬ身であれば、外の風評など知る由もない。


 まるで籠の鳥だ、と依子は嘆息する。

 女学校に籍を置いたのは半年にも満たなければ友を作る暇などなく、それ以前の知己とは会う事を禁じられている。

 そして、社交どころか人目に付くなと言わんばかりに外出もほぼ禁じられ、広い屋敷の中唯無為に時の過ぎるのを待つだけの日々。

 依子は売られてきたのだ。

 母と二人暮らしていた日々に唐突に現れた闖入者は、父の使いと名乗った。

 使いの男たちは母から依子を半ば無理やり引き離し、子爵であるという父の元へと連れ去った。

 訳も解らぬ間に華族の令嬢達の通う女学校へと入れられ、そうかと思えば十五になった途端退学させられてこの家へと嫁がされた。

 女学校への在籍は体裁整える為の形ばかりの事、最初から嫁がせる為だけに引き取ったのとすぐ知れた。それを証明するように、父という人に顔を合わせたのは唯一度きり。

 資金繰りに苦労する華族が、家柄を求める資産家と縁組するのはままある話。手頃な娘がいないという時に、打ち捨てていた外腹の娘を思い出したのだろう。

 多額の援助と引き換えに、依子はこの家に『妻』として売られた。

 妾ではなく妻となれるのだから有難く思え、とは対面した際の父の言葉だった。

 ええ、有難い事と皮肉の言の葉と共に殺意すら湧いた事もあったが、今はもう心は凪いだまま。

 変わらず気になるのは、母の事だけ。母が今如何しているのかを知る術がないのだ。以前一度だけ外へと渡りをつけようとしたが、素気無く断られている。


 女中達には自分を女主人として敬う気など微塵も無い事は分かっている。態度こそ丁重であろうと、女達は決して自分を『奥様』と呼ぶ事がない。

 気持ちは分からないでもない、そう呼ばれるには自分は幼過ぎる。下手をすれば自分の子とも言える年頃の娘を女主と思う事など出来ないのだろうとは察する。

 明確な嫌がらせや意地悪をされるわけではない、年の若い女中や下男は腫物を扱うように、年のいった者達は機械的に遇してくるだけ。

 自分と彼女たちの間に温かな心が通う事はない、全ては超える事の出来ない冷たい不可視の壁の向こう側にある。

 手を伸ばしても、誰のこころも指先を掠める事すらない――。

 それを寂しいとすら、思う事も無くなった自分を依子は感じている。求めても得られぬならば、求めない。其処には何もないのだからと思えば、得られぬ何かなど無いのと同じ。

 心を鎖して、何も願わない。

 そう思い続ける事が、皹入ったこころを抱える今の依子を支える唯一つの事。


 ◇◇◇◇◇


 日は流れ続けても、依子は変わらず独りの侭だった。

 自他を隔たる壁は厚くなるばかり、使用人達との距離は隔たるばかり。

 そんなある日の事だった。夫は、妾と愛娘を連れて外出し暫く戻らぬという。

 変わりない様子でそれを聞いて女中を下がらせた依子ではあったが、内心燻る思いがあった。

 外に出られぬ我が身、憚りなく外に出られる愛される女に娘、それを是とする夫。

 此の家において其れがあるべき形、誰もそれを異とは思わない、思ってはならないという空気すらある。

 それは苛立ちの漣となり、やがて依子の裡に小さな反抗心を呼び起こした。

 平素であればそのまま自室へと戻り、何するでもなく唯ぼんやりと過ごす筈だった。

 けれどその日は違った。

 女中達がもう用は済んだと依子から注意を逸らした後、手燭を取ると裏口からそっと外へと出てみたのだ。

 外の空気を感じたかったのかもしれない。生憎と月は出ていなかったけれど、夜の空の下を当てどなく歩いてみたかった。

 供も付けずに、と窘められても。いや、そうされる事は恐らくないけれど。誰も私を気にしないのだから、浮かぶ笑みは苦いもの。

 月も星もない夜闇の下、何かに突き動かされるように。手燭を頼りに歩きにて歩いて、屋敷を囲むようにある庭を過ぎて、裏庭まで至る。

 これ程広かったのかと少し上がった息を整え、そろそろ戻るべきかと思案していた最中、視界の端に、何かが過った。

 何かが有ると奥庭へと更に歩みを進めれば、やがて見えたのは古ぼけた社だった。華美な屋敷や庭園に似合わぬそれに、依子は不思議を感じる。

 何を祀っているのだろう、あの夫はさして信心深い様子でもないのにと。

 中に何もない社の寂れ方を見れば、最早忘れ去られた風情ではあるが、ふと気づく。木の床は思いの外塵が積もっていない、誰かが出入りしてでもいるのだろうか……。

 思索に耽る内に手燭の灯りが心もとなくなってきたことに気づいて、引き返すか、と身を翻したその時。

(……風?)

 白い頬を撫でて、ふわりと風が吹き抜けた。弱いものではあったけれど、確かにそれは背後から、何もない社の奥からやってきた。

 小さな社の中、それも奥から風が吹くのを不思議に思う依子。もう一度感覚を研ぎ澄ます、また、風が抜けた。ささやかな風は、床板の隙間から零れてきている。

 もしかして、と依子はしゃがみこみ目星を付けたあたりを探ってみれば……。

(隠し階段……!)

 隠された落し戸を力込めて上げてみたならば、地下へと至る階段と其処から続く細い道が見える。

 物語か何かのようだと驚くけれど、そのまま足を踏み入れるかどうかは逡巡する。此れは隠されていたものだ、己が触れていいものなのかと。

 おいで、と何かが囁いた気がした。それは甘く柔らかな誘い、遠い彼方から依子を招く声。

 誰かがいるのかを辺りを見回してみたが、誰も居ない。でも、確かに『聞こえた』のだ。

 その声に背を押されるように、胸に湧き上がったのは先に抱いた反発の心だ。

 何故自分だけが押し付けられた全てを粛々と守らねばならぬのだという、暗く激しい想い。

 この家の者達が隠す何かが有るなら暴いてやろうという昏いこころに突き動かされて依子は進む。

 恐る恐るではあるが着実に進んでいた歩みは、弾かれたように止まる。依子の瞳の先、向こう側が透けて、白くぼんやりとした影が浮かんでいたからだ。

 ゆうれい、と呟く依子の耳に哀しみに満ちたか細い囁きが届く。


『聞いては駄目、見ては駄目、応えては駄目』


 女の影は、其れだけ残して煙の如く消え失せていた。

 幽霊を見たかと思えば表情は少しだけ強張ったけれど、何故か恐ろしいとは思わず。むしろ何か懐かしさすら覚えたのを不思議に思うばかり。

 進むか帰るか、裡に生じた逡巡。

 それも僅かな間の事、気が付けば依子は前へと足を進めていた。

 知りたいのだ、この先にあるものを。

 この家の人間が隠すものを暴きたい気持ちも確かにまだある、けれどそれ以上に何に呼ばれたのかを知りたい。

 何かを願うこころ、それを自らの中に感じたのは久しい。ならばそれに従いたい。諦める事だらけの日々の中、特別と思える今宵だけはせめて。

 過ぎた過去に置き去りにしてきた闊達だった頃の自分が叫んだ気がして、まだ自分の中にそんなものが存在していたのか、と驚きながらも依子は進む。

 やがて、薄暗い道の先にぼんやりとした灯りが生じた。それは近づくにつれて明るさを増していき、更に歩みを進めれば、ついに其処へと至った。

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