万華鏡

 帰宅して、あやめがまずした事は書斎の片づけである。

 玄鳥が居る間に行えば彼の執筆の邪魔になる、けれども放置しておけば大惨事が再来する。

 故に、出かけた日の帰宅前が絶好の機会なのだ。

 床に散らばった丸めた原稿用紙を片付けて、机回りは過度に弄らぬように気を付けつつ整えて。ほうきをかけて、拭き掃除をして終了。

 そろそろ灯点し頃、人々はそれぞれに家路についている。

 出かけている玄鳥もそろそろ戻る頃合いだろうか。

 そろそろ夕餉の支度をと思いながら身を翻した時に、少し注意が足りなかったのか棚に肩をぶつけてしまう。

 それほど勢いをつけてぶつかったわけではないが、棚に置かれていたひとつの袱紗包みが音を立てて落ちた。

 しまった、と慌てながらあやめはそれを拾い上げ、中身が壊れていないかと確認する為に包みを開ける。

 袱紗に包まれていたのは……ひとつの『筒』だった。

 繊細な螺鈿細工で描かれた美しい絵巻物のような筒は、作者の技量の確かさと経た年月の重みを感じさせる。

 何かの入れ物かと思ったがそうではない様子であり、覗き穴らしいものがある。

 それを見た途端、あやめは思わず痛みを感じて身を僅かに曲げた。

 激しい頭痛がする。痛い、痛い……閉じた何かをこじ開けるような痛み。


 これは、この筒は。

 これは『万華鏡』だ。そう、知っている……初めて見るけれど、知っている……!

 誰かが呼んでいる。誰かが、何かを言っている。

 痛い、思い出せない、何かがあるのに……。


 あやめの顔色は白く、汗の玉が生じては流れていく。

 けれども、それは刹那の事。直に痛みも不可思議な感覚も消えれば、あやめは元の調子を取り戻す。

 何故かはわからないが、これは万華鏡だという確信がある。

 そして穴を覗きこんでみて、あやめの頬には先程までとは違う汗が伝う事となる。

 覗いても何も映らない。何の色もなく、何の像も結ばれない。それはつまり……。


「ど、どうしよう……」


 壊してしまった、とあやめは蒼褪める。

 これだけの見事な細工の筒の万華鏡だ、子供向けの玩具の万華鏡とは格が違う筈だ。

 弁償するのに如何ほどかかるのか、下手をすれば向こう暫くタダ働きという事もあり得る。

 激しく狼狽えてあたふたと筒を手にしながら言葉を失うあやめの耳に、聞き慣れた声がした。


「あやめさん?」


 何時の間にか、玄鳥が帰宅しているではないか。

 気が付かなかった事で更に慌て、どう説明したものかと思っていた時だった。

 筒を手にするあやめを見た玄鳥は、目を見開いて立ち尽くしていたかと思えば、次の瞬間には弾かれたように駆け寄ると筒を持つあやめの手を取っていた。

 その勢いに驚いて筒を取り落しそうになったけれど、それだけはなんとか避けた。

 それほどに逆鱗に触れてしまったのかと凍り付いたあやめだったが、必死に向けた眼差しの先を見たならば思わず目を瞬いた。

 怒りはそこになかった。あったのは、今にも泣き出しそうな表情の中、只管に何かを求める切ない光が宿る瞳。


「先生……?」

「あ、ああ……あやめさん……。すいません、驚かせましたね……」


 あやめの困惑の呟きに我に返った玄鳥は、慌ててあやめの腕を掴んでいた手を離す。

 掴まれたところは特に痛むわけでもない、けれど何故か熱を感じてあやめの鼓動は早いまま。

 今のは誰だったのだろう、玄鳥がまるで別人に見えたなんて、気のせいだ……。

 戸惑いながら俯いた。だが、視線が再び手にした筒に至れば、慌てて顔を上げて震えながら口を開く。


「先生、あのこれ……。壊してしまいました……」


 筒を捧げ持つようにして玄鳥へと見せる。

 落してしまったこと、何も見えなくなったことを強張った表情のまま伝える。何故かこれは彼にとって大事な物の気がしてならない。

 玄鳥はあやめから筒を受け取ると一通り眺め、覗き込む。沈黙が突き刺さるような心持ちがする。

 叱責を覚悟していたが、玄鳥が紡いだ言葉はあやめにとって意外なものだった。


「ああ、壊れていませんよ」

「え……?」


 何時もと変わらぬ穏やかな調子の言葉に、あやめは目を瞬いた。

 その様子を見ながら、玄鳥は少しだけ苦笑いして続ける。


「これは、かなり昔からこうなのです。『色』が失われてしまっているのです」


 前から壊れていたのだと聞けば、何と返していいものか言葉が出てこない。

 安堵なのか戸惑いなのかわからない感情を抱えながら見上げるあやめを、玄鳥は寂しそうに見つめて言う。


「これは妻のものです。妻が亡くなった時からこうなのです」

「あ……」


 玄鳥の妻は亡くなって居る事だけは聞いていた、何時どの様に亡くなったのかまではこれまで聞けていなかった。

 けれどわかるのは、時折見せる表情から、玄鳥が今も妻を愛しているのだろうという事だけ。

 ――あやめの胸の奥で何かが騒めき、何かが痛んだ。



 その後、お互い言葉のないまま過ぎて、気が付けば夕餉も終わっていた。

 玄鳥は何時もであればまた執筆に勤しんでそのまま眠る筈だった。けれど、その日はあやめが後片付けを終えるのを待っていたようである。

 どうしたのだろう? と不思議に思うあやめに、書斎から顔を覗かせた玄鳥は一緒にお茶でもいかがと言葉をかけた。

 そういえば貰いものの茶菓子もあったかと思い、玄鳥が「では自分が茶を……」と言い出したのを光の速さで遮って二人分の茶と茶菓子の支度をする。

 暫くの間、目を細めて温かな茶を喫していた玄鳥ではあったが、ぽつりと口を開いた。


「少し、お話を聞かせましょうか」

「新しい小説を思いついたのですか?」


 あやめも、時折玄鳥の原稿を読ませてもらう事がある。大抵の場合、内容に悩んだりして意見が欲しい、という時だ。

 けれども、此度はどうにも違う様子である。その考えを裏付けるように、玄鳥はゆるゆると首を左右に振って見せる。


「いえ。今の話であり、昔の話です。……小説として世に出すつもりはありません」


 不思議な言い回しに、あやめは小首を傾げた。何故だろう、少しばかり今宵の玄鳥は様子が違う気がする。そう、彼が今手にしている万華鏡を見つけてから。

 色を失い何の像も結ばない、壊れてしまった万華鏡。

 妻の形見であるというそれを手にしながら、玄鳥は心に染み入る、低く落ち着いた声音で語り始めた。

 あやめは、静かにそれを聞いている。

 視界の端に夜空に輝く月を映しながら、夜が長くなりそうだ、とぼんやりと思った……。

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