「ここってえ、基本料金は安いんですけど、ドリンクバーはないんですよね。でもその代わりにデザートが豪華で美味しいんです。料理も美味しいんですけど、それはまた別の機会ということで」


「意外と食い意地があるんだな」


「そうなんです。美味しいもの好きなんです」


「ふうん」


「あ。喫煙出来る部屋にしたので、吸いたかったらどうぞ」


「いや、いいよ。臭いだろ」


「全然。あたし、煙草の匂いって結構好きです。むしろ吸ってって感じ」


 澄田薫子は少し期待するようなまなざしで私を見たが、「煙草は吸いたい時に吸わないと意味がない。またあとで」と首を振った。別に今吸ってもよかったが、そんなふうに待ち構えられると、私は途端にやる気をなくす。大体の場合に置いてそうだった。勉強しなさいと言われてするのも嫌だったし、勉強して偉いなと言われたらするのをやめたくなる。私を見るんじゃあねえ。ただそれだけの思春期だった。私がその時期を逸脱しているのかどうかも分かっていない。


 そして私の前にいる彼女はその真っただ中だ。思春期の少女。二人きりの狭い部屋。背徳の逢瀬……。ふとそれらを改めて認識した後に、恐らくはたわいもない一言である彼女の「煙草の匂いって結構好きです」が徐々に大きく輪郭を帯びはじめ、私にとってはとても意味のある言葉に感ぜられてきた。


 煙草は私を形成する上で大事な一つの要素に成りつつあって、それが肯定されたものだから、私自身さえも肯定されたような気になってしまったらしい。もちろんそんな意図はないだろうが、彼女の相手の素顔を暴く特殊な能力の真骨頂はこうした部分にあった。言葉に思惑を気取らせないまま、相手の繊細な部分に柔らかく入り込んでくる。私はアルバイト生活で大事なのは思惑がバレないことなのだということをとっくに理解している。


 例えば、安藤さんは思惑が態度に大きく出る。陰口をたたいている時は、その叩いている人を排斥しようという思惑がありありと表情に表れているし、一見して相手をおもんぱかっているような言葉を吐いていても、実際は自分の為に言っているのだということは、皆分かっている。


 人間は相手の思惑を理解した時、腹立たしくなることが多いのだ。そういう点では、澄田薫子は相手を怒らせない才を持つのだが、爬虫類顔店長みたく、そうした無意識のしたたかさを深層心理で嫉む人間も中にはいる。私はやはり大抵知っているが、知っているだけで意味を成すということは、あんまりないのだということを、最近は痛感していた。


 メロンソーダはすぐにやってきた。澄田薫子はオレンジジュースだった。


 彼女は流行りのポップ・ミュージックを歌った。取りたてて上手いわけではなかったが下手というわけでもなく、その透き通る声音と高らかな声量だけで、いつまでも聴いていたい心地になった。


 恥ずかしがる素振りも見せずに歌いきった彼女は、満足げに薄らと頬を紅潮させている。息を整えながら「次は先輩の番です」と言った。彼女はいつのまにか「真田さん」ではなく「先輩」と呼ぶようになっていた。それは格上げされたのか、あるいは格下げされたのか、いや、ただ呼びやすいほうに向かっただけだろう。


「いや。私はいいよ……」


 そう返すと「駄目です。ほら聴かせてください」彼女は不敵に笑ってマイクを胸元に押し付けてくる。「大丈夫。下手でも笑ったりしませんよ。笑うわけがありません」ぐいぐいとあばらに食い込んでくるマイクを思わず手に取ると、彼女はすかさず手を引っ込めて背中に隠し「もう返却不可ですからね。歌い終わるまでは握り続けてください」と、そっぽを向いたような仕草をする。


 私は仕方がなくザ・ブルーハーツのリンダリンダを歌った。それがもっとも好きな歌だった。私の印象には合わない曲だからか、彼女は食い入るように画面に映る歌詞と私を交互に眺めた。前述の通り私は音痴だったから、歌いやすさに定評のある曲ですら音程を何度も外してしまい、それが分かってしまうから、歌っていくうちに段々自分が惨めになる。出来ていないことは分かっている。けど、直らないのだ。私は途中で何度も中止にしようと思ったが、澄田薫子と目が合う度に、それがとても罪深き行為であるように思われて、結局全部歌いきってしまった。


 数秒間、音が消える。それから思いだしたかのように宣伝が画面を流れ、彼女はそれをかき消すように拍手した。


 それは狂った猿の玩具のような熱量だった。どうしてそんなに拍手しているのか分からなかった。上手いわけでは絶対にない。疑問に思っていると、彼女は興奮したように聞いてきた。「今の曲のこと、もっと教えてください!」私はそうしてブルーハーツを歌い続けた。


 彼女は紫煙を燻らせる私に見向きもせず、スマホで偉大なるバントの詳細を調べていた。そうかブルーハーツを知らないのか、とか、疑問に思った瞬間にスマホが出てくるところだとか、世代が違うんだなあとしみじみとしながら、アピールするように紫煙を部屋にこもらせていった。


 澄田薫子はロックン・ロールというものに興味を抱き始めたようだった。母親が厳しい人らしく、クラシック以外の音楽を聴いては駄目、と言われていたらしい。ロックン・ロールがこんなに良いとは思わなかったと。そういえば、私の母もクラシックが好きな人だった。最後に、いちごが剣山のように突き刺さったパフェを食べた。甘かった。

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