明くる日、私と澄田薫子は地元のカラオケに出掛けた。彼女が「歌いたい歌がある」と言ったからだった。私は音痴だったから少し渋ったが、結局「じゃあ行こうか」とお決まりの言葉を返した。


 そして指切りげんまんをした。その子供らしい行為を恥ずかしく思う私だったが、そんなものは一切気にしていない無邪気な彼女の表情を眺めていると、そうしたたわいもない事に羞恥心を抱いているということがむしろ恥ずかしくなってきた。そうすると過去に格好悪いからと努力を嫌った自分まで恥ずかしく思われてくる。すべてを愉しめる人間の恰好良さというものは純然としてあるが、澄田薫子にもそうした趣が少なからずあった。


 日常に介在する粘着質な羞恥心に打ち勝つことが出来る稀有な人間だった。私はそうした人間こそが何かしらで大成していくのだろうという根拠なき偏見があった。実際、羞恥心に打ち勝つことが出来る人間というのは、ほとんどの場合において、怠惰にすら打ち勝つことが出来る。


 例えば、私が一人でカラオケに行くのを恥ずかしがって家でぼんやりしている間に、彼らは既に何十曲も歌い終わっている。私はそんな偏見から羞恥心は怠惰につながるのだということを知ってはいたが、人生経験で得た教訓を素直に活かすということにすら羞恥心を覚えてしまい、怠惰のままに行動を起こす事はしないのである。私には小説を書く宿命があると、己がアイデンティティまで怠惰を正当化する理由にして。

 私は大抵に置いて知っていたが、羞恥と怠惰の中で堂々巡りをする日々に絶望し、それでも五畳ほどの部屋から出れずにいる。


 外には新たなインスピレーションがあることも、新たな仕合せがあることも何となく分かっている。それでもパソコンの前から動こうとしない私は、恐らく考える人の次作である胡坐を掻いた人なのである。そんな胡坐を掻いた人をこうして連れ出してくれるのが澄田薫子であるらしかった。


 カラオケってことは、つまり密室で二人きりになってしまうのでは……と気が付いたのは、受付で澄田薫子が割引クーポンのQRコードを表示したスマホを店員さんに見せている時だった。


 私は緊張で頬を強張らせながら、「じゃあ、行きましょうね」と引率の先生のような言い方で階段を駆け上がってく彼女の後ろ姿を眺め、暫く茫然としていた。なんて純真無垢なんだ。どうしたら、そんなふうに振舞えるのか。我々は今から密室に二人きりなのだぞ。それを重々分かっていなければ、年ごろの娘としては落第点である。私は彼女の警戒心の薄さに呆れながらも、穢れのない振舞いに、やはりどうしようもなく欲情してしまう。穢れに塗れる私も、ゆっくりと彼女の後を追った。彼女は今日もワンピースだった。


 私と出掛ける時はいつもワンピースだ。何故なのかと問うたことがあったが「好きなんです」と彼女は言った。にしたって毎度にしなくてもいいのではないかと思った。正直なところ、私は他の恰好をした澄田薫子を見てみたい気持ちがあったのだが、それを口にするには、まだ時期尚早に思われた。無防備な彼女がたまに魅せる太腿や腋のみずみずしさを飽くことなく堪能し続けている自分の境遇は恵まれすぎているが、欲望は新たな欲望を呼び込み、その果てには何が待っているのか……澄田薫子と一緒にいると、たまにそら恐ろしい気持ちになった。


 果ての見えぬ欲望に、人格が乗っ取られてしまうのではないかという危惧があるからである。世の中にわいせつ行為が蔓延るのも、そうして止まらなくなってしまったからだろう。


 欲望が理性を超越する瞬間がきっとあるのだ。私は同年代の男と比べると危機管理意識が強いと自負しているが、彼女の前では何もかんもを性の尊さに繋げてしまう節があって、その一挙一動に輝く流砂のようなものを見てしまうのであった。


「何か飲みますか?」


 部屋に這入はいると、彼女はそう聞いてきた。


 お互い昼ごはんは済ませてあった。私は「メロンソーダ」と答えた。彼女は「あは、なんかそれ可愛いですね」といたずらな眼差しで言った。


 あは。あは。あは……その響きが何だか間抜けで、コルクを抜いた時のような明快さで耳に残る。あは。あは。あは……私は鼓膜の傍で右往左往している「あは」を持て余しながら、その一等狭く感じられる二人だけの部屋を眺め続けていた。いつまでも立ち尽くしている私を、不審に思った彼女の様子を視界の端で何とか捉え、私はそそくさと無機質な黒いシートに座る。彼女が壁に掛けてあった受話器を手に取って飲み物を注文している。

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