⑤
梅雨が終わる頃に、私は一つの小説を完成させた。
その頃の私と澄田薫子といえば、波打ち際で足先を弄ぶような趣のある、男と女の清き友人関係を保ち続けていた。
まだまだ肉体関係はない。私たちは逢瀬を重ねるとともに、色々な事を話し合った。私が小説を書いているということ。またそれが夢であること。澄田薫子はまだやりたいことが決まっていなくて、将来のことを考えると不安になること。本は読まないこと。でも、私の書いた小説は読みたいと言ってくれた。
あそこに行きたい。ここに行きたい。そうした希望を彼女はよく呟く。彼女は将来を悲観して、絶望を縁から覗いている状態に恐怖を抱き、空から垂れている、細く小さな希望の糸を手繰り寄せようと、そうした将来に向けた約束を欲しているのかもしれない。そう思うのは泣いている彼女を見たからか。彼女は約束事を呟き、じゃあ行こうかと私が言うと、決まって指切りげんまんをした。彼女の手は、なめらかで、清らかな、苦労を知らない手だ。
意外と指は長く、そこにエロティックな何かを感じてしまう私は、生来がそういう
私は澄田薫子と出会うことで一つの小説を完成させ、エゴイズム的な思惑も完遂された。その代償にこと澄田薫子との関係性については些か
この時ならまだ引き返すことが出来たように思う。小説は確かに完成したが、未だ私は袋小路にいる。結局、両親の関係性を掘り下げた小説は眠り続けている。小説を一つ書き終えたからといって筆を仕舞うわけではないのだ。また次の物語を生む宿命がある。私はその宿命にただ従っていればよかったのに、その為にだけ、澄田薫子との関係性を捧げていればよかったのに、結局のところ私は機械仕掛けではなく、五臓六腑を携えた血の通った人間……いや男なのだった。
その先を欲してしまうのは当然の行いだった。世間にも法にも許されるのなら、むしろ男が廃るというもの。恋を育むのに貴賤はなし。年齢も性別も一切邪魔立てするものではない。私は小説を完成させた時、そんな迸る情念、世界に対する反逆心を大きく膨れ上がらせていた。
己の気持ちを見て見ぬふりすることこそ罪なのだと
自慰行為に耽った夜は、何故私は澄田薫子に惹かれているのだろうと考える。
また、何故澄田薫子は私に構うのだろうと考える。真っ先に思い浮かんでしまうのは、決まって悪意の可能性だ。澄田薫子はうだつのあがらないフリーターの私を、思わせぶりな態度で
事前に心の準備をしておけば、いざ不幸が訪れた時に傷つかないで済むからだろうと思われる。いつどうやってそんな癖が身に着いたのかは分からない。私は今までの人生でそれほど大きな傷を受けたことはない。母の不貞だってその瞬間には理解できないことだったし、のちに衝撃を受けるも、私自身が傷ついたというわけではないのだ。だから生来のものなのかもしれない。とにかく私は、まずは最悪の事態を念頭に置き、澄田薫子との関係に挑んでいた。それを踏まえた上で、何故彼女は私と逢瀬を繰り返すのか……。
頭の中には様々な答えが浮かんだ。しかしそれは、はたして詳らかにするべきことなのかどうかを図りかねる。私と澄田薫子の恋路はロマンスである。それこそ小説のような、遊び心を秘めた物語だ。そのヒロインの思考の中を暴こうとするのは、主人公として些か無粋に思う。
ではなぜ考えるのか。そんな不毛な思考に悩まされている暇があるのなら、小説を書けと内なる私も言っている。恐らくは戸惑っているのだ。ふってわいたような澄田薫子との関係に恐れのようなものを抱いている。
恐らく劣等感からくるものだ。男と女がいるのだから、そこにほのかな恋心が芽生え始めるのは当然の事であるが、私と澄田薫子の場合においては、同じ屋根の下で仕事をしているとはいえ、基本的には別世界の住人である。
世界と世界の狭間で会ってはいるが……我々には天上界と下界ほどの落差があるといってよいだろう。もちろん、私が下界のほう。冴えない男が華々しく愛らしい女子高校生の澄田薫子とこうして逢瀬が実現しているだけで、ほとんど奇跡、それこそ神の御業か運命の悪戯でなければ成しえない事であった。
私は毎日毎日、そうして自問自答を繰り返した。
書き上げた小説は、然るべきところへ送りつけた。そっと息を吐くと、次に吸い込んだ空気と一緒に澄田薫子の笑顔が、えくぼが、花を咲かせるように脳裏を埋め尽くす。日暮れの空を眺める時やまどろむ就寝前などに彼女はよく現れる。私はひとしきり悶々として、また息を吐いている。
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