異聞 桃太郎

十余一

異聞 桃太郎

 昔々のその昔、吉備国きびのくにの南端には雄大な内海が広がっていた。本州と吉備の児島こじまに挟まれたそこは吉備の穴海あなうみと呼ばれ、時には陽の光を受けまばゆく輝き、時には暗く澄み伺い知れない畏怖を抱かせた。瀬戸内を望む峰から見渡すと、内海は静謐せいひつに広がり深山は青くかすみ海に溶ける。

 当時の人々はその険しい山林と平らかな海に挟まれた僅かばかりの台地に、細々と暮らしていた。


 事の始まりは水辺に流れ着いた一そうの船。丸木船に竪板たていた舷側板げんそくばんを取り付けたその船は朽ちた様子もなく、不自然なほど整然と佇んでいた。積荷はおろかかいすら見当たらず、赤子の他には誰も乗っていない。

 いったい何処から来たのか、証跡足りえる物の一切を欠いている。ただ、赤子のスッと通った鼻筋と意志の強い目がただならぬ雰囲気を漂わせていた。


 赤子を拾った男もまた、海から流れ着いた者だった。燃えるような赤い髪に虎狼のごとき鋭い眼光を携えたその男の名は温羅うら。遠い国で戦に負け、配下を率いてこの土地に辿り着いた敗国の王子である。

 身の丈六尺三寸の大男に抱かれた小さな赤子は泣くこともせず、無邪気に笑っていた。



 温羅からもたらされた様々な技術によって吉備国は大いに発展することとなる。

 一帯の山脈から取れる砂鉄が精錬され上質な鉄が量産された。鉄製の農具で山林を切り開き、氾濫を繰り返す暴れ川には数万という矢板を打ち込み流れを制する。また武具も鋳造され軍事力も格段に増した。

 そうして受け入れられた異国の一団が、吉備国の民と縁を結ぶのにもさほど時間はかからなかった。温羅は当地の神職の娘である阿曽媛あぞめめとり、拾われた赤子は実子のように育てられる。やがて美しく立派に育った青年は、宿禰すくねと呼ばれるようになった。


 宿禰は轟々と火を噴く炉が、賑やかな多々良場たたらばが好きだった。愛情を注ぎ育んでくれた義父母や明朗で勤勉な民を大切に思っていた。風光明媚な吉備の山々と海を愛していた。

 繁栄を極めた吉備国は、まさしく楽土であった。



 しかしその安寧も長くは続かない。強大な力を持ってしまった吉備国を驚異に思った大和政権は、いわれなき罪を着せ温羅征討に乗り出した。


 両軍は吉備の穴海の畔で、入江を挟み相対する。

 指揮を執るのは第一の皇子五十狭芹彦命いさせりびこのみこと。陣では留玉之臣とめたまのおみが鼓を鳴らして味方を鼓舞する。おびただしい数の矢が空を走り、ぶつかり合い海に沈む。波立つ水面には流れ出た赤い血が溶ける。そこにはもう、楽土の面影は無い。温羅の軍勢は善戦するも圧倒的な数の差に呑みこまれていく。程なくして猛撃する楽々森彦ささもりひこに突き崩され、犬飼武いぬかいたけるの軍勢に蹂躙じゅうりんされ散り散りとなった。


 挂甲けいこうを纏う宿禰の目に映るのは血の川に沈む義父の姿と、略奪し尽くされる愛おしい郷里。城からは火の手が上がり、響くのは長閑な歌ではなく凄惨な悲鳴。

 そして立ちはだかるのは海を渡り来た皇子。その顔はまるで鏡に写したようだった。凶兆として存在をほふられた双子の兄弟だということを、本人たちは知る由もない。


 こうして隆盛を誇った吉備国は平定され、温羅は悪逆非道の鬼として後世に伝えられる。後に桃太郎として語られることになる五十狭芹彦命は、勝利と共に自分と瓜二つの首を掲げ帰った。

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