第12話 過去と抜け殻と模索と
「だいいち、絵なんか描けないって」
恵美は、顔の前で手を振った。
「誰もそんなこと、期待しとらん。はっきり言って、雑用」
「なるほど」
「感心してないで、どうするの?」
「さて」
口真似をしてから、考える様子の恵美。
「いっそさあ、あたしが勝ったら恵美が美術部を手伝う、恵美が勝ったらあたしが図書部を手伝うってのは?」
「うーん。問題あり、なのよねえ」
「勝てばいいじゃない。さっき、あれだけ自信ありげだったくせに」
「それはそうだけど」
渋る態度を見せていた恵美だが、最終的に、桃代に押し切られてしまった。
とにかく、賭けは成立した。
結果? 示すまでもない。今、桃代が言っている通り。
ただ一つ、恵美のために言い訳しておくと、彼女の走ったコースだけ、前日の雨でぬかるんでいた、この点である。泥に足を取られて転んだのでは、勝てるはずもない。
「まさか、反故にする気じゃないわよね」
「……物知りね。反故なんて言葉、簡単に出てくるなんて、凄い!」
「へっへー、この前、漢字の小テストで出たじゃん。って、ごまかさないでよ」
「ごまかしてる訳じゃなくて、ただ、ちょっと、今日は気が乗らない……」
「こっちは時間が足りないんだから。文化祭が始まってからじゃ、遅いの。あたし達に明日はない」
「……津村君、いるんでしょ?」
「もち、副部長だから。――ははぁん」
にやにやする桃代。
「そういうことか。井藤さんのこと、まだ、気にしているんだ?」
「え、ま、まあ……。約束、破ったことになるんだし」
「そんなの、気にする柄じゃないって、あれは」
不安そうな恵美をよそに、勝手な保証をする桃代。
「恵美こそ、元気出たの?」
「うん、まあ……」
「向こうにだって、理由があるんだし。いいじゃない」
「……分かった。行く」
覚悟を決め、きっぱりと言い切った恵美。いつまでも拒んでだらだらするより、さっさと手伝う方が話が早いだろう。
「そうこなくちゃ」
嬉々とした桃代の声が、騒がしい廊下に、一際高く響いた。
物音を耳障りに感じて、優は目を覚ました。
が、何の音かは分からず、頭だけ起こし、その源を探す。
「……」
目をこすると、ドアが映った。音は、ノックだった。しばらく静かだったドアが、再び鳴り始める。
「はい、どなた?」
返事をしながら、優は全身を起こした。下宿暮らしをするようになってから、部屋はお世辞にもきれいに整理されているとは言えない。
「兄貴、生きてる?」
ドアは閉まったまま、声が聞こえてくる。優には、ドアの向こうにいるのが誰なのか、すぐに分かった。
「生きてる、とは何だ。起きてる、ぐらい言えよ」
軽口を叩きつつ、のそのそと起き出す。
瞬間、先の自分の台詞が、悦子とのやり取りに似ているなと思えてきて、思考停止に。
頭を振って、ドアに向かった。
「久しぶりだな」
「ほんと。これだけ、近くにいるのに」
妹の恵美は室内の様子を探る風に、ひょいと顔を傾けた。
「――壮観。荒れ放題って感じね」
「ごちゃごちゃしてるけど、衛生上は問題ないぜ」
「当然よ」
言いながら、靴を脱ぎ、中に入った恵美。
「学校の帰りか」
妹の制服姿から判断した優。
「違うの。鞄、ないでしょ。高校から家に帰ったら、お母さんから言われて……。はい、これ。おふくろの味ってやつ」
風呂敷状の物に包まれたタッパー数個を、手渡された優。
「助かる。それで、何か言ってたか?」
「特には。気持ちが整理できたら、帰ってらっしゃいぐらいのことは、いつも口にしているわ」
「毎度のことだな」
適当に一つ、タッパーを開け、つまみ食いをしてみる。
「うん、うまい」
「ねえ、まだ戻らない?」
「……ああ。今でも、事故のこと、思い出しちまうからな。あの現場を目の前にしたら、耐えられないよ」
自分の声が、ふっと弱々しくなった。優はそう感じた。
「そう……何ヶ月経っても……。ま、いいけど。部屋、使わせてもらってるし」
「おい、本当か?」
「嘘よ。そのまま」
舌をちらっと出す恵美。優は、ほっとした。自宅の自分の部屋には、触って欲しくないものがたくさんある。悦子との思い出が……。
「あ、これを聞いとかないと。大学の方、ちゃんと行ってるかって」
「必要な分は。いや、これでも、二月頃よりましになったんだ」
悦子が亡くなった一月から二月にかけて、優はほとんど大学の勉強が手に着かなかった。通う大学の仕組みでは、一年生のときは落第がないので、そのまま二年生になれたが、今期を頑張らないと、留年する可能性がある。
「授業の方は?」
「成績は大丈夫だって。前期の成績表、送っただろ」
「私は詳しくは見ていないけど。確かに、お父さんもお母さんも、別に文句を言わなかったから、分かってるんでしょうね」
「そっちは、何か変わったことは?」
「みんな、元気。お父さんが出張がちで、よく疲れた疲れたって言うけどね」
「そうか……。恵美、おまえは?」
「だから、私も元気だって」
「そうじゃなくて、悦子のこと」
優の言葉に、恵美の表情が、いくらか硬くなった。
「おまえだって、かなり落ち込んでいたように見えたんだがな」
「うん……。一緒に小説、考えることできなくなって……何もお喋りできなくなって……とにかく……」
声を詰まらせた恵美。
「自分で書いてみる気、ないのか?」
「……書きたいけど、私には無理よ」
「無理って、まだ分からないじゃないか」
「そんなことない! 無理なのよ!」
妹の不意の大声に、優は少し驚かされてしまった。
「書きたい気はあるわよ。でも、できないの。私は悦子さんにはなれない。悦子さんみたいには書けない」
「……」
瞬間、どういう意味か問い質そうとした優だが、やめた。
「分かった。悪かった。ただ、悦子だって、おまえが小説書くのを続けてくれたら、喜ぶと思う」
「分かってるよ、それぐらい……」
恵美は次に、表情をふっと和らげ、口調も変えた。
「兄貴こそ、しっかりしてよ。映研、全然、顔出ししていないそうじゃない!」
「そうだったな」
――妹を送り出してから、優は思った。
(あいつにごちゃごちゃ言う前に、俺も何か、見つけないと)
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