第13話 さざなみ

 しきりにうなずいているのは恵美。模造紙に文字を書き続けたことによる疲れを取るため、手を休め、何度か振りながら、感心している。

「改めて見たけど、上手」

「そう?」

 答えるのは桃代。右手には絵筆。その先から、次々と新しい色形が生まれている。画板に向かっているとき、桃代はいつもの甘えた口調ではない。

「うん、よくできている」

 言ったのは、恵美ではない。二人しかいなかった美術部部室に、第三の声が。

「あ、先輩」

 声のした方へ振り返った恵美は、少し身体を緊張させた。必要以上に緊張して、手にしていたマジックを取り落としてしまった。そうしたくなくても、自然になってしまう。

 詰め襟の学生服を片腕に抱え持ち、ぼーっと立っている男子生徒が一人。学年は三年。男にしては、やけに細い髪の持ち主だ。薄い造りの眼鏡をしているが、どこかおかしい。その風貌と合っていないのだ。

「あのう、園田そのださん。図書部の部長さんが、何か? 美術部ですよ、ここ」

 明らかにとぼけている桃代。筆の動きは止まっていた。

「そろそろ、図書部も動き出さなければならないのだが」

 見た目の雰囲気と同様、どこかぬぼーっとした声で、彼――園田が言った。

「はあ、分かっていますけど……ご覧の通り、手伝わされてますから」

「言わなくても、それは分かる。だから、敢えて言ったじゃないか。ぼちぼち、うちも動き出す必要があると」

「部長として、責任があるんですよね? でも、私も約束を果たす責任が」

 懐柔策に乗り出す恵美。

「僕が部長だと覚えていてくれて、どうもありがとう。こちらに戻って来てくれれば、もっと感謝するんだが」

 自分の言い方が気に入ったのか、園田は薄く笑った。いや、本人としてはただ笑っただけで、薄くも何もないのかもしれない。

 眼鏡のずれを直し、超然とした態度のまま、園田は抑揚に乏しい声で続けた。

「それで、どうする?」

 恵美は、すぐには口を利けなかった。恐い人じゃないと分かっていても、こういうときは苦手だ。独特のペースに巻き込んで、こちらを反論させなくしてしまう。もっとも、この状況では、ほぼ一方的に恵美に非がある。

「悪いんですが、今は、恵美を貸してください」

 桃代が代わりに答えた。乗っているところを邪魔されたせいだろうか。桃代の声は、上級生に対するものとしては、いくらか怒気を含んでいた。

 しかし、園田は、さして気を悪くしたようでもなし、かと言って、驚いた風もなく、しばらくの間のあと、ゆっくりと口を開いた。

「……まあ、板挟みってことはよくある。こちらの手伝いを引き受けたからには、ちゃんとやらなきゃな」

「そ、そうですよね」

 恵美は、助かったとばかりに、部長の言葉に飛びついた。

「だが、図書部の方も忘れず、働かないとだめだよねえ」

「はあ」

「どちらもこなせ。それが君の果たすべき責任てもんだよ」

「……」

「じゃ、手が空いたら、戻って来ること。いいね?」

「はい。すみません」

 どうにか見逃してくれそうな展開に、恵美は頭を垂れた。

 それに対して、園田部長は不思議そうな顔をして言う。

「何を謝っているんだい。そういうことは、できなかったときにしたらいい。――それでは、お互い、文化祭では頑張りましょう」

 と、桃代の方に顔を向けて言った園田は、また眼鏡を直すと、足早に去って行った。

「あー、やっと行ってくれたか」

 小さく、手で追い払う格好をしながら、桃代は描きかけの絵に戻る。

 恵美も内心、胸をなで下ろし、やりかけの作業に取りかかった。

 それからすぐに、他の部員が集まり始め、作業に没頭する状態となった。

「……ねぇ」

 しばらくして、桃代が恵美に囁きかけてきた。

「何?」

「さっきのやり取りから判断するとぉ、あの人、図書部の主だね」

「ん、まあ、当たってるか。部長って、顔や勉強はそこそこだけど、クラスで、ちょっと変わった奴で通ってるらしいわ。さっきので分かったかもしれないけど、真面目とおちゃらけが同居したような、独特の雰囲気があるから」

 一年のときから園田に接している恵美にとっても、彼の持つ妙な間は、やはり調子が狂う。

「おちゃらけ? どこが」

「最後の辺りなんかが。『お互い、頑張りましょう』って、言ったでしょ」

「……なるほど」

 よく分からないという風に首を振りながら、桃代は筆を走らせた。

「でもね、何だか知らないけど、人望はあるみたい」

 部長のことを悪く評したフォローでもないのだが、恵美はすぐに言い添えた。

「同級生や後輩から、悩みを打ち明けられて、相談に乗って上げることがよくあるんだって」

「ふうん? 見かけによらないと言うか」

「私が想像するには、部長の持つ、独特の雰囲気が、打ち明けやすく思えるんじゃないかな。無色透明っぽい、妙な雰囲気だけど」

「言われてみれば、そういうとこもあるかもね」

 それだけ言って、桃代は作品に集中し始めた。

 恵美の方は、どうも作業に身が入らない。園田部長が現れたおかげだ。

(お許しは出たけれど、図書室、行きにくくなるなあ)

 ため息を吐く恵美。簡単な仕事なのに、随分と時間をかけてしまう。

「そろそろ置こうか。遅れている人は、家に持ち帰るなり、朝早く来るなりして、やってくれよ」

 軽く手を打ちながら、津村光彦が言った。彼は副部長。何かと忙しい三年の部長に代わって、進行を取り仕切っている。

 これで今日は解放される。恵美はほっとした思いで、立ち上がった。

「毎回の助っ人、お疲れ」

 その津村から、声をかけられた恵美。少なからず、どきりとする。

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