第11話 祭の狭間で
さっきからしつこいぐらいに呼ばれ続けたせいで、不本意ながらも、恵美は振り返る意を決した。
「片山さん、何かご用でしょうか?」
全く柔らかさのないその声に、呼びかけていた桃代の表情が変わる。笑顔が固まり、一拍ほど置いてから、泣き出しそうな感じで口をつぐむ。
その間に、恵美は廊下を今までと逆方向へ歩き、相手との距離を詰めた。
「用があるのでしたら、早くしていただきたいんですけど」
「……どうして、そんな喋り方するのぉ?」
かわい子ぶった口調。身振りも同様で、両手を拳にし、胸に当てる。そしてその手を、顔に持って行く。今度は泣き真似か。
「いっつも、『モモ』とか『桃代』って呼んでくれるのにぃ」
対して、恵美は、答える前に、ふーっと大きく息をはいた。次に相手をじっと見つめると、小さな子を諭す調子で始める。
「……あのね、モモちゃん。あんたがね、私のこと、『ミドリ』って呼ぶの、やめないからよ。私の名字は『へりかわ』。『みどりかわ』じゃないんだから」
「何だぁ。……ごめん」
ぴょこんと音がしそうな、かくかくとした動作で、桃代は頭を下げた。栗色っぽい艶を持つ髪が波立つ。
「分かればよろしい。それで? どうかしたの?」
往来――廊下――で立ち話も迷惑だと考え、窓側の壁に寄った恵美。
呼応するように壁にもたれた桃代は、小さな声で何やら言っている。
「モモとミドリなら、バランスがいいんだけどな」
「何か言った?」
「別に。ねえ、何て呼べばいい? 前の、『メグ』じゃ嫌なんでしょ?」
恵美の表情が、わずかにしかめっ面になった。質問をはぐらかされたと感じているのだ。
しかし、つまるところ、相手に調子を合わせることにした。とりあえず、意思表示しておく。
「嫌。昔のアニメにあったからね、魔女っ子物で。嫌いじゃないんだけど、小学校のとき、同じあだ名で、よくからかわれたのよ。ほとんど誰も、元のアニメを見たことないくせに」
「それなら、これはぽいしてと……。『へりちゃん』もだめだっけ?」
「ヘリコプターじゃあるまいし。何かが減っていくみたいで、感じ悪いし」
「それじゃあ」
「もう、ユキは本名で呼んでくれてるんだから、『恵美』でいい。それより、早く用を言って。今日はなるべく早く、学校を出たいのよ」
恵美は右手首を返すと、赤革の時計で時間を確かめる。それからおもむろに、そして強引に、話を元に戻す。
「えっと、文化祭の話」
「あっ」
自分の顔が、しまったという感じになるのが分かった。勢い、返事の方も曖昧になる。
「そろそろ、ね?」
「助っ人する暇はない」
言うや否や、すたすたと歩いて行こうとした恵美だが、桃代にしっかと左腕を掴まれてしまった。普段はかわいいかわいいしている桃代も、こういうときに出す力は、かなりのもの。
「行かないで! 約束したじゃない、体育祭のときに」
「う」
言われなくても、恵美には分かっていた。この場を去ろうとしたのは、思い出したくなかっただけなのだ。
体育祭では、生徒は団体競技の他、何か一つ、個人競技に出なければならない。百メートル走を筆頭とする距離別徒競走、何の関連があるのか意味不明の国名を関した各種リレー、障害物走、むかで競走、先端を地面に固定したバットのグリップに自分の額を押し当て十回転、その後に競走開始となる四次元レース等々、多種多様な種目の中から選ぶのだ。
まともに走ることがあまり得意でない、つまり足が速くない恵美は、いくらか迷いを見せたものの、結局、去年と同じ障害物走を選んだ。去年は、飴玉を探すのに往生したが、それでも一位を取っていた。まあ、客観的に見ても、無難な選択だろう。
ところが、桃代も障害物走に出ることが決まってから、話がおかしくなる。各レースの枠組みが決まってから、桃代が言い出したのだ。
「同じ組だ」
「うん」
「ね、どっちが早いか、何か賭けない?」
「うーん……」
「自信ないのお? 一年のとき、一着だったのにぃ」
「何だと。じゃ、乗った! 何を賭けるのよ?」
思い返せば、このとき、恵美は相手の口車に乗せられた。自分の意志で賭けに乗ったつもりが、乗せられていたのだ……。
「さて。こんなの、どう?」
にやにや笑いの桃代。まるでチェシャ猫。
「あたしが勝ったら、文化祭で、我が部の手伝いをして」
「我が部って、モモ、何をしていたんだっけ? 忘れた」
「がくっ」
大げさにこける桃代。無論、わざとなのだろう。
「忘れたのぉ? もう、美術部だよー」
「忘れたってのは冗談だけどさ。私だって、文化祭の準備、忙しくなると思うんだ。図書部、人が少ないから」
「ああ、そうだっけね。確か三人だけ」
ずけずけとした桃代の物言いに、恵美はいささか傷ついたらしい。
「そういう弱小部の一員を引っぱり出そうとするなんて、あこぎと思わない? ユキに頼むとか。あの子、何にも入ってない」
「無理強いしたら、ユキはかわいそうだもん」
「私はかわいそうじゃないってか?」
「細かいことは気にしない。こっちの実状も、苦しいんだからさあ」
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