風の吹く前に

増田朋美

風の吹く前に

11月の中旬になって、やっと暑さから、解放されるようになってきた。

日中は暑いけれど、日が陰ると寒くなる。これがやっと秋らしい気候ということになる。

さて、その日製鉄所、正確には居場所を提供している施設ではあるけど、製鉄所に間借りをしている水穂さんのために、竹村優紀さんが、クリスタルボウルのセッションにやってきた。いつもは、竹村さん一人で来ることが多いけれど、今日は女性が一人いた。竹村さんこの女性は誰ですかと、杉ちゃんが聞くと、竹村さんは、名前は中村舞さんで、先月から、僕のところにクリスタルボウルを習いに来ている女性ですと紹介した。女性は、小さな声で、中村です、よろしくおねがいしますといった。その言い方は、なにか、ふてぶてしいというか、なにかちょっと、杉ちゃんたちとは、次元が違うなと思われる感じの雰囲気があった。体格は、女性としては、5尺と6寸はありそうな大柄な女性であったが、それだけではクリスタルボウルは勤まらないものである。舞さんと呼ばれた女性は、とりあえず、竹村さんの隣に座って、見学し始めた。

竹村さんは、白色の風呂桶みたいな形をした、クラシックフロステッドと呼ばれるタイプの楽器を台車に乗せて持ってきた。クリスタルボウルはとても重いのである。縁側にそれを素早く置いて、マレットをとり、クリスタルボウルを叩き始めた。ゴーン、ガーン、ギーン。風呂桶みたいな楽器をおいてあるだけなのに、何故かオーケストラを聞いているような、重厚な音がなる。それと同時に、副交感神経を強化するらしく、深く眠ったのとおなじくらい、リラックス効果があるという。それで、緊張しすぎている患者の心をほぐすための道具として、欧米では、盛んにおこなわれているらしい。日本はまだまだそういう部分では、後進国である。

竹村さんは、45分間クリスタルボウルを叩いて、マレットをおいた。 杉ちゃんも水穂さんもありがとうございましたと言って、深々と頭を下げた。それと同時に、水穂さんが、咳き込んでしまった。杉ちゃんが、急いで水穂さんにタオルを渡すと、水穂さんは口元を拭き取った。それには、赤い液体が着いていた。つまるところ、鮮血であった。もうどうしてそうなるんだよ、なんて杉ちゃんに言われながら、水穂さんは、ごめんなさいと言った。

「謝って済む問題じゃないんだよ。それよりも、薬を飲んで、安静にしなくちゃ。」

杉ちゃんが水のみを渡すと、水穂さんはそれを咳をしながら受け取って、黙って中身を飲み込んだ。

「大丈夫ですよ。クリスタルボウルを聞くとね、内蔵が活発に動くようになりますので、そういう反応が出るようになるんです。これを好転反応と言います。それは、悪いことではありません。気にしないでください。」

と、竹村さんがそう説明したが、杉ちゃんは、やれやれいつものことかいな、なんて言って、何も気にしないで居るのであるが、中村さんの表情は違っていた。彼女は、なにか別の事を感じたらしく、表情が、少し変わって、こんな事を言い始めた。

「一体、この人は、どういう気持でここに居るのかしらね。ただの間借り人だっていうから、大したこと無い人なのかなって思いましたけど、結構いい暮らししているんですね。着物を着て、おまけに、介護して貰う人もいて、そして、ちゃんと薬ももらっていて。それなのにどうして、何も良くなろうとしないのかしらね。驚きだったわ。」

「まあ、一般的な人はそう思うんだろうな。」

杉ちゃんがすぐに反応した。彼女の批評は更に続く。

「そんなふうに、人に世話になりっぱなしなんて、いけないことだと思うけど。いつまでも人に頼っていないで、自分で体調管理することを考えてあげれば?」

「まあそういう事は、そういうことなんだ。人に頼りっぱなしなのは、誰でも同じだよ。どんなに、できるやつだって、人の手を借りないで行きられるやつなどいないさ。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「そんな事ないわ。人に頼るのはいけないことじゃないの。人にお願いして、人を使って生きるというのは、いけないことなのよ。人に迷惑かけて置きながら、その人にお礼ができないという人は、いてはいけない人だわ。」

「うーんそうだねえ。いては行けないというか、誰だって、いつ事故とかそういうことにあうかわからんしねえ。それで、腕が取れたり足が取れたりしたら、そうなればすぐに誰でも障害者だ。それは、悪いことになるかな?どうなんだろう?」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「あなた、何者ですか?」

と舞が聞くと、杉ちゃんは、

「僕は影山杉三で、商売は和裁屋。それが何だって言うんだよ。」

と、即答した。

「そうなんですか。影山杉三さん。結局、車椅子に乗っているから、そういう和裁とか需要のない仕事にしかつけないんですね。そういう事は、どうせ、何の役にたちはしないわよ。着物なんて果たして何に使えるのかしら?」

杉ちゃんに向かって、舞は馬鹿にしたように言った。

「それではお前さんこそ何者だ?竹村さんに師事する前は何をやってた?」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「あたしは、音楽学校で、ピアノを専攻していました。これでも、演奏活動とかしていたことだってあるんです。」

「ほうそうか。それなら、今ここでなにかやってみろ。このグロトリアンのピアノで、得意な曲でもなんでもやってみな。」

「わかりました。」

舞は、すぐに立ち上がり、水穂さんの近くに置いてあった、グロトリアンのピアノの蓋を勝手に開けてしまって、ピアノを弾いたのは、ラフマニノフの前奏曲「鐘」である。しかし、聞いている限り、ただけたたましい感じの演奏で、何も印象に残らなかった。最近の音大生とか、ピアニストによくありがちなことであるが、けたたましい音楽を聞かせるだけで、強弱などが着いていない演奏になってしまう人が多いのである。それか、自分をかっこよく見せようとするために、オーバーアクションをして、演奏を見せびらかすピアニストも多い。本当は、ピアニストは見世物ではなく、音楽を聞かせる人間であるはずなのだが、それからちょっと外れてしまうピアニストが多すぎる。巨匠と呼ばれる昔のピアニストは、そうではなかった。

杉ちゃんたちは、演奏が終わると一応拍手をした。

「はあ、その程度か。なんだかうるさいばかりで、何も音楽性が出てなかったよ。もっと、強弱つけて、曲にメリハリを付けて、それでやりな。」

杉ちゃんはすぐ感想を述べた。

「そうですね。ただ、ラフマニノフの前奏曲を弾くだけではなくて、もっと音楽性が伴わなければいけないと思います。ただけたたましい演奏を技術的に見せびらかすのではなくて、いくら前奏曲であっても、1つの曲として見ないといけませんよ。」

水穂さんも、杉ちゃんに続けて言った。

「まあ、私にそんな事言っていいのですか!私は、これでも、ピアノを弾いて、コンクールだって出たことがあるのよ。入賞したことだってあるの。だから、ピアノでは誰にも負けないの。」

そういう彼女に、

「まあ、そうかも知れないですね。ピアニストになる人はある程度自尊心を持っていないと、演奏はできません。」

と、水穂さんは言った。

「私は、いろんなコンクールに出て、演奏をすることができるって期待されたわ。それを糧に私は、ここまでやってきたのよ。」

「しかし、なんで今、クリスタルボウルの奏者に弟子入りしているのかな?そうなら、順風満帆にピアニストのコースへ行ったと思うけど?それならなんで、出世街道とっぱずれから外れたの?」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ。音楽学校に入ったんだけど、その時に、ずっとむかしから師事していた先生に叱られてしまったの。私は、その先生にずっと師事していくつもりだったのに、その後から師事した先生が、彼女は私の生徒だと乗り込んできたのよ。だから結局、どちらの先生からも捨てられてしまって、私は今は一人なの。だけど、誰でも手を洗うのと同じように、みんなしているのよ。複数の先生に習ってしまうことは。だから私が、先生二人に捨てられることは、ありえない話なのよ。」

「はあ、才能があるのかもしれないが、そうやって、自分の行為を正当化するのはまるで双羽黒だな。あのときの破天荒な力士みたいに、何でもやることが派手で、自分のことばかり主張するのは、良くないよ。もう少し謙虚になれ。」

杉ちゃんが彼女に言った。それと続いて水穂さんが、

「そういう事は、たしかに音楽学校ではよくあることなんですが、いずれにしても破門ということでは?」

と、細い声で言った。

「困りますよ。私は、被害者なのよ。そんな事、先生方が勝手に決めることじゃないの。私は、何もしていない。ただ先生に師事したくて、習っていただけなのに。ただ、演奏活動したくて、それでやってきただけなのよ。」

と、彼女は激怒している顔で言った。そういうふうに何でも被害者としてしまうのが、今どきの女性ということであった。

「今だって、竹村先生と一緒に、クリスタルボウルを習って、翌々は、ヒーリング音楽家としてまたやり直すつもりよ。私は、音感もいいし、聴音もできる。作曲もできるわ。だから、またやり直せるの。必ずやり直して、また音楽業界に返り咲いてやるわ。」

「そうですね。でも、クリスタルボウルは自分の演奏を聞いてという姿勢だけではやっていけません。クリスタルボウルは、病気の人を癒やすという一面を持っています。そこを理解しないで、ただ叩いているだけの奏者では、奏者として成り立ちませんよ。」

と、竹村さんが、舞に注意した。水穂さんもそれに続いて、

「音がとれて、作曲もできるというのは確かに有利な点だと思いますが、それを間違った使い方をしてはいけません。使い方を誤るととんでもないことになります。」

と、彼女に言った。

「そうそう。そうなると、双羽黒みたいな、だめ横綱になっちまうぞ。」

杉ちゃんは、彼女に向かってそういった。しかし、彼女は態度を変えなかった。

「あなたこそ、こうして、いつまでも寝ているのはおかしいのではないかしら?こんな立派なピアノだってあるのだし、体がだめでも、演奏に従事するようにしなければだめではないかしら。人に頼ってばかりいないで。」

それと同時に、激しく咳き込む声がした。胸を抑えて倒れ込んだのは水穂さんである。竹村さんが、そうなると胸水がかなり溜まっているのではないかと、言ったが、双羽黒は、バカにしたような顔をした。

「まあ、そこまで弱いのに、よく音楽家として大成したものだわね。あなたは、世間的にも、人間的にも、甘えすぎてるわ。自分でなんとかしようと思わないで、そこまでひどくなるなんて。そんな甘えが通用するもんですか!」

「とにかく、もう横になりましょう。疲れてしまったんですよ。もう薬飲んで休んだほうがいいです。」

竹村さんが、水穂さんの背中を擦ってあげて、そして、枕元にあった水のみを彼の口に突っ込み、中身を飲ませた。そして、体を支えてあげながら、水穂さんを布団に寝かせてやった。それと同時に、水穂さんの体に溜まっていた内容物がぐわっと姿を表して、水穂産の着ていた着物は真っ赤に汚れてしまった。竹村さんは急いでタンスを開けて、着替えを取り出そうとしたが、

「どうしてまた、銘仙ばかり持っているのでしょうね?」

と思わず呟いた。

「まあ、そんな事関係ないから、とにかく着替えを出して着替えさせようぜ。」

と、杉ちゃんがいうので竹村さんは紺色の着物を一枚出した。派手な、葵の葉がおられた銘仙の着物である。それを見て、また、双羽黒の表情が変わった。

「銘仙。私、以前着物のイベントで演奏したことがあるんだけど、出演者が、着物で出たことがあったの。ところが、貧しい人が着る着物をきて音楽するのは何事だと、お客さんに言われたことがあったわ。」

「おう。そういうことだよ。気がついてくれ。銘仙というのは、そういう着物なんだ。貧しい人が着るものだ。」

水穂さんを着替えさせながら、杉ちゃんがでかい声で言った。もう寒いので、着替えも手早くしなければならなかった。意外に寝たきりの病人には、上下が分かれた洋服よりも、日本式の着物の方が、着替えさせやすいのだった。杉ちゃんと竹村さんは、すぐに着物を着替えさせ、兵児帯を締めた。それを双羽黒は、変な目で眺めていた。

「つまり、ひょっとすると、本物?」

「本物も偽物も関係ない。そういう事実なんだ。そういうやつだっているんだよ。同じ大和民族だけど、身分が厳しかったのはお前さんも知っているだろ?士農工商とか、聞いたことがあるか?それより、低い身分とされたやつが居ることも知ってるか?いくら勉強嫌いであっても、それくらいは覚えてるんじゃないかな?」

杉ちゃんに言われて、双羽黒はまた表情を変えた。

「そうなんですね、、、。つまり、この人は、そういうところから来たんですか。」

「もう、何回も説明させないでくれ。銘仙の着物着るってことはそういうことでもあるんだよ。まあ最近は、あまりうるさく言われなくなって来てるけど、着物を愛好する人は、まだ嫌う傾向があるな。」

と、杉ちゃんは、苛立っていった。

「でも、そういう身分の人はピアノなんて弾くことはできないのでは?」

と、双羽黒はまた聞いた。

「だって、ピアノを習うことはただではできないでしょう?」

「ええ、できないでしょうね。」

と、竹村さんが言った。

「だから、できないことをできるようにするために、水穂さんは、体を壊してまで演奏したんだ。結論から言えば、できないことは誰にだってできないさ。それを無理してやろうとするから、体壊したり、精神がおかしくなったりするもんだろ?誰か有名な作曲家でもそういうやつは居るよなあ。安定した、生活を捨てて、音楽の溝沼にハマっちまうやつ。」

杉ちゃんが竹村さんに付け加えるように言った。

「確かに、音楽的には素晴らしいけど、人間的には、変な人であった作曲家は、他にもいるかも知れませんね。」

と、双羽黒は、杉ちゃんに言った。その言葉にはもう先程のバカにしたような言葉はなかった。それと同時に水穂さんを寝かしつけた、竹村さんが、急に立ち上がり、本箱から一冊の楽譜を取り出した。輸入の譜面だが、双羽黒にもなんと書いてあるかすぐ読めた。

「ゴドフスキー。ショパンの主題による53の練習曲、、、。これにチャレンジした人は、二人しかいないって聞いたことがあるわ。全曲やったことがある女性はいないのも聞いたことがあるわよ。」

「まあ、音大行っていれば一度は経験すると思うけど、こういうものをやらないと、水穂さんも、音楽で生計を立てることはできなかったと思うよ。こういうのはある意味、見世物と一緒だからな。こういうすごいことができるってことを、音楽聞かせるより、見せびらかすってことも、やらなきゃいけないからな。」

杉ちゃんに言われて双羽黒は、今は布団に眠ってしまっている水穂さんをみた。確かにとても小さい人だった。それは確かだ。身長は五尺程度しかない。そんな人が確かに、ゴドフスキーの練習曲を弾きこなすのは無理がある。こんな人が、ゴドフスキーの演奏なんかできるものかと思って楽譜を開いて見ると、運指やら音の運び方などが大変細かく丁寧な字で書かれていて、楽譜は音符が見え無いほどになっていた。また、ところどころ血の跡も見られた。そうならなければ、この曲は弾くことができない。音大でもジャイアント馬場くらいの体格が無いと、弾きこなすことはできないと叱られた事があった。それに、この作曲家は、作曲家というより大道芸人とか、ショパンの練習曲を改悪させたとか、そういう不評ばかり聞かされてきた。ラフマニノフの鐘よりはるかに難しいものだ。それをこの人が、やり遂げたとは、、、。

「全ては生活のためだったんですよ。水穂さんがゴドフスキーを弾いたのも、ある意味宿命かもしれませんね。そんなわけですもの、治療なんてできないですよね。だから、僕達も、できる限り彼のそばにいたいし、彼をなんとかしてやりたいと思うんですよね。」

竹村さんは、水穂さんの顔を眺めながら言った。

「クリスタルボウルを叩くというのは、そういうことでもあるんです。人に演奏聞かせるだけじゃない。こういう苦しんできた人を、癒やしてあげるという大事な仕事です。だから、単に演奏を聞かせようとか、そういう仕事と同じにしては困ります。」

「そうそう。竹村さんいいこと言う。」

杉ちゃんもそれに付け加えた。彼女の顔が、少しずつしゃくれていくのがわかった。そしてその顔には涙が光っている。ようやく彼女は双羽黒から、中村舞さんという女性に戻ってくれたようだ。

「そうだったんですか。そういう人が今の日本に居るというのが驚きました。日本人は何でもできて当たり前という気持ちでいましたが、それができない人も居るんですね。ごめんなさい。水穂さん。私、間違っていました。」

舞さんはそう言ってくれたが、もう眠ってしまっている水穂さんは、返事もしなかったし、もちろん彼女の言葉を聞くこともできなかった。

「いや。大丈夫だよ。お前さんがちゃんと謝ってくれたことは、後でしっかり水穂さんに伝えておくから、安心しなさいや。」

杉ちゃんが、そう言ったので、舞さんはぜひお願いしますと言った。そして、改めて竹村さんの方に向き直り、

「ごめんなさい先生。私、音楽は自分のことが何より大事だと思っていましたが、それは大間違いだったんですね。こういう水穂さんのような、どうしても変えられない苦しみに耐えている人に、音楽を届けて癒やしてあげることが目的だったんですね。先生、もう一度私基礎からやり直します。もう一度、私をぶん殴って、私の根性を鍛え治してください。」

と、手をついて懇願した。竹村さんはにこやかに笑って、

「大丈夫ですよ。あなたをぶん殴る事はしませんから、これからはちゃんと、クライエントさんに向き合ってくださいね。」

とだけ言った。杉ちゃんがすぐにこんなことを付け加えた。

「ついでに、お前さんも、僕も、竹村さんも、水穂さんも、みんな誰かの手を借りないといきていけないってことを覚えてほしいね。」

外は寒い風が吹いていた。






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風の吹く前に 増田朋美 @masubuchi4996

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