百合短編

『姫様のいうことには』


 きっかけは夕食の団欒中、娘から投げかけられた一言だった。

 お母さんの初恋って、どんな感じだったの?

 恋愛もののドラマを見ながら、なんとなしに思いついた質問だったのだろう。

 台所で皿洗いをしながら、馬鹿なことを言わないのと軽くあしらう。

 初恋。

 指の合間を水と共に泡が流れてゆく。テレビから聞こえる軽快な笑い声が、懐かしい微笑みと重なる。

 ……やめよう。もう、彼女は過去なのに。

 テレビに目をやれば、空目に違いないのに少女二人が抱き合って笑っている。

追憶は流れる水のように一度流れ出せば簡単には止まらなかった。食器を洗いながら、私はぼんやりと物思いに耽る。


 それは、昔というには新しい絵空事。古めかしい楽園には、おひい様と呼ばれる女の子がいました。高等部の入学式に着ていたお洋服が他の子達とは打って変わってピンクのふりふりだったから、そんな衣装に似合う綺麗な子だったから、みんなはその子をおひい様と呼ぶようになりました。

 和人形の中に一匹だけフランス人形を混ぜたみたいだったわ。そう呟けばみんながうんうんと頷きます。

 天真爛漫で笑顔の可愛いおひい様は、みんなの人気者でした。

 それなのに、おひい様はどうしてか、つまらない私にばかり笑いかけてきたのです。


 どうして、未だ私にかまってくるのだろう。

 おひい様には仲の良い友人くらいいくらでもいる。私よりも可愛い子もいる、私よりも話が面白い子もいる。

 それなのに。

「タマのこと大好き。一緒にいられるだけで楽しいし、幸せなの」

 彼女はそう言って聞かなかった。

 おひい様が私の肩に体をもたらせてくる。柔らかい髪が首元にかかって少しくすぐったかった。

「……髪、伸ばしてたのに切っちゃったよね。でも、ショートも好きだな。しゅっとしてて大人っぽいよ」

 あなたのことを諦めたくて、断ち切りたくて切ったの、なんて口が裂けてもいえない。

 おひい様は二人きりのときにぽつぽつと弱音を吐いた。普段からは想像もつかない姿だったが、私からしてみればそれも彼女の一面だった。

「ごめんね、今日も弱音ばかりで」

 彼女のことは沢山知っていた。明るいところばかりじゃなくて、たまに弱気になるのも。

 こうして、一人で泣くような弱さを隠しているのも。理由は言わず一人耐える強さも。

 私は、自分が彼女のことを一番理解していると思っていた。思いこんでいた。


 私たちの通う学校は、小中高、ひいては付属大学まである私立の学園だった。

 編入生にも関わらず周りとすぐに打ち解けられたおひい様は、まるで初等部からそこにいたかのように周囲の少女たちに馴染んでいる。

教室でのおひい様は、至って真面目な優等生でもあり、友人に囲まれる理想の女子高生でもあり、周囲に可愛がられるお姫様でもある。

「おひい様もこっちおいでよ、お昼一緒に食べよう」

何人かがおひい様に声をかける。彼女と仲の良い子達だ。

ぽんぽんと空席をたたいておいでよと手招きする。

私は、そこが誰の席だったかを知っている。彼女のことを思い出し、つい顔を曇らせてしまった。

「ごめん。ユイ今日はタマと約束してたの」

おひい様は自分のことをユイと呼ぶ。柊木ゆいなだから、ユイ。高校生にもなって一人称が自分の名前なのに、特にそれを咎める人もいなければ、笑う子もいなかった。それがおひい様だったからだ。

「……そうでしょ? タマ」

咄嗟に振られたものだから、反射的に頷いてしまう。声をかけた二人は顔を見合わせて、なら仕方ないね、とくっつけていた三つ目の机を元に戻した。


 中庭は生徒でごった返しているからと、私たちはひと気のない屋上に来た。

「タマに嫌な思いさせたよね」

おひい様が綺麗に整えられた眉を八の字にして言った。

返す言葉がすぐには思い当たらなくて、残り少ないパックの牛乳を一気に飲みきってしまう。中身がなくなっても吸い続けたせいでずぞぞ、と品のない音がでて、パックに描かれた子牛が凹んだ。

「元はと言えば。全部私が悪い」

ストローから口を離す。おひい様が自分のことを名前で呼ばないのは久しぶりで、それに少し驚いた。

「レン、元気? 私が聞いていいのかもわからないけど」

 凄く傷ついてるよ、と言ったらどんな顔をするんだろう。

「元気だよ。ちゃんと課題も出してるし、卒業くらい登校しなくても余裕だって言ってた」

「……そっか、そうだよね。初等部から成績トップだったって言ってたもん」

言葉を一通り吐き出しおえたからか、おひい様も水筒に口をつけた。ほんのり甘い紅茶の匂いが煙と共に漂ってきた。

「タマは、受験しないで附属大学進学?」

「そのつもりだよ。受験勉強する気も起きないし」

 少しだけ、嘘をついた。何も、迷いがないわけではないから。

「そっか、じゃああと五年間は一緒だ」

 このまま目の前にある道をまっすぐ進むだけでいいのかという疑問は、うっすらと私の胸を締め付けていた。

「学校の先生になりたいんだもんね、それなら教育学部もあるしこのまま進学しちゃうのがいいもん」

 一瞬なにを言われているのかわからなくてきょとんとしてしまった。去年、将来の夢の発表でそんなことを言ったっけ。でも、もう今は先生になりたいだなんて微塵も思えない。

 それでも、私はそんなことを今更いう勇気だなんてない。

「……うん、そうだよね」

 曖昧に頷いて、笑うことしかできない。

 おひい様に差し出されたクッキーを一口かじった。舌先に残る粉の部分が、まるで砂のようにこびりつく。

何も考えずに食べていたあの頃に戻りたいと願ってしまうのは、あまりにも我儘なのだろう。

 わざとらしく“彼女”とは関係のない話をして過ごした。平和なようでいて、地雷を避けながら手探りに進んでいく感覚はひどくいたたまれない。

 チャイムがなったとき、私は正直安堵してしまった。

 おひい様が結局空にならなかったクッキーの小箱を持って、小さく呟いた。

 レンがいた頃は、こんなに残らなかったのにね。

 俯いていたおひい様がクッキーの箱を閉じて笑う。無理やり貼り付けたみたいな笑顔だった。


 放課後、先生から呼び出されてその日が火曜日だったことに気づいた。毎週火曜日、私は空っぽの机の彼女に会いにゆく。

 いつも通りインターホンも押さずに門扉(もんぴ)を押す。玄関も案の定解錠されていた。

 無人のような静けさ。だが、彼女はいつだって此処で静かに息をしている。

「……うわ、今週は結構多い」

 彼女––土屋レンはベッドに転がったまま大量のプリントを布団の上にとっちらかした。

「わりと実習多めだったから。その分レポートと課題でどうにかしろって」

「げ、そんなことされなくても私勉強はできるのに、なんで実習いないだけで教師にいじめられなきゃいけないんだか」

「レン頭いいもんね、羨ましい」

 できる方、どころではない。彼女はテストではいつもトップの成績だった。おひい様もよくレンから勉強を教わっていた。半年前までは。

「タマもさ、やりたいことあるならちゃんと目指したほうがいいよ」

 どきりとした。

「いまも、あの子に合わせてるんじゃないの? あなたのやりたいことやらなくて、いいの?」

「私は……そんな、はっきりここの大学いきたいとかもないし。 レンみたいに要領よくないし」

「別に、要領よかったらこんなことにはなってないでしょ」

 冗談めかしたみたいにレンは笑ったけど、その目は笑っていなかった。一気に夜の暗さが増した気がした。

電気もつけない五畳半の薄暗さが彼女の瞳を陰らせた。カーテンがやんわりと揺れて、開いた窓から生ぬるい夜の空気が部屋を満たしてゆく。

「みんなもう気にしてないよ。おひい様だって会いたがって……」

「–––そんなわけ、ないじゃない」

 彼女の“事情”には触れないつもりでいた、私まで彼女を苛んでしまえば、最後の砦のようなこの部屋まで侵してしまう気がした。

 きっと、このときばかりは夏の暑さが私たちを狂わせてしまった。

 ぐしゃり、とプリントがつぶれる音がした。長い前髪に隠れてしまった彼女の目からは、心情めいたものが読み取れなかった。

 レンは、私の知る限りはこんな目をする子ではなかった。

「ごめん、今日はもう帰って。来週には、きっといつも通りになってるから……お願い」

 背を向けて座り込んでしまったレンにかけられる言葉を私は知らなかった。床においた鞄を持ち上げ、足を動かす感覚もないまま玄関を出る。家を出る寸前、静寂に混じった小さすぎる嗚咽は、玄関の向こうにあったセミの鳴き声に瞬く間にかき消された。

 日中の彼女の笑顔が蘇る。おひい様なら、一体彼女にどんな言葉をかけたのだろう。

 小さくかぶりを振る。

ああ、これだから、恋だなんてするもんじゃない。

 

「タマ、頑張って!」

 遠くからおひい様の声が聞こえてハッとした。

「タマ……玉櫛さんの下の名前ってなんだっけ」

 彼女の周囲にいた子がぼそっと呟いた。人に何かを言われているだけでドキドキする。心を空にしたいのに、一度気にすると無関心ではいられなくなる。

「えぇ、クラスメイトの名前くらい覚えときなよ……私もわかんないけど」

くすくすと笑い声。全部、聞こえてるんだけどなあ。

 体育は嫌いなのに、身長があるからという理由だけでバスケでもバレーでも前に出される。今日の授業もそうだ。本当ならバスケ部の子が出るはずだったのに今日に限って運悪く欠席している。

 二クラス合同の体育でチーム分けをされて練習のトーナメント、その決勝に駆り出された。

「玉櫛さんッ」

 同じピンク色のビブスを着た子から声がかかる。何人かに囲まれているようだ。

 目が合うや否や、ボールが飛んでくる。周りには、青いビブスを着た子が一人。目の前にはゴールネット。

「上がって!」

 鋭い声。バスケ部の子から命令にも近い指示が飛んだ。デジタルのスポーツタイマーに映し出されているのは、01:18

 あと一分。戦況はゼロ対ゼロ。膠着状態のままずるずると時間だけが過ぎていったからだ。千載一遇のチャンスが訪れたことになるが、それを託されたのが飛び入り参加の私だなんて、とんだ悪運だ。

 ドリブルで前に出るもすぐに行手を阻まれる。ゴールネットの真下まで、あと十数歩程度の距離。

「投げて!」

 また鋭い声が矢のように飛んでくる。そんなに投げたきゃ自分で持ってくればよかったのに。

 反射的に投げたボールがネットに入る、なんてこともなく、ボールはゴールの角にぶつかり鈍い音を立てて跳ね返ってきた。

 ボールに反射的に手が伸びたのが悪かった。後ろ姿の青いビブスが目の前に迫っていて、気づいたら床に体を打ち付けていた。

「タマっ」

 鼻がつんとして、嗅覚が遠のいてゆく。口元にかけてたらりと何かが流れる。汗か鼻水だと思っていたのに、重い腕をあげて拭うと赤かった。

 けたたましいホイッスル。視界もぼんやりする。目を瞑ってしまえば、顔を伝うのが血なのか汗なのかもわからなくなってきた。

「大丈夫? ユイの声、聞こえる? しっかりして、タマ、タマ!」

 駆け寄ってきたおひい様の声すら、近いはずなのに一枚壁を挟んだみたいに聞こえる。

 遅れて駆け寄ってきた先生が何か指示を飛ばしているのを見て、ことが大きくなってしまっていることに気づく。

 大丈夫です。

 そう弁明しようにも、だの字すらなまったみたいな声しか出なかった。

 おかしい、呂律が回らないなんて。

 騒ぎが大きくなってゆけばゆくほど、天井が遠くなっていくような感覚に陥る。

 せめて起きあがろうとしても、でんぐり返しをしたみたいに視界がぐるぐるして、時折もざいくがかってしまう。

 柔らかいものに支えられる。というより、もつれて倒れたのだろう。体をどかそうにも、自分の体ではないみたいに動かない。

「め、ちゃ……目……て、あ……しよう」 

 優しい匂いがした。

 この匂いを嗅ぐと、少しだけ安心したり、もう少しだけ頑張ってもいいかなって思えたっけ。それは、この匂いが、まぎれもなくあなたのものだからだった。

 

ずっと、掃除の時間が嫌いだった。あるいは、みんなで何かする時間が嫌いだった。

みんなでやりなさい、と言われてもみんなが平等に動くわけではない。私は掃除のたびにゴミ捨てをさせられていた。させられていた、というよりかは、私がやるのが当たり前のようになっていたのかもしれない。

私は対人関係が不得意だったから、それに冗談の通じない退屈な性格のせいもあったかもしれない。

ゴミ捨てにいくたびに気が滅入っていた。ゴミ捨て場の近くにある焼却炉がどこか苦手だった。たまに立ち上っている煙や出立ちの不気味さがどうにも苦手だった。

「あははッ」

 いつも薄暗いそこには似つかわしくない笑い声が聞こえて、私はふと顔をあげた。

 そこには、いつもどこかしらで取り沙汰されている少女がいた。周りには友人。

 どうやら、じゃんけんで負けてゴミ捨てを任されたらしい。

 熊手を友人に渡した彼女が両手にゴミ袋をもってこちらに駆けてくる。それは私が入学式以降、二回目に見たおひい様だった。自分と同じように制服を着ているのがどこか変な感じだったのを覚えている。

「あ!」

 立ち止まり、おひい様もこちらをしげしげと見つめた。

「あなたも、編入生の子でしょう!」

「う、うん。そう」

 私もまた、彼女と同じ編入生だった。彼女とは違い、周囲と馴染めなかった。編入生の数は少なかった。うまく入り込む隙を見つけて友人を作る子、見つけられず、もしくは見つけずに一人で過ごす子。大方その二種類に落ち着く。私は紛れもない後者だった。

「よかった。私ね、他の編入生の子とも話してみたくて……」

 彼女の視線が私の奥へ行って、そして止まった。私も後ろを振り向く、焼却炉のほうに一人の少女がいた。

「ねえ、あなた何をしてるの!」

 彼女が大きな声を出すと向こうも気づいたらしくこちらを向いた。それが、私とおひい様、そしてレンの出会いだった。 

 その場所は私たち三人にとって、出会いと別れ、両方の象徴になる。



 遠くから冷気を感じて、瞼に眩しさを感じる。不快な眩しさではない。開ければ、その先になにかがあることがわかるような、温かみのある眩しさ。

 何度か目をあけて、乾いた目で何度か瞬きをした。

「……あ」

 一瞬、それが誰だか気づかなかった。彼女は、長く伸ばした髪を結ぶことは半年前から今までなかったから。

 ポニーテールになっているおひい様の頭が小さく揺れた。どうやら彼女もそばで眠っていたらしい。

「タマ! 大丈夫?」

 周りを見渡すと、とりあえず病院ではないようで一安心した。ここは、保健室か。

「あれから、あなた保健室までどうにか歩いて来たの。それで、もうすぐお母さんがタマを迎えにくるって」

「かみ」

「髪……ああ、これ? 今は、タマしかいないしいいかなと思って」

 頬にかかっていた触覚の部分を耳にかけると、そこには真っ直ぐな切り傷の跡が残っている。

 私と、レンと、おひい様。三人の間に入った亀裂。未だ残っている傷跡が埋まる日は来るのだろうか、そんな詮無いことを今更考えてしまう。

「誰にも、何にも気にしないで欲しいのに。そうはしてくれないみたい」

 彼女の火傷は、私のせいでもあったのではないかと思う。

 彼女は、持ってこられた私の荷物から水筒を取り出してくれた。麦茶の甘味が妙にすっと流れてゆく。

「……変だよね、私がもういいんだって言ってるのに」

 芯の強い少女だったのに、声だけは震えていた。

 自分のことしか見えていなかった。私がつけた傷でもある

 彼女がこれだけ傷ついているのに、私にできる贖罪がなんなのか。いくら考えどわからなかった。

「私、私ね。貴方が、タマまでいなくなったら、どうすればいいのかわからない……」

 近くにいても、彼女の傷は深まるばかりに違いない。

 彼女がわっと泣き出した。 

 

 レンがおひい様が好きなのだと打ち明けたとき、そうだろうな、と心のどこかで納得したのを覚えている。

 彼女の容姿や明るい性格に惹かれる子は多い。みんなに心を開き、みんなに分け隔てない。でも私とレンは、ほんの少しだけ、みんなの先にいた。それを誇らしくすら思ったし、おひい様と他の子が仲良くしていればそれに嫉妬することだって時にはあった。

 三人でずっと一緒にいたいね、なんて言われた時、私の心が少しだけ傷んだのは、きっと私もレンと同じで、“そういうこと”だったのだと思う。

 告白するの、と言葉を続けてからレンは黙り込んだ。今思えば、それは意思表明でもあって、宣戦布告でもあった。

 そのときの私には、頷くことしかできなかった。今以上に弱くて意気地なしだった。

 珍しくひと気のない夕方の中庭。ただ、後ろから二人を見守っていた。

 初めて三人が出会ったあのとき、レンは自分の書いた小説を捨てようとしていたのだという。

 勉強こそできても、本当にしたいことにおいては鳴かず飛ばず。書きたいものが上手いように書けず、苦労の詰まった作文用紙数十枚をまとめて燃やしてしまおうとしていた。

 それを止めたのがおひい様だった。

 今思っても奇妙な巡り合わせだったと思う。少しの誤差さえあれば、私たち三人は出会わなかった。

 出会わなければよかったのに。心底、そう思った。

 二人の表情も見たくなかった、声も届いてほしくなかった。ただ地面を見つめて感情を押し殺そうとした。

 じわり、じわりと涙が視界を侵食してゆく。

 ぽたり、と一滴が落ちた時、悲鳴が夕方の静寂を切り裂いた。

 はっと顔を上げると、目の前にいた二人はいない。どこかへ移動したのか、この近くにあって、二人が行きそうな場所といえば一箇所しかないと思った。

 思惑通り、三人が初めて出会った場所、焼却炉のあるゴミ捨て場––––中庭のさらに奥に二人はいた。

二人が屈み抱き合っていた、ように見えた。

 何かがおかしいことにはすぐに気づいた。おひい様が、顔を覆い崩れ落ちていた。彼女はひどく狼狽したように泣いていた。

私はすぐに駆け寄った。レンは唖然として身動き一つ取れないようだった。

 雑草の上には何かの燃えかすがあちこちに散らばっていた。

 あとから聞いた話によれば、レンは自分の書いたおひい様への手紙を激情のままに燃やしてしまおうとしたのだという。

 運悪く、周囲には教師も用務員もいなかった。ほんの少し目を離した瞬間、その一瞬に起こってしまったこと、不運な事故だった。到底、そんな一言で片付けられやしないけど。


 おひい様が私を抱きしめた。頬の火傷は今もなお痛々しい。過程までの全てが哀れで、抱きしめ返したくなる愛おしさだった。

 でも、そうはしなかった。できなかった。

「……私、汗臭いでしょ。着替えてすらいないし」

「臭くなんてない。それに、離したくない」

 抱きしめる力が強くなった。自分勝手でありながら自分本位じゃないところが好きだった。離して欲しかった。これ以上好きになりたくなかった。

「じゃあ、どうしてレンをつき離したの」

 彼女は何も悪くない。それなのに、そんな意地悪を言わなければきっと離してくれないと思った。

「高校を出たら、婚約するの」

 自分の醜さを濾過したみたいな汗の匂いが、いっそう強く感じられた気がした。

 惨めさ、愚かさ。自分自身の全てが、自分に痛みとして帰ってきた。そんな心地だった。

「小さい頃から、そう決められてたの」

 おひい様は、本当におひい様だった。なんの自由もないから、不自由な自由を謳歌しているだけの、幼い少女だった。

 見たこともない、会うこともない人間に彼女はいつか攫われてしまう。

「すごく、いい人なの。顔を火傷していても、いいって」

 異世界の出来事みたいだと思った。

 彼女は、逃げ場も友人も一気に失ったのだとそのとき初めて知った。

 私に縋りたくなる気持ちが、いまさら理解できた。二人きりのときに泣きなくなる悲しみが、ようやく理解った。

「そう、なんだ」 

「うん。そうなの」

 彼女の体が離れる。それは、淡い拒絶だった。

 全てを諦めているからこその言葉だったのだろう。でも、嘘でもいいから。後から冗談だよって笑ってもいいから。

「私もね、実は、エスカレーターで大学に進まずに、受験しようと思ってる」

「そうなんだ、タマもレンと同じように頑張るんだね」

「……うん、やりたいこと、これから見つけるから。だから、このまま此処にはいない」

「じゃあみんな、離れ離れだ」

 おひい様は笑った。嬉しいのか、悲しいのか、気持ちを隠しているのか、私にはわからなかった。

 たぶん私は、連れ出してって、彼女に言って欲しかった。童話のお姫様みたいに、私は立派な王子様にはなれないかもしれないけど。それでも、すがって欲しかった。

 ……今思っても、子供っぽい妄想だけど。

 暗い涙で潤んだ目で私に笑いかけないで欲しかった。その奥の心を勘ぐってしまいそうになるから。ならいっそ、言葉にしてほしかった。

「ごめんね、ひめちゃん」

名前で呼ばないでほしかった。

 ただの玉櫛さんやタマでいたかった。彼女にとって、意味のある一個人になんてなりたくなかった。

 私から、静かに彼女を抱きしめた。どちらともなく、声をあげて泣き出した。

 優しい匂いが鼻詰まりの奥まで薫ってきた。ほんの少し、触れる程度に彼女の頬に口付けるとしょっぱい味がした。

 それは、人生で初めての恋だった。

 それが、人生で初めての失恋だった。


 彼女は、自身が私––玉櫛姫乃の名前を奪ってしまっているのではないかと心配していた。

「自分の名前、嫌いなの?」

「……嫌いだよ。こんなにいかつくて姫乃だんて、似合わないし。おひい様に私の名前あげちゃいたい」

 そんなことないのになあ、と彼女は唇をとがらした。

「じゃあ、タマが、自分の名前好きになれるようにユイがたくさん呼んであげる!」

「恥ずかしいから、二人きりのときにしてね」

「ふふ、仕方ないなぁ」

––––ひめちゃん。

そう呼んでくれた彼女の優しい姿は、今でもたまに夢に見る。

 きっともう、私が結婚して玉櫛ではなくなったように、彼女はおひい様ではないのだろう。恋の魔法はもうとっくにとけているに違いない。

 それでも、私は夢におひい様を視てしまう。かつての初恋を見てしまう。


「ね〜、お母さんの初恋相手はどんな人? 今はお父さんもいないんだし、教えてよぅ」

 エプロンを引っ張りせがんでくる。娘は私に似ず好奇心旺盛だった。

 でたらめを言って誤魔化そうと思ったのに。彼女のきらきらと輝く目を見ていると、上手な嘘をつける気がしなかった。

「わがままだったけど、とても優しい人だった」

「俺様系ってこと? かっこよかった? お母さんよりも身長高かった?」

「もう、質問が多いなあ……」

 少し考え込んでから、私は答える。

「お母さんにとって、お姫様みたいな人だった」




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Cat Pool @TUKISHIRO3

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