Cat Pool
@TUKISHIRO3
Peace of Cat
なんとなく、予感はしていた。猫好きという彼なら来てもおかしくはないと思っていた。でも、せいぜい客としてだろうと楽観視していたのだ。
「……初めまして、今日から入ることになった三毛です」
「あ〜。どうも、柴田です」
猫背のまま気怠げに頭を下げた彼は怪訝な視線に気づいたのか顔を僅かに曇らせた。
Peace Of Cat
略してPOC。
俺のバイト先であり、万事にゃんとかなるがコンセプトのゆるっとした雰囲気の猫カフェ。その反面、アルバイト含め職員が四人しかいない過酷な職場である。
そんな忙しいながらも穏やかな俺の日常が立ち行かなくなったのは、にゃんとかならなくなったのはアイツが来てからである。
奴–––三毛について知ったキッカケは、同じクラスのポメが数ヶ月前から彼について愚痴るようになったからだった。曰く、愛想ナシ連絡ナシろくでなし。その上向こうから振ってきたという点にポメは御立腹だった。
ちなみに、ポメというのはもちろんあだ名だ。
留目ミサキ。派手な見た目と留目という苗字も相まって周囲からポメと呼ばれている。
いつも周囲の中心にいて、目立つのが大好きな女子高生。普通に話す分には楽しいけど、偶に面倒くさい。
だから、三毛と付き合うと聞いた時、飲んでいた麦茶を吹き出しそうになった。ポメが彼氏を作るのは何も珍しいことではないのだが。それはどちらかといえばよくある出来事で、また同じように別れることもしばしば。
もちろんポメの性格にも問題はあるんだろうけど、ポメは壊滅的に男を見る目がなかった。だから似たり寄ったりの色恋沙汰を繰り返していたのに。
一体どんな風の吹き回しだろうと思った。三毛はノッポな猫背の男子。隣の県の片田舎から越してきたことで一時期学年でも話題になったけど、新学期というごたごたした季節に入ってきたこともあってすぐに話題から立ち消えた。
彼は一時期でも話題に登ったのが不思議なくらい影の薄い奴だった。そんな彼にポメが惚れた理由としては自分を引っ掻いた野良猫を容易く手懐けていたから、らしい。
惚れっぽいポメらしいと思った。
「店長が仕事については柴田さんに教えてもらえって言っていたんですけど」
自己紹介をしたきり死んだ目のまま黙っていた三毛がようやく口を開いた。
「……そっか。わかった」
「僕と、柴田さんが同じ高校だからと言っていました」
「そ、俺は隣のB組なんだ。だからもっと砕けた口調でもいいよ。タメだしさ」
「いえ、あくまでも仕事中なので結構です」
愛想がない、そして硬い。本当にコイツは同級生なのか……?
他の男と比べて長続きはしたもののミサキと破局した理由がわかった気がした。
「へ〜、面白い組み合わせじゃん。じゃあこれから一緒に働くんだ?」
席の近い友人のアキタに昨日のことを愚痴っていると、ケラケラと笑われてしまった。
「微塵も面白くねえよ。ちょ〜っと休憩しようとしただけですぐ文句言われるし」
「そりゃあんたが悪いねえ。まあ頑張りなよ」
女子にしては大きな腕で俺の肩をバンバンと叩いた。ソフトバレー部のエースでもあるアキタの体躯は後ろ姿だけなら男子に見間違われるくらい大きい。
「でも、ポメにはそのこと言わないほうがいいかも、頭に血が上りやすい子だから」
アキタもポメと仲が良いものの、どこか一線を引いて接している感じがあった。そういうところも含めて信頼できるやつだと俺は思っている。
「わかってる、俺だって修羅場見たくないし」
「なになに、私の話?」
俺の制服に長い茶髪がかかり飛び上がりそうになった。
「うあっ」
たまらず声をあげると後ろにポメがいた。相変わらず目が大きいしキラキラしてる。さっきまで教室から出ていたのにいつの間にか戻ってきていたらしい。
「そんなに驚くことなくない? シバきも〜」
「そりゃ後ろに立たれたら誰でもビビるだろ!」
「へ〜。で、何の話してたの?」
「バイトのことだよ」
口ごもる俺にアキタが助け舟を出してくれた。
「あはは、シバ愛想なさそうなのにバイトなんかできるの〜?」
「ポメはアパレル店員だもんね」
アキタとポメはショッピングモールで働いているから、休日出くわすことも多いらしい。
ちなみにアキタはソフトクリーム屋さんで働いている。
「シバ、バイト決まってないなら紹介したげよっか。面接の時点で落ちるだろうけど!」
ポメにぽんぽんと背中を叩かれる。若干香水のいい匂いが漂ってくるのが嫌だった、
「うるせえ、余計なお世話だ」
後ろで話を聞いていたポメの取り巻きたちもクスクス笑っている。今に笑っときゃいいんだ。俺のバイト先にいるのはどんな人間も骨抜きにする天使たちなんだからな。
シバ、顔赤いよ〜という声を背に俺は拳を握りしめた。
* * *
「キクラゲは毛艶がいいな〜。よしよし、っておい! 引っ掻かないでくれよ」
爪切りは定期的にしているので引っ掻かれても痛みはないが、若干ショックである。キクラゲは低い声で唸り、毛繕いを再開した。長毛種のキクラゲは店随一の美猫であり、お客さんからも人気がある。
「毛繕い中に撫でられたらどんな猫でも嫌がります」
後ろから声をかけられてどきっとする。振り向くと仏頂面の三毛がいた。
「うわっ、びっくりした……えっと、三毛さんには猫砂の交換頼みましたよね」
キクラゲが早々に俺の元を離れて三毛のところへいく。
くそぅ、店に通いこんでやっと抱っこも許してくれるようになった高嶺の猫だったのに…!
「終わりました。で、次は何をすればいいですか?」
野良猫以上に愛想のないやつだ。それなのに妙に猫には懐かれるんだよなあ、こいつ。
今も足元にはキクラゲがまとわりついてるし。他の猫たちも妙に三毛には心を開いている。
「ええ、じゃあ……」
「ようよう少年たち、元気にやっとるかい〜?」
どら猫みたいに恰幅のいい店長がお腹をタプタプさせながらやってきた。
「お疲れ様です、マダラさん」
無愛想で初回以来俺には頭も下げないミケが店長に会釈した。
「欠瑠(かける)くん、此処での生活は慣れたかい? 必要なものとかあればいつでも言ってくれていいからね」
欠瑠は三毛の下の名前だ。新しいバイトをあまり入れたがらなかった店長がコイツを受け入れたのは、三毛の両親と古くからの知己だったのが理由らしい。
「ありがとうございます。でも、必要なものはアパートから全部持ってきたので大丈夫です」
店長は鷹揚な性格だが、そう簡単に他人を懐にいれるような人ではない。
それが、此処にバイトとして入れただけでなく、アパートを引き払わせて二階の空き部屋まで提供しているというから驚いた。
俺は客としてこの猫カフェに通い詰めたことでスカウトしてもらったのに、面識があるというのは何とも羨ましい。
「ああ、そうだそうだ。それよりも良い出会いはあったのかい? お前さん、そろそろやばいだろ?」
出会い!? ぎょっとした。しっぽを踏まれた猫なみにぎょっとした。それでも二人は特に意に介した様子を見せない。俺のことは完全に無視か。
「もういいんです。それに、僕をここで雇ってくれたのもそういうことじゃないんですか」
「……三毛さん、彼女とか欲しいんですか?」
ポメは内面はともかく外面はいいのに。そんな彼女で駄目とは一体コイツはどんなハイレベルJKを求めて都会に来たんだ。
「そうだなぁ。まあ、そういうことになるな。お前、もしいい女知ってたら紹介してやってくれ。こいつの将来に、人生に関わるんだ」
店長が神妙な顔で俺の肩を掴んだ。なんだこの妙な熱気は。別に彼女がいない男子高校生でもいいじゃないか。別に彼女がいなくても幸せな人生は築けるだろう。今まで彼女ゼロの俺がいうからこそ説得力を増す台詞である。
「ちょっとマダラさん! 関係ない人に余計なことを言うのやめてください…実家のことももう話したくないんです」
三毛の顔は真っ赤だ。何なら耳まで赤い。
そんなに自分の欲望を俺に知られたのが恥ずかしかったのか。意外と可愛いところもあるじゃないか。初めて、三毛の人間らしい一面を見た気がして俺はほんの少し微笑ましくなった。
「とんでもない田舎なんだろうなあ。三毛の産地だもんなあ」
休み時間、俺は昨日の出来事を例の如くアキタに話していた。
「田舎なんてねえ、色々あるものよ。色々あってなんぼよ」
三毛の愚痴には飽きてきたのか課題の片手間にアキタは相槌を打った。
「知ってマス! 田舎、インシューいっぱい!」
俺たちの会話を聞いていたのか、近くの席のテリアがにこにこで話に乗っかってきた。
口調の通り彼は外国人、この学校唯一の留学生だ。日本人で初めて仲良くなったのが掲示板のヲタクだったこともあって、彼の知識と日本語はかなり偏っている。
だが、彼のマイペースさと奔放さは許されて然るべきもの。なぜなら顔がいいから。
英国人のヨーク君。テリアというのはヨークシャーテリアからとったあだ名だ。
ふわふわの天然金髪は日本ではかなり目立つし、クリクリの目がかわいい童顔は女子人気がすこぶる高い。故に彼を推している女子は多い。
……元々テリア推しの女子の間で隠語として使われていたあだ名がテリアでそれが周知れて今に至ったなんて裏話もあるが、今はその話はいいだろう。
「因習、ねえ」
「ありそうではあるよね。ていうか三毛くんの実家ってどこよ?」
「長野じゃねえのか?」
「ヤマナシ、と人伝てに聞きましタ!」
「私群馬だと思ってた」
まるで噛み合わない意見にしばし沈黙が流れた。
「……ちょっと気になるかも、シバ、三毛くんがどこ出身なのか聞いてみてよ」
「はーー!? 本気で言ってんのか。俺とアイツの仲だぞ!?」
「私とシバの仲でしょ? いいじゃない、軽く聞くくらい」
「ボクも気になりマス! 誘拐婚! 人柱! カーニバルリズム!」
確かにそういうアブノーマルな単語の羅列はしっくりくる。なんせあの冷徹な三毛である。
「テリアはほんとに都市伝説好きなのね……」
アキタが若干引き気味に苦笑した。確かに普段のぽわぽわした彼からは想像しにくい熱量である。
「ニホンの田舎、ホラーの宝庫デス! 是非、ゼヒとも、聞いてきて下サレ!」
きらきらくりくりの瞳で懇願されれば断れるはずもなく。俺はついに頷いてしまった。
さすが女子人気上位。男相手にもその魔力は有効らしい。
–––何もかも、偶然の巡り合わせの連続だったのだろう。色々な意図が偶然絡まっただけなのだと思う。映画のように、物語のように。
そうでなければ、俺と三毛が普通に話すなんて展開はありえなかった。
「ちょっと、あなた何様のつもりなのよ!」
出勤前の着替え途中のこと、女性の罵声がスタッフ用の休憩室にまで響いてきた。
「いや、そちらのお子様がくるみの首根っこ掴んで押さえつけていたんですよね。そりゃあ苦しくて抵抗もします。入店前に注意事項は説明した筈ですけど」
休憩室から店に出ると猫が椅子の下で震えているのが見えた。
「くるみちゃん……?」
POCで一番人懐っこい猫、くるみだ。こんなにも怯えている姿は見たことがない。手を差し伸べただけで鋭い威嚇で拒絶され、これは只事ではないと気づいた。
「……どうさないましたか?」
すぐに騒動の中心である三人の元へ聴取すべく近づいた。猫たちもこの店の大切なキャストである。店員たるもの絶対に守らなくてはいけない。たかが高校生の俺にも、猫カフェ店員としてそれくらいの矜持はあるのだ。
「あなたもここの店員さんなの? ここ若い人ばっかりなのね。本当に大丈夫なわけ? 猫の命預かる仕事でしょう?」
「はい、僕らの仕事はお客様への応対が主なので」
口からでまかせである。だが、馬鹿正直に猫の世話をしてますといえば、また文句を言われるのはわかっている。
「それすらできない人がいるみただけど?」
「……すみません。失礼ながら何があったのか教えていただけますか?」
「うちの子どもが猫を抱っこしようとしたらその人が怒り出したのよ」
「申し訳ないのですが猫ちゃんは抱っこを嫌がる子も多いので、遠慮していただけるとありがたいです。お子様にお怪我はありませんでしたか?」
「柴田さん、でもその人が」
「三毛くん。今はいいから。ね」
三毛を笑顔で制する。
何か彼にも弁明があるのはわかるが、今はぐっと堪えてもらえないと困る。せっかく丸く収まりそうな方向に進んでいるのだから。
「ううん、けがはしてないよ。でもあの猫、シャーってして怖かった」
女性の影に隠れていた小さな男の子が話し出した。
「そっか、ごめんね。でも、君もいきなり知らない人に触られると怖いようにね、猫ちゃんもいきなり触られると怖いんだ」
男の子はハッとしたように未だ怯えているくるみを見て、しゅんと項垂れた。
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ、あの猫ちゃんはとっても優しいから。今度はそっと触ってあげたらきっと仲良くなれるよ……奥様の方も、お怪我はなかったですか?」
「え、ええ。大丈夫ですけど」
鳩が豆鉄砲くらったような顔に俺は少し上機嫌になった。俺だってやればできるのである。乱れがちな猫社会の統括だけではなく、困ったお客様の対応までが俺たちの仕事だ。
「よ〜やってくれたねえ。流石は天邪鬼柴田!」
後からことの顛末を聞いた店長は、相変わらずニコニコしていた。
「……いや変なあだ名付けるのやめてくださいって」
「いやあ。だって君機嫌悪いときほどニコニコするじゃない。やっぱり接客では役に立つよそれ」
飲んだくれ店長に一度だけ苦言を呈したことがある。俺が笑顔で怒っていたからと店長はそれからことあるごとに天邪鬼柴田といって揶揄ってくる。曰く、怖くて飲んだ酒全部ちびりそうだったよ、とのことらしい。
「そりゃ、否めませんけども」
監視カメラと三毛の話を照合した結果、やはりあの親子が黒だった。抱っこを嫌がるくるみの首根っこを母親が無理やり押さえつけていたのだ。逃げられずにもがいているくるみの姿はあまりに可哀想だった。
「抱っこ嫌がる子をまとめたポスターとか、作った方がいいですかね」
「そうだなあ。いろんなお客さんが増えてきたから。なあ、三毛くん」
心ここにあらずといった様子の三毛が、自分の名前を呼ばれたところでようやく顔を上げた。いつも目は死んでいるし表情も暗いが、今は一段と曇っているように見えた。
「あ……えっと。すみません、ぼーっとしていて聞いてなかったです」
「抱っこ嫌がる子もいるからさ、そういう子たちのリスト作って掲示しようと思うんだよ。君にならできるだろう?」
「そう、ですね。いいと思います」
先程のことが相当堪えたのか。無愛想なのを今更気にしてもしょうがないだろうに。
POCの猫談義に花を咲かせる俺と店長をよそに三毛は無言のままだった。そんな三毛の膝の上では、調子を取り戻したくるみがすやすやと眠っていた。くるみちゃんは滅多に膝になんか乗らないのに。
まったく憎たらしい……そして、羨ましい。
俺たちは高校生だから九時半までには帰してもらえる。休憩室の中では秒針を刻む音と、二人分の衣ずれの音だけがあった。一足先に制服に着替え終わった俺はそそくさと休憩室を出て行こうとする。
「お疲れ様です、お先に失礼しますね」
「…………」
無視か。つい笑顔も引き攣ってしまう。そんなに俺に助け舟出されたことが気に食わなかったのか。
返答を待っていても来るはずない。だって三毛だもの。
俺は扉に手を掛け。たところで、後ろから手が伸びてきた。突然大きな手に腕を掴まれて心臓が跳ねるかと思った。
「ちょっと、待って」
真後ろに180cmの長身。若干怖い。
「何?」
そういえば、三毛のタメ口は初めて聞いたかもしれない。
「その、昼間のお客さん」
俯いたまま三毛はボソボソしゃべっている。
「ありがとうございました……それだけです。引き止めてすみませんでした」
三毛の腕がすっと離れた。一気に体の力が抜けてゆく。
「三毛さん、お礼なんて言えたんだ」
咄嗟に出てしまった言葉に急いで口元を抑えるがばっちり聞こえていただろう。
軽口のつもりだったがこの世には冗談の通じない奴もいる。三毛に、冗談なんて通じるわけない。
「あ、いや……悪気はない、んですけど」
無言。怒らせてしまったのかもしれない。冗談言うなんて悪手でしかなかった。
恐る恐る見上げると、三毛は顔から耳まで真っ赤にしていた。わっと罪悪感が押し寄せてくる。無愛想で仏頂面の三毛なりに頑張ったのだと伝わってきた。
「わ〜! 本当に悪かった、悪かったよ。すみませんでした!」
若干涙ぐんでいるようにも見える。こんなにもメンタルの弱い奴だったのか。それとも、今は弱っているだけなのか。
「口下手でだからうまいこと人とも話せなくて。全部、僕が悪いんです」
確かに、接客には難ありだ。接客業は愛想が命なのに、店長もよくこいつを入れたものだと思う。でも。
「……でも、見捨てないでくれると嬉しいです」
今日の一件で、こいつは本当に猫が好きだということだけはしっかり伝わってきた。
「バイト同士に見捨てるも何もないでしょ」
俺が笑うと、三毛も少しだけ表情を和らげた。
「明日からも、よろしくお願いします」
三毛をきちんと知ろうともせず毛嫌いしていたことを少し反省した。ポメの愚痴に毒されすぎていたのかもしれないと思いながら、俺は帰路に着こうとして。
『柴、三毛くんがどこ出身なのか聞いてきてよ』
ふとアキタの言葉を思い出した。
別に今すぐ聞く必要はなかったかもしれないけど、今日の三毛はそこそこ話しやすかったから。
……よし、バスが来る時間まで少し余裕もある。
俺は一度店に引き返すことにした。
どうせ店長はバックヤードで酒でも飲んでいるのだろう。裏口に鍵はかかっていないはずだ。
三毛は、まだいるだろうか。
よし、鍵はかかっていない。重い裏口の扉を開けたところで誰かの話し声が聞こえた。
多分、三毛と店長が話しているのだろう。
「ほらね、やっぱり欠瑠くん限界きてるんじゃないか」
少し機嫌の悪そうな店長の声。休憩室の扉を開けるのを少し躊躇う。
「やる気だしなさいよもっと、じゃないと」
間延びした声。店長、酔って三毛にダル絡みしているのではなかろうか。
「すいません! 忘れ物しちゃっ」
俺は、助け舟を出してやるつもりだった。
扉の先。休憩室には店長と、一匹の三毛猫がいるだけだった。店長、ついにおかしくなってしまったのかと俺は青ざめる。
「……たんですけどまた明日取りに来ます! ごゆっくり!」
「待ちな柴田くん」
呼び止められ、たまらず立ち止まってしまった。ああ、俺はどうなってしまうのだろう。というか休憩室にまで猫を連れ込むなと小言をいってやりたいくらいだが。
「やっぱり、彼くらいには話しておくべきだよ」
にゃあ! 三毛猫が大きく鳴いた。あれ、店唯一の三毛猫のゲンはこんな鳴き方しない。もっと低い声だ。
振り返ると、見覚えのない若い三毛猫が休憩用の椅子の上に座っていた。
「嫌、じゃあないでしょうよ、君ねぇ、このままで本当にいいと思っているのかい?」
三毛猫は座っていた椅子から降りて、机の下の隙間に入ってしまった。
「あの、それ誰ですか?」
「……もういいよ、老婆心で店長話しちゃうからね。君その姿じゃ何もできないもんね、三毛くん」
三毛猫の背中が小さく震えた。
「三毛?」
「そうだよ、この子は三毛くんだ」
「人間の? 欠瑠?」
「そう、その欠瑠だね」
「……ふざけてます?」
「ふざけちゃいねえんだな、これが。俺の顔が赤くない時点でわかるだろう。酔ってない俺は冗談なんか言わないのさ」
確かにそうだ。納得のいかないまま、こくりと頷く。
「あれを見な」
床には無造作に服が落ちていた。脱ぎ散らかしたような感じではない。まるで、中からそのまま人を抜き取ったような……。
ブレザーを漁ると三毛の生徒手帳が出てきた。
「あ、これ。ていうことは、三毛の制服……?」
今度は店長が黙って頷いた。
「じゃあ本当に、あれが三毛なんですね」
猫が困ったようにうぅ……と鳴いた。ただでさえ気持ちの汲み取りにくい三毛。更に猫になんてなってしまえば今彼が何を伝えたいのか、俺には測れなかった。
詳しい地名は教えてもらなかったから、仮にA村としよう。
店長の話してくれたことは実際に見ていなければ眉唾物でしかなくて。普段の俺ならまた酔っているのかと笑って一蹴していただろう。
だが、やはり俯いたまま所在なげに机の下で鳴く三毛を見ると、そう邪険にはできなかった。
コンビニまで歩いて一時間。数時間に一本だけの駅に向かうバスも夕方以降は運行していなから下手に身動きも取れない。そんな田舎で、三毛は細々と暮らしていたらしい。
三毛の体質……猫になってしまうという特異は、村ぐるみの因習だという。
そんな因習は遡ること数百年まえから始まった。
A村は排他的な地域だったらしい。皆で土地神を祀り、その結びつきから生まれたコミュニティだけで村は成立していた。故に、他者に割って入られるのを厭悪していた。
他人であれば見殺しにする。弱った旅人にも施しを与えず、あろうことか石を投げる。相手が女子供であろうともいたぶり、搾取する。
そんな彼らに、本当に居たらしい神は罰を与えた。鳥の神は村人を一人残らず猫にしたと云う。そして幾人も頭から丸呑みにした。
村は混乱に陥り、家族であろうと見捨て、恋人であろうと裏切り、自らの子供であろうと神に生贄として差し出した。皆、自分が助かりたいが為に。
そんな絶望の渦中立ち上がったのが神社の神主だった。自らの家系を末代まで祟って猫にしても良い。食べても良い。どうか村人には慈悲を、と懇願した。
鳥の神は神主一族を食べようとはしなかった。他人の為に自らの身を顧みない神主に感心したのだ。
熟考の末、鳥の神は後に生まれて継がれてゆく神主の血縁、十三代までにとある呪いをかけることにした。それは、十八になるまで誰からも愛されないままでいれば、完全な猫になるというもの。
神が神主に呪いをかけた翌日、全ての猫が人に戻っていたという。まるで、全てが夢だったかのように。だが、夢でなどなかった。喰われた人々はもう戻らない。
村人たちはなぜか猫の言葉が理解できるようになっていた。それも、全ての出来事が夢でなどなかったことを裏付けていた。
当時、神主は崇められていたという。当たり前だ。自分たちの代わりに不幸になったのだから。
だが時が経つにつれて、時代のうつろいにつれて感謝も薄れていった。
拭い去られた感謝、残ったのは不気味さだけだった。自分たちこそ赦され、神主一族だけが赦されなかったのではないかという者までいたらしい。
神主一族は徐々に孤立していった。だが、神を祀る立場という手前、村から去るわけにもいかない。三毛の家族だけが、神を崇め、恐れ、感謝していた。
三毛は十二代目だという。呪いも終わりに近い。三毛の次で、因習は終わるのだ。
三毛一族を気味悪がる村の中ではもう誰かに愛されることなど不可能だった。だから、先代たちに倣って三毛は村を離れ誰も自分の正体を知らない都会で暮らすことになった。
誰かに愛されるために。
家族からの愛ではいけないという。村人たちは他人を苦しめていたから、その分他人に愛されるような人になりその帳尻を合わせなくてはいけないというのだ。
三毛はあと四週間で十八歳になってしまう。それまでに愛されなければ、猫として生きるしかないというのだ。
では、なぜ?
どうして、三毛はポメと別れたんだろう。
「なあ、三毛。お前なんで–––」
それを尋ねようとしたとき、三毛は換気中だった窓の隙間を無理やり押し広げてそのまま逃げた。
「あっ、コラー!」
店長が追いかけようと窓を全開に開けるが、腹の贅肉のせいかうまく窓枠を越えられない。
「俺が行きます」
「おし頼んだ!」
俺は窓枠を飛び越え、三毛を追いかける。小さな影が木陰を揺らしたのがみえて、俺は迷わず進んでいった。この先は交差点もあれば、見通しの悪い道もある。猫にとっては地雷原並に危険なスポットだ。
小さな影を目を凝らしながら追っていると、通行人とぶつかりそうになる。
「わ、シバ!?」
ぶつかったのはアキタだった。リュックを背負ったジャージ姿。この時間まで練習していたのかもしれない。
「おっ、アキタ! 悪い、俺猫捕まえないといけないんだよ」
アキタには悪いが、今は三毛の方が先決だ。ぶつかりはしたが転んだわけでもないから平気なはず。
と、思っていると後ろから足音が勢いよく迫ってくる。振り返るとアキタが追ってきていた。
「ちょっと、それって大変じゃん! お店の猫なんでしょ? 私も手伝うから」
三毛、水かけたら人の体に戻るとかないよな。もし何かの拍子で人に戻って全裸姿を人目に晒しても俺は知らない。
「わかった、頼む」
見失ってしまった猫影を探すべく、俺たちは公園や住宅街を探した。
「猫ちゃんの名前と種類は? 人馴れしてるなら名前呼んだらでてくるかも」
何と答えようかと悩んだが、口籠もっていても怪しまれる。
「かける、三毛猫」
「わかった。かけるちゃ〜ん」
「カケルチャン〜」
かけるちゃんかけるちゃん言いながら俺たちは三毛を探したが、当然名前を呼ばれても出てこない。
却って遠ざけていることに気づいたときには辺りは人どころか猫一匹いなかった。
「見つからないね」
何度も帰れと言ったがアキタは大丈夫と言って聞かなかった。
「そうだなあ」
「不謹慎だけど、ちょっと楽しいかも。こういうの、私部活で忙しくて友達と遊べることとかないからさ」
「じゃあ、恋人とかもいたことないのか」
「え……も、もう、私にそれ聞く?」
「愛されるとか愛するとか、なんなんだろうって思ってさ」
「うわ、シバが哲学!?」
「うるせえなあ、これでも真剣に悩んでるんだよ」
「シバ、彼女いない歴イコール……だもんね」
「そういうことじゃねえんだってば! そういうアキタだって同じだろ!」
「ん、そうだね」
「愛されるとかさ、自然に起こることで愛されたいからとか、愛されたくないからとか、そいう風に生きるのっておかしいよな」
「私は、そうだね。愛されたいとか、そういう風に思って行動することはないかも。でも、ポメとかは違うんじゃないかな」
「まあ、ポメだもんなあ」
「それも、悪いことだとは思わないけどね。みんなそれぞれの人生があるんだから、結局は他人がどうこう言えたことではないんじゃない?」
なんだか、遠回しに否定された気がして少し言葉に迷った。俺は、俺なりにあいつを助けてやりたい。このまま見殺しにするような真似は、したくない。
時計を見るともう十一時を回りそうだった。時間、そんなに経っていたのか。
一気に自分のワイシャツに滲む汗の感覚や、匂いが雪崩れ込んできた。
夢から急に現実に引き戻されたようだった。
俺、三毛に会ってもなんて言えばいいんだろう。
「おうい! いたいた〜、柴田くん」
公園の入り口から店長が手を振っていた。足元では黒猫が座って毛繕いをしていた。
胸に白い模様がある。一度見たら忘れなさそうだ。
「こいつがなあ、手伝ってくれたんだよ。無事に回収できた〜」
ありがとよと店長が礼を言うと、猫は少し面倒くさそうな顔をして立ち上がり暗闇に紛れていった。
「あれが……前に話してた店長さん?」
怪訝な顔をしたアキタに俺は一つ頷いた。始めてみれば店長は癖の強いおっさんにしか見えないだろう。
「うん、なんか見つかったみたいだわ」
「よかったぁ。じゃあまた明日ね、また詳しく話聞かせてよ」
「送ってかなくていいのかよ……暗いから気をつけろよ〜!?」
引き止める間もなく、アキタは駆けて行ってしまった。
「悪かったね、でも警察に補導されなくてよかった。車で家まで送ってくよ」
「……見つかって安心したからって、少し呑んでましたよね」
ぎくっ、と店長が固まる。
「飲酒運転で店長がお縄にかかるほうが不味いですし、歩いて帰りますよ」
「でも、普段バスで帰ってるだろう……じゃあ、三毛くんと今夜だけ一緒に寝泊まりしていくのは? あ〜、でも親御さん困るかなあ」
「俺片親ですし、それも出張多いんで大丈夫です。でも頑張れば歩いてでも––––」
「よし、もう真っ暗だしやっぱりそれがいいね! 布団一式用意するから、先に欠瑠くんの部屋上がっといてよ」
階段上がればすぐだから〜と一方的に告げて、店長は上機嫌で奥に引っ込んでいってしまった。取り残された俺は、しぶしぶ三毛の部屋に向かうしかなかった。
三毛の部屋はなんの意外性もなかった。ああ、三毛の部屋だなあと納得できるような空間。よく言えば整然としていて、悪くいえば何も無い。普段から己のだらしなさ故とはいえ汚部屋に住んでいる俺にとっては落ち着かない。
壁紙も白、天井にはキノコの傘みたいにちまっとLEDライトがついているだけ。その安っぽい光の下で、三毛は座り込み俯いていた。
「今晩ここ泊まれって言われたけど、いいのか?」
「大丈夫です。会話、ここまで聞こえてたし」
俯いたまま三毛は答えた。
そこで会話が途切れた。ただでさえ静かだった部屋が更なる沈黙に包まれて、俺は再び口を開いた。
「人に戻れたのか?」
ゆっくりと三毛は顔を上げた。三毛の瞳が少し青みがかった黒色なのに初めて気づいた。
「まだ、十八になっていないので……小さな頃は好きなように猫になったり人になったりできたんだけど。もうコントロールもできなくなってきてる」
「……完璧に猫になったら、お前ってどうなるんだ?」
「別に。ただ猫として生きるだけです」
「三毛 欠瑠は、どうなるんだ?」
「さぁ……行方不明にでもなるんじゃないですか? ある日忽然と消えて、段々忘れられていくだけでしょう」
「親は? お前が猫にならないように都会に送り出してくれたんじゃないのか?」
「別に、柴田さんには関係ない! 結局は僕の人生で、最後には僕が決めることだ……ですから」
三毛が語気を荒げるのを初めて聞いた。
気づけば、三毛はまた膝の上に突っ伏してしまった。
返す言葉がなかった。そうだ。俺と三毛は、ただの他人じゃないか。
風呂に入ったあとはすぐに就寝した。それまでほぼ会話ナシ。さすがに気まずかった。だけど、苛立ちはしなかった。俺が、三毛に何かしてやりたいと思っているのか?
たった一晩、いや、数時間で。こんなにも気持ちって変わるものなのか?
まさか、な。でも。
「なんで、三毛があんなに不器用だったのかわかった気がしたんだ」
独り言のつもりだったのに、ベッドに横たわっていた三毛の体はわずかに震えた。そして、壁側を向いていた体をこちらに向けた。
「どういうこと?」
「起きてたのかよ」
「耳、良いので。声が聞こえて起きました」
「……そっか。お前さ。首を押さえつけられて苦しんでるくるみちゃんの声、聞こえてたんだろ? あの時は詳しく聞かなかったけど、事情知ればさ。そりゃ怒るよなあと思って」
「…………まあ」
初めて理解をされて、どんな顔をすればいいのかわからない。そんな表情だった。
たぶん、本当にそうだったんだと思う。誰にも理解されず、三毛は擦れていったんだろう。
「それだけだから」
「それだけ、か」
三毛も、俺と同じように揺らいでいるのかもしれない。明日、朝起きて。昨日までと同じ関係に戻ってしまうのは、この思いが今晩限りになるのは嫌だと思った。
ぶちまけるのなら、今しかない。
「今までぶっちゃけ嫌いで、理解できなかったお前のことがさ、今日。少しだけ理解できた気がしたんだ」
「……理解なんて、されても」
「店長と同じように俺も、お前に猫になってほしくないと思った。俺も、手伝うことにした。いや、だってさ、秘密知っときながらお前が猫になるまで普通に過ごしてるとかさ、無理なんだよ。そんなの嫌なんだ」
三毛が、ぷいとまた壁側をむいてしまった。考え込んでいるようだった。
「勝手にすれば、いいと思います」
「おし! じゃあさ、もう柴田さんじゃなくていいよ。シバで、その代わり俺もミケって呼ぶから。それに敬語もナシ!」
「でも、仕事中は––」
「わかってるって、仕事中以外のハナシ。同級生からずっとさんずけで呼ばれるの気持ち悪いんだよ」
乗りかかった船だ。俺の精一杯の人脈で、どうにか三毛を生存させるべく頑張ってやろうではないか。
きっと三毛が本当に猫になってしまったら胸糞悪い、これはある意味俺自身のためでもある。
「というか。柴田さん……シバ、は。くるみのこと、ちゃん付けで呼んでるんだ。道理でくるみは若干シバのこと苦手なんだ」
「嘘だろ!? おい流石に冗談だよな……? 寝るなって!」
少し布団が震えた。今度は笑っているように見えて、俺は少しだけ嬉しかった。
それから、俺はそこそこ頑張った。
元彼と復縁とか考えたことない!? とポメに迫って思い切り蹴られたり、アキタに彼氏とか欲しくないかと聞いて苦虫を噛み潰したような顔をされたり。
とにかく踏んだり蹴ったりな思いをしながらも三毛を救済すべく動いた。
陰気オーラが溢れている三毛をイメチェンさせようと頑張ったこともあった。
目を離せば人混みに揉まれてゆく、異性に声を掛けられただけで土偶のように固まる、美容師さんに威嚇する。散々だった。
ここで俺は考えを改めた。どんな粗悪商品でも、いかにプロデュースするかが大切なのだと。
俺は宗教勧誘のごとく、兎に角あらゆる女子に三毛を勧めまくった。
その末、立った噂が一つ。
シバ、三毛のこと好きなんじゃね? 説である。
「ね〜え、シバって三毛のこと好きなん?」
案の定である。昼休み、廊下でポメ御一行に囲まれた。廊下を行き来する人たちは二度見三度見しながら去ってゆく。どうか、だれか助けて欲しい。俺と目が合った人たちはすぐに気まずそうに目をそらしてしまう。くそう。
「趣味悪すぎじゃない? あんな陰気ノッポ」
仁王立ちするポメがぼそっとつぶやいた。
「自分の元彼にそこまで言うか……?」
「シバがあんな奴のこと好きだとは思ってない。でも、あんな奴に肩入れしてんのかは知りたい」
「色々あったんだよ、色々」
「その色々が知りたいのよ! なんでよ! アンタだって私が愚痴ってたらうんうん頷いてたじゃない! アンタだって、アイツのことよく思ってなかったでしょう?」
「うん、それは、そうだな……」
あ。
人混みの奥、三毛が俯いているのが見えた。
そうだ。今日は昼休みに教室まで来てもらう約束してたじゃんか。耳の良い三毛のことだ。全部聞こえているに違いない。
「でも……実際。そんなこと、なくてさ」
不味い、もう三毛の誕生日は数日後に控えている。
ここで、喧嘩なんかしたらどうしようもないことになる。
「なに、はっきり言いなさいよ!」
ポメにどやされて、俺は更に口ごもる。
だって、俺はポメのことが好きだった。元彼の話されるたびにしんどくなったりして。やんわりと告白してみても、シバはありえないと笑われて。
数ヶ月前までは、三毛と話すようになるまでは。三毛を妬んだこともあった。
俺に三毛くらいの身長があったら。三毛みたいにクールだったら。そうすれば、俺も。なんて考えたこともあった。
俺は自分に何もないと思っていた。でも、三毛と関わるうちに本当に何もなくて苦しんでいるのは三毛の方だと気づいた。気づいて、しまった。
「あいつ、そんなに悪いやつじゃなくて。猫のこと大事にできるやつだから、別に嫌いじゃないんだ」
三毛が静かに顔をあげてそのまま踵を返す。表情は一瞬しか伺えなかったけど、俺には彼が泣いているのだとわかった。
待ってくれと言う前に、三毛は走り去って行ってしまった。
追いかけようとするとポメの取り巻き二人が立ち塞がる。
「なんで猫の話なんて出てくるのよ。じゃあなに? シバは両方にいい顔していたってこと〜?」
「シバ見損なったかも〜」
「うるせぇ! とっととそこどけよ!」
そこでニヤついていた二人は気圧されたようで、少し怯んだ。
小心者で身長も小さいからって馬鹿にしていたのに、こんな俺なんかに怯んでみっともないやつら! ざまあみろ!
急いで三毛の後ろ姿を追う。が、逃げた先が悪かった。食堂に向かう人の波に抗うように三毛は進んでいっている。
三毛のようなタッパのある奴なら皆進んで避けるが、俺みたいなチビは避けてくれない。どうにか俺の方が人混みを掻い潜って進んでゆくしかないのだ。
三毛も人混みが嫌になったのか、人の少ない渡り廊下の方へ向かうのが見えた。
ラッキーだ。足の速さで言えば意外にも俺の方に分がある。
……だが渡り廊下といえば、そのままグラウンドに行くための避難経路にもなるスポットである。
「あっおい待て!」
そうだ、此処は猫になって逃げてしまうには絶好の場所。
三毛の制服が足跡のように地面に点々と転がっている。
純粋な足の速さで敵わないことを知っている三毛なら、そりゃ猫になるだろう。くそ、盲点だった。
「ミケ!」
塀を越えた三毛の姿は小さすぎて、すぐに見失ってしまった。
三毛が猫になってしまうまであと二日だというのに。俺は頭を抱えるしかなかった。
三毛はその日、学校に戻ってこなかった。俺は慌てて三毛の服や鞄を回収して三毛は早退したのだと先生に言い訳をした。
だが、三毛がどこにいったのかもわからない俺は沈んだ足取りでPOCに向かう他なかった。そこに三毛がいるという淡い期待を込めて。
「三毛君がどっかいっちゃったって、ただでさえ抜き差しならない状態なんだよ?! それも喧嘩なんかして!!?」
淡い希望は一秒と経たず粉砕して。どうしてもっと早く連絡をくれなかったのかと店長に怒られた。酔ってもないのにここまで興奮した店長は初めて見る。
キャットタワーで眠っていた老猫のゴローが迷惑そうに顔を上げた。
「…………三毛の幸せって、どこにあるんでしょう」
「柴田くん、今更それかい?」
「俺、今思えば自分本位だった気がするんです。三毛はよく考えた末に、猫になるって結論にたどり着いたのかなあとか思ったりして、今更ですね」
俺も、逃げたいと思うことはいくらでもあって。消えたいと思った回数だって数え切れない。それが叶うなら、そうする人はそれなりにいるはずだ。
「そんなの、単なる逃げだよ。君を巻き込んで申し訳ないとは思っているけどね、ここまできたら、どうか最後まで欠瑠くんに向き合ってあげて欲しいんだ……頼む」
店長に頭を下げられる。俺は、もうどうすればいいのかわからなかった。
無言が続く中、ゴローがにゃあと鳴いた。いつキャットタワーから降りたのか、店長の足元にすり寄っている。珍しい、ゴローが甘えるなんて。
「いや、しかし、良いんですか?」
途端に険しい顔をする店長に答えるようにゴローがまた一つ低い声で鳴いた。
そうだ。三毛と同じように村出身の店長は猫の言葉がわかるのだ。ゴローは、一体店長に何を言ったのか。
「……吾郎さんは、後悔しているそうだ」
「はい?」
「彼は、三毛 吾郎さん。他ならない、欠瑠くんの叔父さんだよ」
ゴローが真っ直ぐな目で俺を見ている。何かを訴えようとしている、そんな目だった。
「……彼も、自分の出生に嫌気がさしていた一人だった。三毛君と同じように。その末に猫の自由を求めた人だった。
でも、ふと思い出すんだそうだ。自分が人だった頃のことを。もう、戻れない日々のことを。誰からも愛されない孤独を抱えたまま猫になって、人から猫として愛されても満たされることはなかったと。幸せそうな家族、恋人を見るたびに後悔と、悲しみに苛まれると」
まんまるなゴローの瞳が、そのときは悲しみに影っているように見えた。
「欠瑠君には同じ思いをさせたくないと。彼からもお願いだそうだ。誰からも愛されないまま猫になるだなんて、そんな不幸を繰り返させたくはないのだと」
やっぱり俺は、逃げていただけだったのだと改めて気づいた。そんな弱音も、全てゴローに聞かせていたのが忍びなかった。
「すいません、俺が責任取ります。責任とって、三毛見つけ出します」
「もう柴田くん三毛くんの旦那さんみたいだ……頼んだよ」
その日は急遽店じまいにして、店長と二人で三毛を探し回った。
だが、やはりというべきか。結局三毛は見つからなかった。
「ヒトが、ぬこになる……? シバ、お花畑になったデス?」
学校でできることといえば聞き込みくらいだが、そんなマニアックな知識を持っている生徒は一人しか思い浮かばなかった。
「何とでも言え! 何でも良いんだ、知っていることがあれば教えてくれ。頼むよ高校生ナンバーワンのオカルトヲタク」
テリア。暇さえあればオカルト掲示板を漁っている彼なら、何か知っているかもしれないと思った。
「ン〜。デモ、それはもうオカルトではない思うデス、御伽噺みたいなものデス。幻想と、オカルト。似て、非なるモノ!」
「いやいやいや、そこをなんとか」
「こんなコト言いたくない、ダガ……ボクの脳にも、限度、あるマス。もうそんなのケット・シーくらいしか思いつかぬヨ……マジレスするとケット・シーも人っぽい猫デスし」
「ケット? 何だそりゃ」
「神話に出てくる猫の王様ですネ。詳しくはググれ! カス!」
「カス……」
金髪碧眼の男子高校生にカスなんて言われる日が来ようとは。
それにしても。猫の、王様。何か、思い浮かぶものがあるような……。
あ、あの大柄な胸元だけ白い黒猫。
店長に協力して三毛を見つけてくれたという彼なら。あの猫なら、もう一度あいつを見つけてくれるかもしれない。
「おし、体調悪いから早退する、サンキューテリア」
「ノシ!」
ポメたちがこっちを向いてヒソヒソ話しているが、気にしないことにした。何よりも今は三毛優先だ。ポメたちに謝るのも周囲の誤解を解くのも、三毛を見つけてからでも間に合う。
職員室へ行って早退を伝えてから下駄箱へダッシュした。
急いで靴を履き替えようとしたとき、一つの足音が近づいてきた。
「待って」
そこには息を切らしているポメがいた。
「もう授業始まってるだろ? なんで此処に」
「そんなの今は心底どうでもいい!」
ポメがキッとこちらを睨みつける。やられたら絶対に何倍にもして返すポメのことだ。恨み言の一つや二つ言われる覚悟はできている。もう何だって来いだ。
「ムカつくのよ」
「……悪い、でも」
「昼休み、アンタを傷つけたんじゃないかって……傷つけたんだろうなって。ふと思い出しちゃうのが胸糞悪いの!」
ポメが意外と繊細なのは知っていた。何より、俺はポメのこういうところが好きだった。
「アンタがなんでもうんうんって頷いてくれるからって調子に乗っていたことくらい、自分でもわかってる。だから、もう何にでも相槌打たないで。嫌な時は何でも正直に言って、約束して!」
「うん。わかった、明日から気をつける」
とはいいつつ、きっと俺は多少ポメを甘やかしてしまうと思う。彼女の、弱さを知っているから。
「……なら、いい」
これで仲直り、といったところか。後腐れもなくなって、すっきりした。まだ問題は残ってるけど。
「アイツにも、伝えといて。もう何とも思ってないから顔合わせる度にうだうだするのはやめてって」
「そのくらいはポメの口から伝えてやれよ、ポメが直接言ってやってこそ意味があることだろ?」
「う……今日まではうんうん頷いときゃいいのよ、シバの癖に! もう教室帰る!」
ポメはさっさと戻って行ってしまった。
ポメとミケが普通に顔を合わせられるようにする為にも、二人の為にも、俺はミケを見つけなくてはいけない。これが、全てを知っている俺だけができること。
『ボスの力を借りようとしてるのかい』
俺は誰もいない公園でウロウロしながら店長に電話をかけていた。
電話越しの音質が悪い店長に呆れられてしまう。することがあるとかで、店長は件の村に戻っている。
「ボス、なんですか。あの猫」
『……の地域……一番、強いからね。それにとりわけ……だからね、機嫌悪いと……出るくらい引っ掛か、れ』
電波が悪い。聞き逃してはいけない箇所ほどノイズがかかって聞こえない。
耳をこらしても雑音の方が多く、何を言っているのかさっぱりだ。
「声聞こえないですよ! ていうか、じゃあ、なんであのときは協力してくれたんです?」
『そんなの……に、決まって……』
ツーツーと音がして、電話が切れてしまったことに気づく。ああもう、これじゃどうすればいいのかわからない。
俺、いざとなれば三毛がどこに行くのかすら知らなかったんだな。脱力感に襲われ、俺はそのままベンチに腰掛ける。
「ウッ」
喉から絞り出したような悲鳴に尻に当たる柔らかい何か。慌ててその上から退くと、胸元だけ白い黒猫はシャーっと尾まで逆立てて威嚇してきた。
紛れもない、ボスだ。
「ボス様! お願いします、三毛の居場所を教えてください!」
買ってきた猫用おやつをカップに入れ替えて賄賂として差し出しても、腕ごと叩き落とされる。鋭利な爪が肌を裂いて、また血が出た。これで六回目の失敗である。
だが、貪欲で食べ物を無駄にしないボス。俺が次を仕入れてくるまでには地面に落としたおやつを平らげている。
これではわんこそば状態だ、いつになったら満足してくれるのか。
「うう。通っても通ってもキクラゲに忘れられていたあの頃の苦痛よりはマシだ……」
その後も、コンビニの店員さんに何かあったんですかと声を掛けられるほどには手をバリバリにされながらも俺は何度も猫用おやつを買いに行った。
夜、もうコンビニどころかスーパーの猫のおやつコーナーまで全種類買い尽くしかける惨敗ぶりだった。財布も心も絶望的。俺はとぼとぼと公園に戻る。
そこには、もうボスはいなかった。力を失った腕からレジ袋がすり落ちる。
軽く絶望して、そのまま自分まで地面に崩れ落ちそうになる。
「…………にゃあ」
情けなくも泣きそうになる俺の足元に、何かがすり寄ってきた。視界が潤んでいてもトライカラーくらいはわかる。
「ミケ?」
三毛はしゃがみ込んだ俺の腕にも擦り寄ってきた。彼のまん丸の瞳も、可愛らしいのに今にも泣き出しそうなくらい歪んでいるように見えた。
「俺、何もかも遅かった。ごめん、ごめんな……あんだけ大口叩いておきながら、結局何にもしてやれなかった」
三毛は何も言わず、ただ泣きじゃくる俺の側にいた。
それは、三毛が誕生日を迎える二時間前の出来事。
泣き腫らした俺と猫のミケを、帰宅していた店長が迎え入れた。
「あれきり電話何回しても繋がらないから心配したんだよ、本当」
「すいませんでした」
「ボス、グルメで天然素材マニアなのよ。そんで、新鮮なネズミかスズメ以外は好かんのさ」
「ああ……そうだったんですね……」
「何はともあれ欠瑠君を連れ帰ってくれて感謝するよ……最後くらいは、二人で話しなよ、ね」
俺は三毛を抱き抱えたまま二階に上がり、階段を上がり切ったところで堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ごめん、な、俺の……せいだ」
泣き崩れた俺の腕から、するりと三毛が抜け出した。直後、ドアの開閉音がする。
「……別に、シバは悪くない」
扉一枚を通して聞く三毛の声はどこか懐かしい。人に、戻れたんだ。でもこれが最後なのかもしれない。
「僕が弱いから。勝手に、仲良くなったつもりでいて、つけ上がっていた僕が悪い」
扉を開けようとノブに手をかけても、開かない。ノブを向こう側から押さえられているらしい。
「開けてくれよ、何で扉押さえてんだよ。ていうか、お前は何も悪くない」
「そもそも、留目さんと安易に付き合って、別れて。その時点で僕が悪かった。結局、僕も助かりたいがために誰かと一緒にいるのかと思うと、辛くて」
三毛の声も涙ぐんでいる。嫌だ、このまま、ミケを失うなんて。
「僕は、誰かを不幸にしたくない。たとえあと一人でも、呪いを引き継ぎたくなんてない」
助けてくれって、言えばいいのに。一人きりで大きなものを抱え込んで。
俺は、三毛のそういうところが嫌いだ。
「誰かに不幸をつなげることは、本当に愛なのか。わからない。もう、何も」
でも、そんな隠れた優しさや、彼なりの愛を。
俺は好きになってしまったんだ。
時計の音だけが無情に鳴っていた。俺を急かすように、背中を押すように。
「……僕なんかの為に沢山頑張ってくれて、嬉しかった。僕、君といられて」
「––––そんな言葉いらないんだよ! 勝手に終わらせようとすんな…… 大人しく聞いとけば、うじうじ弱音吐いて。
俺、結局お前がどうなってもお前の側にいてやるって決めてたんだよ。猫になっても側にいてやる。学校なんかサボってでも一緒にいる。もう言葉が通じなくなってもいい。話せなくてもいい」
扉の向こうに、煩いくらいに響くように。
「最後までお前を一人にしない」
ミケ、これは、ダメ元でもヤケクソでもないんだ。今、伝えるべき、他ならない俺の言葉だ。
「俺は、お前を愛してる」
カチリ、と一日の終わりと始まりを告げる音がした。
大きすぎる答え合わせの時間だ。俺は思い切りドアを押した。
「わ…………ッ」
シーツを被っただけのほぼ裸の三毛の上に覆い被さるようにして俺は倒れ込んだ。二人でもつれあうように床に転がる。
視線が対等に交わって、三毛の藍錆色の瞳がよく見えた。何もかもかけ離れていると思っていたやつが、今こんなにも近くにいるのがなんだか可笑しかった。
「僕、こんな姿だから会いたくなかったんだけど……」
三毛は涙と鼻水でシーツをぐちゃぐちゃにして泣いていた。俺も泣いていた。
「もうこの際、裸だって何だっていい」
愛が何かはこうして伝えた今もわからないけど。こうしてたどり着いた先にミケの不幸がないことが、俺にとっては全てだった。
「誕生日おめでとう、ミケ」
「…………ッ、うん。ありがとう、シバ。僕も、きっと、たぶん……君のことを愛してる」
本来であれば、今日は彼にとって一年で最も意味のある一日。こうして抱き合って迎えられたことが、今はただ嬉しい。
思い返せば全てが夢のような、嘘のような日々だったけど。
階段の下で、大人約二名は事の顛末を見守っていた。パーティーハットを被りながら。
「……まあさ、三毛くんが都合の良いタイミングで猫になれた時点で、ね。もう解決してたってことなのよね。まあ、ああして二人とも自分の気持ちに素直になれたわけだし、万事オッケーだ」
腕の中で大人しく抱かれていたゴローは、呆れたように一つ鳴いた。
そう、ここはPeace Of Cat
嘘みたいな困難も、悲しいハプニングも最後にはにゃんとでもなってしまう場所。
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