アイ スクリーム
しらす丼
アイ スクリーム
『確かにあの発言はおかしいですよね』
なぜあの時の私は、先輩たちの悪口に乗っかってしまったんだろう。
帰りの車の中で悶々と考えたけれど、その答えは出なかった。
分かったことといえば、私が最低な人間であるということだけ。
ダメだと分かっていても、それをちゃんと否定できない。
心の中で思っていることがあるのに、それをちゃんと相手に伝えられない。
言葉にするだけ、大声をあげるだけ。
たかがそれだけのことを私はできない。
そんな自分が、嫌だ。
「ただいま」
私は重い玄関の扉を開けながら、家の中に入る。
三和土で靴を脱ぎ、床に足をかけるが、もちろん誰からの「おかえり」の言葉はない。家族が誰も帰ってきていないからだ。
まあ仮に帰ってきていたとしても、そんな言葉は返ってこないのが我が家である。
若干の虚しさを感じつつ、小さく息を吐いた。
壁をつたい、電気のスイッチに触れる。パチリというボタン音の後、玄関横の二階に続く階段フロアが明るく照らされた。
思わずその眩しさに目を細める。しかし、数秒もすると目が慣れた。
それから私は、ふらふらとした足取りで階段をあがり始めたのだった。
階段の周りは白い壁で覆われ、人とすれ違うのが困難であるくらいに狭い。
木目調の踏み面は一段踏み込むごとにギシギシと音を立てていた。
最後の一段をのぼり切ると、今度は真っ暗で静まり返った廊下を無言で歩く。
廊下一番奥の左手にある物置部屋に入ると、その部屋の大窓からベランダへ出た。
冷やりとした空気が私の体を包み込む。
少しだけ身を震わせてから、ゆっくりと顔を上げた。
濃紺色の空を月が静かに照らしている。そこには、大小様々なビーズをこぼしたような星が瞬いていた。
それはよく晴れた日の、たまに目にする透き通った夜の空だった。
けれど、その夜空がちっとも綺麗だとは思わない。以前見た時は違っていたはずなのに。
きっと今の私の心が汚らしく濁っているからだろう。
小さな吐息が漏れる。白い。
それから私は足を一歩二歩……三歩進めたところで停止した。
目前には黒く塗られているステンレス製の手すり。私はその手すりに掴まると、視線を下に向けた。
普段、父と自分の車の二台が並んでいるはずの駐車場に、今は自分用の一台しか停まっていない。
そのため駐車場の半分は、タイヤ痕のついた白いコンクリートが剥き出しの状態である。
「頭からいったら痛そう」
そんな言葉を感情なく呟く。
それから首をもたげ、顔だけで右を向いた。視線の先には、このベランダの角に取り付けられている室外機の白いボックスがある。
夏場以外使われないそれは、音もなくただそこに存在していた。
うん。やっぱりアレだよね。
私はゆっくりと近づいて、右足左足の順でその室外機の上に乗った。
恐る恐るその場で立ち上がり、また視線を下に向ける。たった一メートルぐらいだろうが、先ほどよりも見える景色が変わった。
「おお。あんがい高いな」
でも、その方が都合が良い。
冷気が頬をヒヤリと撫でていく。もうすぐ冬が来るんだなあと他人事のように思った。
今年の冬は特に寒いらしい。けれど、私には関係のないことだ。
それから視界の端に入っていたステンレス製の手すりに、ゆっくりと足をのせていく。今度も右足左足の順だ。
手すりは円柱を横にしたような形をしていて、足をのせるのには少しだけ苦労した。
両足を乗せ終わり、バランスを取るために右手側の雨樋に手をかけ、そこから見える景色を一望する。
「何も、見えない」
落胆の吐息とともに、そんな言葉を吐いていた。
以前までこのベランダから見えていた夜景が、目の前に建った新しい家のせいで見えなくなったのだ。
最近の私は失ってばかりだ。
綺麗だと思っていた自分の良心も、美しいと感じていた景色も。
そんなことをふと思う。
「もう、疲れちゃったよ。こんな見せかけの美しさしかない世界なんて。心底うんざりしてるんだ、私は」
誰にともなく、ぽつりとこぼす。
ずいぶんと長い間、職場の人間関係に悩んでいた。家族との不和にも苦しんでいた。
「だから、もういいよね」
空を見上げる。たぶん、神様に確認するつもりだったのかもしれない。
しかし神様はおろか、晩秋の夜空も素知らぬ顔をしたまま何も答えない。
お前の命なんてどうでもいいんだよ、とでも言われているようだ。
「そっか。わかったよ」
もうなんでもいい。どうにでもなれ。
そして私は、右手を放すつもりでいた。命を手放すつもりでいた。
しかし――なぜか金縛りにでもあったように私の身体は硬直し、そこから動けなくなってしまう。
「なんで……もう嫌なんでしょ。うんざりなんでしょ。だったら、早く終わらせようよ」
言葉でそう言い聞かせても、身体は言うことを聞いてはくれない。
「なんでさ。どうしてなの。こんなどうしようもない世界なのに。なんでまだ生きたいって思ってんの。これからもずっとつらいだけじゃんか」
目の奥で何かが急激に流れる感覚がし、そのまま眉間に皺を寄せる。すると、その瞬間に目尻から何かが溢れ出た。
夜目がきかない私には、それが何か確認できない。けれど、歪んだ視界にそれが涙だと察した。
それから私はいつの間にか掛けていた足を降ろし、冷たいベランダの床にしゃがみ込んでいた。
「私、なんで……」
嗚咽の混ざった泣き声は、静かな夜空に流れていく。誰に届くこともなく、きっと消えてしまう声なんだろうなと悲しく思った。
「つらいのに。苦しいのに。誰も、私のことなんて見ていないのに」
この世界がもう嫌になったはずだった。
でも、こんな世界にまだ何かを期待している自分がいることに気づいてしまう。
「助けて……お願いだから、誰か私を助けてよっ!!」
私は、叫ぶ。
しかし、その叫びが誰かに届くことはない。
それでも私は叫び続ける。
馬鹿な話だけど、誰かに気づいてもらうことを期待して。
アイ スクリーム しらす丼 @sirasuDON20201220
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